呼ばれたのかな…

天使の分け前(26日。テアトルシネマ)→ジャッキー・コーガン(スカラ座)→LAギャングストーリー(29日。吉祥寺バウスシアター)→モネ・ゲーム牧野邦夫―写実の精髄―展(30日。練馬区立美術館)→シュガーマン 奇跡に愛された男(1日。K’s cinema)→ディスコ・レボリューション→きっと、うまくいく(武蔵野館)→LOVE展 アートにみる愛のかたち(4日。森美術館)→ポゼッション(5日。シネマサンシャイン池袋)→マニアック→グランドマスターとみまして、もりのは貴婦人と一角獣目当てで乃木坂行ったら館が休みだった腹いせにしかたなくみただけだったんですけど、わりとおもしろかったんで書いとく。ラブ展覧会ということで「愛」に関する言葉やらブツやらをアレコレいじくってる美術作品がちまちま集められてまして、とりあえず愛の言葉をネオンサイン化したトレイシーエミンさん作品に特に顕著なんですが、あのテの告白言葉てリアル告白場面なんかで使うと結果がどうあれ少なからずドラマチックになるものですけども、告白時につかう言葉部分だけを抜き出して商業デザイン化した挙げ句デカデカと飾り付けるとたちまちアメ横で叩き売ってる感しか感じられなくなるものですね。ハート型を過剰にでっかい立体作品にした系のではハーストとかクーンズの作品がありますし、恋人同士の光景を描いた系の絵ではマグリットとかキリコあたりなんかもちまちまと出てたり。わりと有名どころの作家の作品が多いんですけども、それより映像系とか音声入力系の現代美術作品が面白かったな。最初のほうの展示にある、やくしまるえつこ真鍋大度+石橋素+菅野薫によるLOVE+1+1て音声入力作品で、お客さんが吹き込んだ声からまんま電子歌謡がしぜんとつくられる参加型作品があったんで「うんこ」て吹き込んだら「うんこなめるよ」歌をつくってもらえたので、じゃあと思って「ビチグソ」吹き込みしたら「ビチグソとばす あなたに似たよ ビチグソもらす いつもの道よ」ていう素敵な歌詞ソングが響き渡った。ちょっと他のお客さんが来そうだったんで急いで最後に「アナル」吹き込みしたら「アナルさしでる アナル いれるよ もう 迷わずに」てもらえたのでよかったのですが、なんか…機械がてきとうにつくるアレだからもっと支離滅裂な内容になるのかと思ってたんですけども、ちゃんとふきこまれた単語と関連した内容文の歌詞になってるとこがすごいですね。裏方にだれかいてとっさに入力してんのかと思うくらいちゃんとしてた。あれうしろからお客さん来なければもっとたくさんふきこみたかったのにな。残念だった。もっと長文だとどうなったんだろうか。就寝時に悔しく思った。その後は有名どころの絵なんかをへーほーとみてたら杉本博司コーナーに平安時代につくられたという十一面観音の木像があってさ。間近であんな古い仏像みれておトクだったな。あれたぶん入ってるんじゃなかろうか。ところであの十一面観音像、頭部の小さい突起部分が顔になってなかったな。わざとなんだろうか。しかしあの観音自体の顔の造形はとってもたおやかだし端正で見応えがある像だったよ。だれがつくったのかね。十一面観音像はなんか心中モノの文楽人形がセットになってた。曾根崎心中が流行したころって、なんか好き合ってる同士が社会的制約(当人の意思ないがしろなまま親類間協議で勝手に結婚相手が決められてしまう)でいっしょになれないことへの抗議の意味もあって心中が流行したんだそうですね。ここらへん微妙にインド映画(あとでかく)に見受けられた「子の意思と親の思惑」ネタとかぶるかんじ。あと個人的にうれしかったのがデヴィッド・シュリグリーのブラーPVが出てたあたり。シュリグリーてアマゾンで洋書検索してたらただのラクガキにしかみえないのにけっこうな値段の画集とかでてるってなにー!!