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古文雲子春秋 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-02-15

王必図

今日聞いた話

昨年pixivで行われた三国志大戦TCGカードイラストコンテストだかいう企画で王必を描いた人がいたらしい。

王必ウォッチャーの私でもさすがにpixivで王必を検索したことはなかったので知らなかった。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=28388777

かっこいい(恍惚)

私が想像する王必はマリオみたいなちょびひげののおっさんだったのでこんなにかっこよく書かれているとは……。

これは統率98、武力86、知力91、政治100、魅力∞ですわ。


このコンテストの優秀な作品は実際にカード化されるらしかったが、この王必は選考漏れの模様。

かなしいです……><

2012-03-14

于濤『実録三国志』での王必の評価が高い件

積ん読処理ということで于濤(鈴木博 訳)『実録三国志』(青土社 2008)を読んでいる。

中国研究者による三国志の研究本だが、王必の評価がやたら高くてびびった。

まず曹操献帝のもとに王必を派遣したことを4ページ強に渡って触れ*1、最後に次のように述べている。

曹操がこれほど周到に対処できたのは、かならずや初平三年における長安の形勢についてきわめて緻密な理解を有していたからにちがいない。(略)現在、目にすることのできる、当時のこまごました歴史の情景を記した断片からみると、王必が使命をまっとうして戻ったからこそ、曹操はやっと長安の形勢を知ることができたのである。(p207-208)

曹操がその後の献帝奉戴だとかに成功したのは、このとき王必がしっかりと長安の様子や献帝の様子など必要な情報を集め、曹操に伝えていたからなのだ!


また、許都城内の警備についての話で、

曹操が任命、派遣した腹心の王必は、(略)兵を率いて許都城に駐屯して守備した。(略)曹操の腹心として「披荊棘吏」〔苦労して新しい道を切り拓いていく者〕と称えられた曹操の丞相府の要人が、建安年間に長期にわたって政権の中核から離脱していたのは正常ではない。合理的な説明は、王必が許都を監督、管理し、かたときも離れられなかったということしかありえない。(略)王必の身分が領長史〔兼任長史〕、すなわち丞相府の職務を兼任していたが(略)王必の本官は後漢朝の官で、もっぱら許都の警備をつかさどっていた可能性が大きい。(P257-258)

とある。

ここで于濤氏は許都が軍事的に管理され、三重の警備があったとしている。

そのうちのひとつである許都城内の警備の責任者を、王必が長きにわたり勤めていたというのである。


これを総合すると王必は献帝奉戴とその後の献帝掌握に関して非常に重要な役割があったといえるのだ。

王必いなかったら魏なんて国うまれなかったんじゃね?


世間に流布する書物にここまで王必を評価するものがかつてあっただろうか。*2

これは王必に関する正しい評価である。

これほどすごい人物なのに三国志12で王必が出なかったらさすがにびびるわ。

もし出なかったらみんな新武将エディットでつくるんだぞ☆

※最低でも武力70統率70知力80政治80魅力100以上の能力にすること

*1:当然董昭だとか鍾繇の話が含まれる

*2:ネット上にはいくつか存在が確認されている。あのブログとかこのブログとか

2012-01-29

王必コピペ

28日、魏の武帝曹操の書いたとされる古体詩が発見された。

詩は17句796文字、曹操の部下であった王必を悼んだもので王必に対する大きな信頼と愛情が伺える内容となっている。


以下に原文を載せる。

王必!王必!王必!王必ぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!

あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!王必王必王必ぅううぁわぁああああ!!!

あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん

んはぁっ!王必・丞相長史たんの漆黒ショートの髭をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!!

間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髭髭モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!

献帝春秋の王必たんかっこよかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!

李傕達に殺されなくて良かったね王必たん!あぁあああああ!かわいい!王必たん!かわいい!あっああぁああ!

演義でもキャラ立ってて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!!

ぐあああああああああああ!!!許都で反乱なんて現実じゃない!!!!あ…耿紀も韋晃もよく考えたら…

奴 ら は 故 吏 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!

そんなぁああああああ!殺してやる!!漢臣なんて殺し…て…え!?見…てる?主簿の王必ちゃんが僕を見てる?

主簿の王必ちゃんが僕を見てるぞ!王必ちゃんが僕を見てるぞ!国の良吏の王必ちゃんが僕を見てるぞ!!

心如鉄石の王必ちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!

いやっほぉおおおおおおお!!!僕には王必ちゃんがいる!!さよなら呂布!!ひとりでできるもん!!!

あ、従事の王必ちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!!

あっあんああっああんあ薛悌ぃい!!ば、萬潜ー!!金禕ぃいいいいいい!!!厳匡ぅううう!!

ううっうぅうう!!俺の想いよ王必へ届け!!丞相長史の王必へ届け!


