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セイカツとイケン - IN SHINANO -

2010-01-24

掃除

掃除をしようかと思っていたら思い出したので、忘れないようにメモしておく。

毎度お世話になっている(?)内田先生のブログから


兄の次の夢は伊豆の山中に別荘を建てることだそうである。

海を望むガラス張り広い部屋にピアノとオーディセットと書棚と寝心地のよいソファを置いて暮らすそうである。

「毎日何するの?」と私が訊いたら、兄は当たり前のことを訊くねえお前は、というように訝しげな表情をしてこう答えた。

「掃除だよ」

http://blog.tatsuru.com/2009/06/07_1532.php


こういうのがいい。掃除しよう。

まちあに

パートの美大生が展示をしているというので横浜 赤レンガ倉庫へ。合同展示だが作品数も多く面白い。その中でも知り合いの美大生の作品は異彩を放っていた・・・。風刺が効いており、毒が底流していてインパクト大。私は嫌いではない。

ついでに横浜美術館で行われている束芋「断面の世代」展へ。いきなり横浜美術館の入口を入ったら真っ暗だったので驚いた。束芋ワールドに一気に引き込まれてしまった。束芋の作品は一貫してシュール。でも、行く前に抱いていた印象とは違い、全てにおいて抜きん出た作品によって新たに傷(印象)をつけられた。感想を書く。


素人目で見て束芋がスゴさを評すると“総合力”であるように感じた。アイデア、技法、細かい作業、作品の見せ方、会場の使い方、アニメーションなどなど、どれか一つでも優れていれば成り立つであろうに、その全てが注ぎ込まれ、かつ全てが一線を遥かに超えている。

技術でもアイデアでも、どれか一つだけが秀でているとそこだけが浮き上がってみえてしまう。例えばもの凄く細かい線で緻密に書かれた絵は、その労力は見えるものの“ガンバったで賞”になってしまうし、アイデアが優れているだけの作品ならば“そうくるかぁ〜”と唸るだけになってしまう。それでもいいのだが、束芋の各作品はそれら全てを網羅し渾然一体となって迫ってくる。

あくまでも描かれているのは“あるかもしれない現実”なのだ。おばけや妖怪ではなく、人間について。だから作品がシュールなのではなく、シュール(現実かもしれない)を受け入れられない鑑賞者を想定した一回転半回しの術(の一回転分)。あるかもしれないがあってはいけないようなものを「ほれっ」と見せられているようだ。

束芋の術中にハマってしまうと鑑賞者は逃げ出したくなる程の忌まわしさや恐ろしさ、そういう類いのザワザワした気持ちに苛まれる。それは見てしまったものに対してだけでなく、「でも、これってあなたがやっていることですよね(笑)」と、見せられたものが実は自分にも当てはまるのではないか?という無意識に感じる多角的な視線(もう半回転分)。

会場を後にすると変わらない現実。だが、あるかもしれないがあってはいけないようなものがあるかも?自分かも?と思わせられる新たな傷(印象)をつけられる。


私が抱いた印象はこんなところだ。面白かったし、怖かったなぁ〜。