て思った人なんですけど、そのうえで映像作品までつくってたりしてなんなんだ。内容としては愛し合う異物同士が引き裂かれて以降なんであれ愛し合うモノには邪魔が入ってゆく…的な光景がやる気のないラクガキ絵でつづられてく的なアレなんですけど、絵柄としては一見とにかくダルい的な脱力系風味なんですが、映像をよくよくみてるとカエデの種が木から落ちてくるありさまとか、なにげなくリアルなんですよね。くるくるまわりながら落ちてきたりして。このヒトてやっぱ「うまく描けるのに描かない」系の玄人なんだろうか。それとはじめてみて面白いなーと思ったのがエンタン・ウィハルソさんというインドネシア出身?の作家さんなのかな。そのヒトの描いた「インドネシアの支配的社会」を諷刺したという、神話キャラなんかをごたまぜに人体化さした絵とか変わっててよかった。なにがどうなってアレが生み出されたんだろうか。誰も操っていない混沌とした中から生まれるモノはやっぱり予想を上回るおもしろさがありますなー。なんかさー創作物を規制したがる政治屋とかってつまるところ「これまで発生してきた創作物や文化はすべて自分の想定内のなかで生まれた」とでも思ってるんですかね?それこそ文化そのものを見くびってるしバカにしきってるよね。特に日本みたいなちっさい先細り国家なんてこれから自家製美術や芸術を大事にしてかなきゃならんくらい苦しいことになるかもしらんのにさーデカい国に媚びへつらうを優先するあまりに個性削るを至上とするとかどんだけ頭悪いんだ。なにぶん活断層の真上に建てた原発みて大喜びしてるレベルですので何もバカは今にはじまったわけでもないんですけどさ。政治屋の何も考えていない土地いじりがらみで余談ですが、寺尾さんとか永久保さんの実録霊漫画よんでると「古墳や神社潰して古来の神様の道を遮るようにつくった公営住宅に霊が出まくって体調こわす人続出」ネタとかわりとあるんだけども、大山神社の神様ねえ、あの住宅どけさせたいんだったら国土交通省の上のほうをどんどん祟っ殺してく位しないと頭固い官僚は動かねえと思いますよマジで。首相周辺とか伊勢神宮あたりに参拝しててさも日本の昔ながらのアレを大事にしてますよー的にしてるわりにそうゆう古墳潰しとかなんとも思ってないふうな政策を(特に自民党が)平然と続けてきてるあたりどうかと思いますよ。マジに大事にしてるかどうかって某光ってる方達はちゃんとみてますからな。えーと愛の展にもどしますけども、なんか今展でも暖簾で区切られたエロコーナーがあって、江戸の若衆文化と称してやたら巨根の春画なんかもでてましたが、それと隣り合わせでナン・ゴールディンのリアル痴話喧嘩事後写真(DV被害女性の顔面とか…)や荒木経惟の亡くなった奥様との赤裸々旅行写真がずらりと並べられてるあたり誠実ですな。絵で現された「性ファンタジー」と「現実の性」が同列になってて。ところで浮世絵は下半身の性器ぐあいはリアルなんですけど(でもちんこはどう考えてもデカすぎる)、おっぱいはぜんぜんどうでもいい描き方だったなー。まったく性の対象ではないってかんじに簡素なへのへのもへじ程度のてきとう描写なんだよな。現在の男子たちのおっぱいへの執着からすると滑稽なくらいぞんざいな扱いなんよ。ふしぎ。あと作品リスト上のワッソー・X・ワッソーとR・ヴィジェイ作「収斂」のとこに「うおー」とだけおいらの書いたメモがあるんだが、これさっぱり覚えてないな。どんなんだっけ。なんか金箔使いの三連祭壇画らしいんだけど。なんもわからん。すまん。ヘンで面白かった系だとソフィ・カルが彼氏からもらった別れの手紙を各方面の芸術家に読ませて、その文面から想起された感覚を作品としてあらわしてもらったやつわろた。