 古体詩に詳しい戸塚大学教授大熊重乃氏によると「5句目までを起部、6句から8句は承部、9句から10句は転部、11句から17句は結部。起部は王必の容姿に対しての叙情的な形容となっており、承部は起部での容姿の称揚に対し、王必の功績を称えその能力にも称賛を加えている。転部では許の反乱と王必の死への直接的な感情が描写され、結部では死を受け入れられない曹操の強い感情と存命中の王必の活躍への感謝とが入り交じった複雑な思いが表されている。」という。

 一方で曹操の作であるということに対し否定的な見解もある。

中国古代史に詳しい赤門大学教授の坂上田森麻呂氏は「文中にある演義は明代に成立した三国志演義のことを指している。曹操が演義のことを知るはずはない。」としている。

同じく中国古代史に詳しい百万遍大学教授の藤原武智武智氏は「日本語なのがそもそもおかしいだろ」と今回の企画を鼻で笑った。


※明らかだけどこの記事はフィクションです。実在の人物・団体等とは関係在りません。

すごく適当な記事なので細かいところに突っ込まないでください><

2011-12-06

曹操政権における丞相(司空)長史

三国志研究会会誌『鶏肋譚』に載せたものをほぼそのままあげてみる。

 長史という官職がある。実は大変重要な官職であるのだが、いまいち知名度が低い。

長史は現代日本でいうところの省庁事務次官クラス。大臣を除いた省庁のトップである。さらにいえば丞相長史は内閣府の事務次官というわけだ。この論考ではその役割を確認した上でその重要性を説く。それとともに丞相長史王必の知名度を上げていきたいと思う。どちらかというと後者を目的としている。

 まず、漢の官職についての書物『漢旧儀』には長史について次のようにある。


『北堂書鈔』巻第六十八 設官部二十の引く『漢旧儀』

太尉・司徒長史、秩比二千石、号為「毗佐三台、助鼎和味」。其遷也、多拠卿校也。

訳:太尉・司徒長史の秩禄は二千石、三台(三公:太尉・司徒・司空)を補佐し、三公の調和を助ける。その任免は普通、大臣の考査によって行われた。

ここで挙げられている太尉・司徒長史の基本的な役割は、

1三公の補佐

2三公間の調停

であり、任命は各大臣にゆだねられていたようだ。

この長史の役割は太尉・司徒府のみのものではなく、長史一般に共通したものとも考えられてよいかと思われる。

 次に、曹操の長史となった人物を推定年代順に見ていく。

1、劉岱曹操と同郷の予州沛国の出身。時期は不明だが、司空長史として征伐に同行し、功績があったので列侯に封ぜられた。曹操が司空であった建安元年(一九六)から建安十二年(二○七)の長史であり、最初期の人事であると思われる。

2、薛悌・王国、薛悌は東郡、王国は東平国の人であり、どちらも曹操の初期の根拠地である兗州の出身である。曹操の冀州平定後(建安十年(二○五)頃)にそれぞれ左長史・右長史となった。

3、陳矯、徐州広陵郡の人。司空の掾属となったあと、いくつかの官職を歴任し曹操の東征時(おそらく建安十三年(二○八)の赤壁の戦い)に丞相長史となった。

4、国淵、青州の楽安国の人。はじめ司空掾属となり、曹操の関中征伐の際(建安十六年(二一一))、居府長史として留守の事務を統括した。

5、徐奕(一度目)、徐州東莞郡の人。曹操の馬超征伐に従い(建安十六年(二一一))そののち長安近辺の鎮撫のために丞相長史として長安に留まった。彼はのちに再び長史となる(後述)。

6、徐奕(二度目)、5に続き二度目。曹操の孫権討伐の際(建安十七年(二一二)あるいは建安十九年(二一四)?)留府長史に任命され、留守を預かった。

7、萬潛・謝奐・袁霸、萬潜は兗州の人で、曹操を兗州牧に迎えた人物。謝奐は詳細不明。しかし、文帝期に朝廷に忠実であったが、先に亡くなってしまったとして、国淵や徐奕らとともに哀悼されている。おそらくは彼らと同程度以上のキャリアがあったと思われる。

袁霸は予州陳国の人。彼らは建安十八年(二一三)、曹操へ魏公就任を進める署名に長史として名を連ねている。

8、杜襲(一度目)、予州潁川郡の人。丞相軍祭酒などを経た後、丞相長史として張魯討伐(建安二十年(二一五))に同行、平定後も督漢中軍事として漢中にとどまる。

9、劉曄、揚州淮南の人。司空倉曹掾となったのち、張魯討伐時に曹操の主簿となる。漢中から帰るにあたり(建安二十(二一五))行軍長史となった。

10、王必、兗州の人。兗州従事として曹操に仕え、曹操献帝への貢献の使者となる。当時権力を握っていた李傕に殺されかけるが、鍾繇のとりなしもあって役目を果たす。曹操献帝擁立への第一歩は王必によって踏み出されたといっても過言ではない。のち主簿となる。呂布を捕えたときには、縛られている呂布から縄を緩めてくれと頼まれた曹操が迷っていると、「危険だから」といって諌めた。この言がなかったら、曹操は逃げ出した呂布により殺されていたかもしれない。建安二十三年(二一八)丞相長史として、許を預かる。金禕らの反乱がおき、手傷を負いながらも鎮圧。しかし、その傷がもとで死んでしまう。なんという忠義であろうか。曹操も王必をたいへん信頼しており、王必の死を知って怒り狂うと、漢の百官を虐殺したという。(※王必の所だけ詳しいとか字のサイズが大きいなどといったことは決してありません。)