「彼氏から手紙もらったんだけど意味わからないんで色んな人に渡してみました」(笑)自分の私生活に関するひどいことをグッとこらえて美術家にあらわしてもらうってのいいすねー。パフォーマンス系の映像のではカルさん彼氏からの手紙よんだバレエダンサーが、唐突にくちゃくちゃに丸めた手紙をトゥシューズの先っぽにぎゅうぎゅう詰め込んでから突然踊り出してパターンて倒れたり、舞台女優さんが読みながらびりびりに破ったり、射撃手にパーンて撃ち抜いてもらったり、インド舞踏のヒトが長々と踊ったり、手紙を差し出された鸚鵡がくちばしで受け取ったかと思うとかじりやぶって細かく破いたあと、なにかブツブツつぶやいてから激しくヘッドバンギングしたり、マジシャンが手紙を2枚にふやしたりしてた。カルさん以外の映像モノではアービディーンつうおっさんが自己啓発本よろしく「愛を確実なモノにする52の方法」を延々としゃべってる的なのがありましたが、なんかうざかったのでよくはみず。あーそうそう、映像作品で会田さんの前カノが五輪真弓の「冗談〜だよと〜わらぁあ〜ってほしい〜」をバックミュージックに流しながら会田さんを延々と暴行する映像があったよ。よかったですね。あとは岡本さんの絵なんかもあったな。あの腕リボン風絵はなんか愛に関わるもんなんだろうか。あとフリーダカーロの原画はじめてみたな。なんか家系図的な絵だったけど。こまかくて丁寧な筆致だなーと思った。芸術作品をつくるうえで「自分を正直にだす」を突き詰めると私生活の原点である自画像や家族となるのだけども、それフリーダカーロくらい世界的に有名なヒトならまだいいんだが無名な画家の顔面が描かれてる絵に赤の他人が大枚はたくかつーとちょっとむずかしいんだよな…。例えばどこのなんだかわからんホームビデオに数万だせってちょっとむりだろ。牧野邦夫なんかもその系列でさ、牧野さんが自画像ばっかし描くもんでそれじゃ売れないって画商のほうはげんなりしてたらしいんだが、あるとき牧野さんが帽子に刺さった花束的な絵を描きはじめて、これなら売れるよー!て画商さんはよろこんでたそうなんだけど、あとになったらその帽子の下にまた牧野さんの顔が描かれてて、あー…また売れないやつかー…て画商さんがガッカリした旨会場説明に書かれてた。牧野さんは画家としての腕はすごくイイのにどうも自分自身を描かずにはいられなかったんだな。フリーダカーロは傷ついた自分も見世物としてだすことを覚悟してたあたり痛々しい。女性の美術家で自分の傷をどんどん見世物にしてくのを覚悟してるヒトはすごいよなー。愛展でもそこらへん顕著だった。家族写真風味といえば1804年に描かれたジョン・コンスタブルの「ブリッジス家の人々」ていう家族肖像の油絵があったけど、あれはキレーに描きすぎててお人形さん感が強かったな。生活感やリアルさを削ぎ落とした家族絵ってマネキンみたいになっちゃうのな。気になった家族絵ではデヴィッド・ホックニーの両親を描いたのもあった。ベーコンもそうだったけど、ホモ画家さんの油彩画はどうも色彩のきれいさ・あざやかさが際立ってるふうなのが多いように思うんだが、あれはなんか理由があるんだろうか。そこらへんに敏感なヒトが多いんだろうか。展示が恋人→家族ときて流れ的に老後作品になってましたが、リチャード・ビリンガムさんがアル中のお父さんを撮った写真がなんとなくユーモラス克つ物悲しいかんじでよかった。ねこが跳び上がってたりした。老後作品では折元立身さんがアルツハイマーの母上にいろんな扮装させたりした写真とかも「ユーモラス&物悲しい」全開だった。老後系作品はどれもなぜかそういうセットなかんじだった。どっちか片方じゃなく、どっちもが混在してるかんじで。そういえば被災後の福島をゆく映像とかもあったな。ぼんやりといろいろみれておもしろかった。シャレにならん系のではザネレ・ムホリさんの南アフリカにおけるレズビアンたちの境遇についてのドキュメンタリー映像がひどくてかわいそうだったな。なんかそういう性癖への理解がまだぜんぜん広まってなくて、「レズは男とヤれば治る(←一時的な病気とみなされている)」的な迷信がまかりとおってて、それを理由にして強姦してくる男とかがいるらしい。あと家長制度への挑戦とみなされて迫害されがちなんだとかやってたな。その映像は20分くらいなんでみれるんだけども、ジョンレノンのは73分とかなんで他に予定くんでる場合はちょっと完全視聴むずかしいかも。映像以外では森淳一さん作の樹脂でつくったらしいマリア像とか(あれ遠目でポップコーンで出来るのかと思った)、アルフレッド・ジャーさんが撮った三陸津波で破壊された建造物写真(日本以外のヒトが撮った、てのが大事なのかなとなんとなく思った)とか。あ、映像モノでなんとなく面白かったのがシリン・ネシャットさんの「熱情」て作品で、あれは中東が舞台なのかな。男側と女側の映像が並んでいて、それぞれ同じ指導者らしきおっさんの演説を聞いてる中なんだけども、微妙に動きが違っていて映像中のある1組の男女がそれぞれを気にしてるんだけどもどうにも出来ずに過ぎ去って行く…的なかんじの映像。字幕がないんで話はよくわからんかったけど、なんか気になる映像だったな。出入り口付近の展示では草間彌生さんの黒丸のついた突起物のある鏡部屋が面白かった。蓮コラとかキモがられるけど、草間さん作品としてみると面白いしキモいとは感じない不思議。むしろきれいです。いちばん最後の部屋には初音ミクコンサート映像が流れてましたが、あれもまあ面白いんですけどその脇にちょこんと展示されてた、ソニー提供の菱形のちいさいガラス箱の中で踊る立体スクリーン初音ミクが可愛くてよかったな。立体ホログラム、ようやく実現できてきたんね。もうちと開発すすんだら某美術家さんにつくってもらいたい作品があんだよな。あのかんじからするとガラスに囲まれた中のを外側からみる箱庭的な状態のしか今はまだできないみたいなんで、もうちょっと思い切った方向でがんばってほしいんだけどなー。愛展に関しては個人愛から家族愛までちゃんとやってる誠実な内容でしたよ。気楽にたのしむが吉ですよ。
『獲物をみつけた群衆がいかに残酷になるかは、よく知られている。憐れむと言いつつ、近親姦がないよりあったと考えたがる人の心、恩赦を願うと言いつつ、彼女の首が胴体と離れる瞬間を見たくて押し合いへし合いする人の心。矛盾に満ち、怖い。』(怖い絵 死と乙女篇 p.110より抜粋)
シュガーマンは1960年代に流しで自作の歌うたってたロドリゲスというヒトの歌が、本国のアメリカでは鳴かず飛ばずだったにも関わらず何故か南アフリカで国民的な大人気ソングとなっていて、その歌つくったロドリゲスさんがその後どうなったのかを追ったドキュメンタリーなんですけど、このロドリゲスさんのつくった歌の歌詞内容はおもに麻薬密売人や職にあぶれた底辺労働者の悲哀をつづったふうな、いわゆる社会派方面のアレなんですが、メロディがねえ、えーと…ブルースほど重たくなくて、ちょっとカントリーくさい軽快さがあるというのかな。それを男にしてはキー高めの声で歌うという。物悲しいカントリーみたいなかんじ。なんか、重たい歌詞に反してメロディがやたら単調なんよね。今こうして単体でじっくり聞けば悪くはないのだけども、1970年に差しかかろうかって頃のアメリカみたいに色んな激しい音楽が花盛りな地域ではちょっと地味に聞こえて埋もれちゃうだろうね…。んでそのロドリゲスさんの社会派ソングがなぜか南アフリカで大ウケしていて、なぜかというと当時の南アフリカは人種差別が色濃くのこってるころで、市民はそれに抗議したかったんだけども政府から色々弾圧されて表立った抗議活動ができずに歯がゆい気持ちを味わってたとかで、そういう状況の中でたしかラジオかなんかでロドリゲスさんの社会派ソングが流れだしてからどんどん人気に火がついてったとかなんとか。