11、辛毗、予州潁川郡の人。兄が袁紹に仕えていた関係から司空曹操の招聘に応じられず袁紹―袁譚に仕えた。袁譚の和睦の使者として曹操の元へ行く。のち議郎となっていたが、曹洪とともに下弁平定に派遣され(建安二十二年(二一七))、帰還すると(二一八年か?)丞相長史となった。

12、杜襲(二度目)、8に続き二度目。定軍山で夏侯淵が劉備に敗れると(建安二十四年(二一九))留府長史に任じられ長安を鎮守した。

さて、この曹操の長史であるが、次のようなことがわかる。

2や7から、同時に二人以上の長史がいた時期があることがわかる。『漢書』巻十九上百官公卿表 によれば、丞相には二人の長史がいたという。また漢代には丞相長史が三人以上の時期もみられる ことから、丞相の職務の拡大に合わせて人数も変わっていったものと思われる。

また、その出身を見ると黎明期の根拠地である兗州および曹魏の人材の拠点ともいうべき予州の人物が多い。州の従事や司空・丞相府の掾属といった曹操の直接の属官であった人物が長史となる傾向がある。

そして、長史の職務には次の三種類があったと考えられる。

一、征伐に同行する

1や8などがそれである。

二、留守を預かる

4・6・10などがそれである。

三、不安定な地域の鎮撫

5・12などがそれである。

一と三の職務は関連しており、はじめに丞相の補佐として征伐に従い(一の職務)、平定後も不安定であった場合、そこに留まって丞相曹操の代理として鎮撫にあたった。(三の職務)

また、丞相の代理という観点から、二と三の職務に関連を見いだせる。

このように、丞相長史の役割は、丞相の補佐、そしてその代理である。平常時は補佐として丞相府の事務の統括を行い、非常時には征伐に参加、時にはその代理としてたいへん重要な役目を果たす必要があった。

そのため、曹操との個人的な信頼関係が重視され、古くからの幕僚である兗州人や、曹操政権の中心であった予州人が多く就任した。記録上最初の司空長史であった劉岱が曹操と同郡出身であることは印象的である。

今回の論考は曹操時代の長史の記述の整理といったところで、深く研究することはできなかった。今後はさらに史料を読み込んだり、他の時代や勢力との比較検討によって、権限などをより具体的に考えていきたい。

追記

一晩で作って完成度も低いので留府長史、行軍長史、丞相長史の三種の区別には全く触れていない。

留府・あるいは居府長史は丞相である曹操と離れて行動してる傾向がある気がする。

行軍長史は三国志に一例しかなくよくわからないが、名前から行軍に関して責任があったように思われる。

この区別は正式のものではなく役割りに合わせて便宜上のものだったのかもしれないね。

2011-11-02

三国志研究会at早稲田祭2011

三国志ニュースさんでも紹介していただきましたが

http://cte.main.jp/newsch/article.php/2202

早大三国研、今年の早稲田祭に参加します。

テーマは

※ただし顔良(イケメン)に限る

ということで、たぶん官渡とか関係してるのかもしれない。

遠く離れていたのであまり聞かされてないというw

まあ行ってのお楽しみかな。


場所は16号館の307教室

日時は2011年11月5日土曜日、6日日曜日各10時-16時


初級〜上級そして三国志大戦の四種類あるクイズ。

なんか学校の世界史のテストみたいな感じに気合が入ったつくりでびっくりした。

そして圧倒的に呉のことを知らない私は上級がさっぱりだった。


何やるか聞いてないけど研究発表もあるみたいです。

そして、鶏肋譚という会誌も販売します。いくらか知らないけど参考価格として例年は300円でした。


鶏肋譚には私の書いた「曹操政権における丞相(司空)長史」という論考ものります。

また王必かよという罵声とおお王必か!という歓声が聞こえてくる気がしますが、また王必です。

曹操の長史を整理しただけで、特に新しいことは言っていないし、今思えば最初の一章いらなかったなとか、最後に王必について付け足すの忘れたなとか、いろいろ後悔するところはあります。


まあよかったら買って読んでね。

ちなみに私はまだ日本に帰ってないので会場で会うことはできませんが、読んだかたついったーとかブログに感想くれるとうれしいな。


まあ今週末時間があって東京まで来れるかたや近郊の方はぜひ足をはこんでくださいな!