社会状況いかんで「受け入れられるにちょうどいい歌」てのがあるんだなーと思った。どんなに傑作であっても、その時の「大衆」が受け入れられる状態なのかどうかってのがアレコレ揃っていないと見向きもされなくなったりするっぽい。先進国でイマイチ売れてない歌手さんの歌、途上国のラジオなんかで流してもらうと意外な発展があったりしてな。わからんけどさ。なにしろロドリゲスさんの社会派ソングが当時の南アフリカの大衆のココロをグッとつかんだということはたしかだったそうで。当のロドリゲスさんはどうしてるのかというと、なぜか南アフリカの巷では「ロドリゲスはステージ上で公開自殺した」とかいうほんとかどうかよくわからん衝撃伝説が語られていて、それがマジならロック史上の大事件じゃねー?!ということで真相をさぐってく方向になるんですが、どうもわからんのでとりあえず牛乳パックに尋ね人広告でだしてもらったところ、ロドリゲスの実の娘さんからメールが…という展開に。結局ロドリゲスさんはアメリカでふつうに暮らしてて、でも南アフリカで大人気なんて知る由もないんで教えてあげたらよろこんでとりあえず南アフリカでツアー組むことに(つーか現地のヒトに招待されたんだっけ)。実際いってみるとスタジアムに満杯のお客さんから大歓迎されてた。スタジアムライブ、全公演完売だったらしい。ロドリゲスさんはよろこんでいたものの、ステージ上でもまったく物怖じせずに弾きこなす肝っ玉の座りよう。ロドリゲスさんは社会で報われずにいるヒトたちのために何かしたいと思っているヒトで、音楽の才能というよりも「(底辺の悲哀なんかを)伝えたい」のほうが大きいから、情感に訴えるふうなメロディをつくることにはあんまし興味がなさげだった。だからこそつくった音楽が売れなくてもそれで挫折して根性曲がっちゃうようなことはなくて、ずっと色んな仕事しながら淡々と暮らしてたっぽい。あと、ちょっとこれは蛇足かもしらんのだけど、各人にとっての「うまくいく土地」と「うまくいかなくなる土地」てのがあるんだよねー…。これ、ちょっとオカルトがかった話なんでそうゆうの興味ないヒトはスルーが吉なんだけども、前々から「行っただけで腹が痛くなる場所」てのがあってさ。もしかして土地にも人との相性があるんじゃないのかなー…と思ってたらこれ調べてもらって納得した。今まで行ったとこで胃腸・子宮が痛んで歩くのもままならんみたいな場所、全部自分にとってまずい場所だった。それと逆に「ぴったりの場所」てのもあって、おそらくロドリゲスさんにとってのぴったりの場所が南アフリカだったんじゃないのかなと思わずにいれなかった。そこにいくとね、すげえ気持ちいいの。なんもしてないのに。心地よく過ごせるし、楽しいことがあんのよ。その各人にとってどの場所がどうかってのも細かくてちょっと素人にはわからないんだよな。ロドリゲスさんの場合、デトロイトがあまり相性がよくなかったとしてもそもそもの歌がつくれたのはそこの土地事情と出会いがあったからなんだよね。それがなければ歌もできなかったわけで、なんというか、つらいけど仕事のためにいるといいところとか、なんか分類がいろいろあんのよ。でもこういう基準に囚われすぎると自由な発想がしづらくなる可能性もあるんで、参考程度にとどめとくが吉だとは思う。カートグラフィではじきだされたもんは限りなく正解な気もするんだけども、基本的に「今日はなんとなくコレやりたい」的な己の勘のほうを優先する姿勢を貫く、を絶対基準としてないとカートグラフィのデータ至上になりすぎて肝心な時に大事なことが判別できなくなりかねない恐れがあるよ。カートグラフィね、はじきだしてもらうんだったら「これまでの人生で起きた重要イベント」の発生日(たとえば長く勤める事になった会社の就業日とかブログの開始日とか)をより多く正確に控えてからいったほうがいいよ。そうでないとはじきだす場所とかが全部ズレてはじき出されちゃうらしいので。ちなみにおいらが予約した日、ちょっと予約時間に早かったんで待ってたら真弓さんの部屋からアタッシュケース抱えたスーツ姿のリーマンなおにいさんが出てきた。仕事でガッツリ利用してるヒトもいんのな…。でも、まー…ふつうに己を信じて生きてるヒトはほぼ全員「自分にとっての大事な場所・ヤな場所」は既に判別済みだと思うし、なにもカートグラフィに頼らずとも生きてりゃ誰でもなんとなくわかるモノだとも思います。
ディスコ・レボリューションは社会派ソングばかりだった1960年代の風潮に飽き飽きしたアメリカの大衆がだんだんとファンキーなディスコ音楽に傾倒してった過程を追ったドキュメンタリー。テレCMなんかで必ず一度は聞いたことのあるなじみ深いメロディの原曲がいっぱいでてくるよ。基本的にディスコ音楽てのはクラブで踊るのにちょうどいい音楽を指してたんだったかな。当時のクラブは黒人さんとか同性愛者とか、当時のアメリカでは異端だったヒトたちが憩う場だったそうで、とりあえずアングラな場てことになるんかな。そこで流行ってたのがどんどん巷にも出回り始めて、最終的に頑としてディスコ音楽をかけようとしなかったラジオがその流行に屈してしまったことで流行に火がついたんだったか。80年代に入るともう流行りすぎて猫も杓子も状態になっちゃって(セサミストリートまでディスコ風味だしたりしてたらしい)、飽和状態になったところでディスコ音楽撲滅集会(スタジアムに満杯)的なのが開かれ出したりして、結局そのディスコ潰そう会の根には黒人や同性愛者を嫌う人種差別思想があってのことだったんですけども、その後はさすがに大衆もディスコ音楽に飽きはじめて、以降は90年代にむけてロックが復活してくとゆう。といってもディスコ隆盛期にはロックのほうもディスコ風味の曲なんかをわりとつくってたらしいけど。ロッドスチュアートとか。ぜんたい映像中で使われてる音楽がゴキゲンな曲ばっかしでみててすごく楽しかった。ディスコ音楽が隆盛しすぎて女性の黒人歌手が使い捨てすぎてひどかったとか、当時稼いでたヒトが体験談語ってたりして面白かったよ。そういえば1960年代あたりまでホモといえばなよなよしたオネエタイプてのが通説だったらしいんですけど、ビチビチの短パン履いてるヒゲでムキムキの男5人組のビレッジピープルというグループが出てきていろいろな常識を打ち破ったらしい。ビレッジピープルは一応コミックバンド的なもんなのかな。そうするとゴールデンボンバーとかの大元て基本的にビレッジピープルなのか。
ジャッキーコーガン、そこらの娯楽映画では1秒くらいで済ませるようなシーンを、スローモーでエレガントに映すようなひと味ちがう映画だったよ。たとえば賭場の強盗の手引きをしたと勘違いされた(んだよな?)レイリオッタが、殺し屋のブラッドピットによって脳天に弾丸ぶちこまれるシーンとか、頭部が粉々になって窓にめり込みつつ飛び散ったブツ1コ1コがゆっくりと克つ美しく丁寧に撮りあげられています。あとあの痩せこけた鶏みたいなヤク中さん目線映像よかったな。ラリってる主観でふうぅぅぅ…て光の世界に入ってゆく麻薬中毒の視界がしつこく展開されてて好感。あんな始終ラリってんのに組織の賭場のアガリ狙うとかムチャしすぎだろ(笑)むしろあんなんだから軽くやっちゃったのか。全体的に裏街道の連中がくだらん話を延々と続けるあたりはチーノのパルプフィクションぽいかんじだったよ。やーこんなマニアック映画だったとは。テレCMタレ流れてたからまたピット売りのお決まりアクションかなんかかとばかり思ってたよ。もっとはやくみりゃよかったなぁ。これ(特に犯罪者主人公系統の)犯罪小説好きにはたまらんのじゃないだろうか。
LAギャングストーリーは白黒映画時代の色鮮やかなハリボテ感覚がやたら濃厚なビジュアルだった。ピザボーイの監督さんなのかー。うーん。ピザボーイはコミカルふうだけどわりかし容赦ないつくりで好感だったんだがな。コミカルな作風が今作で吉と出なかった感が…。なんつーかこう…あのこれみよがしな鮮やかハリボテ感が男版宝塚みたいな紋切り型のアレにみえてしまったふうな。脚本がそもそもそんなふうだったのかな。ジョシュブローリンが暴力ふるってるのがみれたからまあいいですけど。なんかショーンペンが可哀想だった。いじめないでほしかった。
ポゼッションはエミリーローズ以来の実録系ホラーで思わぬ拾いもんだった。こういうの大好物。正直ゆってフッテージよりずっと怖かった。話としては娘がガレージセールで買った古い木箱に悪霊が入ってて、それに体のっとられた娘によって家庭崩壊してくっつーホラーものでは定石のスジではあるんですけども、この木箱てのがまあ実在してるらしくて、パンフにその件が書いてあります。実際に関わったヒトの症状まで事細かく書いてあるよ。虫の蔓延は実際にあったらしいんだけど、映画中で描かれるデカい蛾のくだりはアレ眷属てことなのかしら。箱んなかに蛾の死体と歯がおさまっててさ。この実在の木箱てのがディビュークの箱というユダヤ教でもハシド派の術者かなんかが封じ込んだもんらしくて、パンフにでてるロサンゼルスタイムズにでた記事の末尾にはユダヤ教の簿記係のエデリーさん談として『この災難を終わらせるためには、10人の礼拝者か祈祷グループを交えた正式なユダヤの埋葬が必要だとしている。』て書いてありますけど。なんだろうなー。寺尾玲子さんにまかせれば即解決しそうな気がしなくもない。こういうのて大抵ケモノ霊がらみだったりすんだけどどうなんだろ。映画のほうでは老女的な霊がエミリーさん(完全実録映画エミリーローズもエミリー名だ!)の右肺に入り込んでましたけどね。エミリーさんが鏡みたときに喉の奥から悪霊の指がでてくるくだり気味悪かったな。映画ではユダヤ教のヒトが、これって教えに反するんだけど…とか渋りながら祓いにきてくれるんだけど(つーかもとはあんたらの関係者がつくったもんなんだからあんたらで処理すんのが筋だろ)、エクソシストでも思ったけどなんでこのテの悪霊系ホラーで出てくる神父みたいな「対処キャラ」て微妙にヘタレなんでしょうな。寺尾玲子さんのような無敵キャラがでてきちゃうとそこで話が終わっちゃうからか。ちょっとヘタレのがうまいこと長引くから適材適所なんか。そうですか。ところであの映画中の老女霊は永遠にこの世にいたいがゆえに人間に取り憑いてしまおうとしてんのかな。いっぺんアガったらもうたぶんこっちこれないからなんかな。あと親が体育界系の家族に憑くあたり、わかってやってんだろうか。どっちかゆうと文系よりも霊方面の知識なさげだから対処も遅れるだろうしな。そこらへん把握してたらすごいな。
グランドマスター…。なんか…CMで流派のナンバー1を決定する大会が開かれる…!的なのを見聞きしたふうな気がしたんですけど。べつにやらないんですね。そもそも中国拳法映画にロマンスとか期待してないんですが…。せっかくチャンツィイーはカッコイイ(さすがちゅーごくの大竹しのぶ)のにな。あと駄目な少女漫画でよくある「胸から上しか描いてない」ふうな撮り方比率多すぎなのと、遠景ショットが少なすぎていつどこにいったのかぜんぜんわからん。あのキャストでイップマンの監督さんが撮り直したらいいんじゃないのかなーと思った。
マニアックはイライジャウッドの無駄遣いだった気が。シンシティの冷血なサイコパスのようなカッコよさはみじんもなかったな。