敗北した側を善とすると妬みも善となってしまう件






相手の言動を取り消させようとする人てのは「傷つけられた」腹いせに原因となった存在を抹消(=屈服)さすことで怒りを発散させようとしてるんだろうけど、自分の心の状態を変えられるのは自分だけなので、いくら他者を消し去っても自分を変えないかぎりは永久に傷ついたままだと思うがな。ここらへんからして「傷つけられたくない」てのは「自分を変えたくない」て言ってるようなもんだよね。自分が考えを変えさえすれば大抵の悩みはなくなると思うけど、その心の安定基準を自分じゃなく「キリスト教」の教義とすることで「キリスト教に許されさえすれば心が安定する」のだと思い込ませてきたんだな。なんつーか自分自身の心の安定に対する責任を自分が負わず、キリスト教に丸投げしさえすればよい、的に思い込ますことで信者集めをしてきたというか。キリストが自分らの責任をぜんぶ負って死んだんだー!的に責任放棄思考を正当化さす手法が客寄せになる、て気づいたヒトがすごいよ。総本山が是としてきたキリスト教思想中の「地獄で死を生きるべく決定された罪人たち」てのは「法王庁が許さないかぎり許されない(=自分ではどうにもできない)」と思い込んで勝手に苦しんでる人たちで「天国に永遠の生をゆるされた、祝福された魂」つーのは「すべての人は生まれながらに祝福されてる・悪人などいない(=自分次第でどうとでもなる)」と気づいたヒトのことなんだろね。「バカものの天国は地獄より危険」とか書いてあるけど絵をみるにつけ至極平穏そうで、逆に天国(=生まれながらに祝福されてると気づいた状態)を避けさせたくてゆってんのかと思ってしまうよ。そんな思想が横行してる中でもヒト以外のもんの描写も手を抜かなかった画家たちは教会側の意向とは関係なく森羅万象の平等を自ずと表現してたり哲学者なんかも平等理念をだしてたというのに大元に「罪人はキリスト教会が許さないと許されない」的な発想があるもんだから、結果的に分裂した状態で適用されたりしてるのなあ。キリスト教のねじまげ具合についてさんざんカキましたけども、上記にだした画像の説明から察するに、欧州の西側あたりでは昔いろんな人種が入り交じった状態で、おそらく思想も文化もごたまぜだったろうから、それらをひとまとめにして納得さすにはキリストの教えをねじまげてちからづくでどうかするような思想をつくりだす必要があったのかもしらん。荒くれがひしめいてる地域では「オレが許さなきゃお前は許されない」くらいしないと反省させらんねーから、てことで人間性を根こそぎ否定するレベルの教義を編み出さざるを得なかったんだろうね。あつかましさをフル発揮した後に発生するうしろめたさをどう処理するかとか、あつかましい人を反省にたどりつかすにはどうしたらいいのか、てのに頭を悩ませた時の支配者が、即効性があって克ついちばん激烈な手法として「あつかましい人はすべて罪人」的に人間性否定しちまう=ひれ伏させる(ことで「あつかましくない」人の卑屈な心根を満足させる)ことで穏やかさを推奨していったのだろうけども、それって人間に備わった暴力性やあつかましい個性の否定であって、差別そのものなんだよね。あつかましい人を罪人呼ばわりするのを聞いてほくそ笑む思いを抱いた人がキリスト教の信者になるんだろうな。それと暴力ダメつーけど、天下統一した家康だって原爆落としたアメリカだって暴力で平和つくりだしてんじゃん。暴力循環ばかり起きていっこうに平穏をもたらさないハンパな暴力行為が問題なのであって、平和をもたらすきっかけとしての暴力は必須なんじゃねーの?神話でも神仏てあつかましい同士で戦ったり、領土とったりとられたりしてるんだよね。じゃあ領土ぶんどられていいのか!つーけど、他国の植民地になったとこで繁栄してた香港だのインドだのって「むしろ統治されてたい」ふうだったしな。領土を取られる自体はさして問題じゃなくて、その後に平和統治してくれるかどうかがいちばんの問題なんだよね。なんか…これまでのキリスト教思想からすると「領土ぶんどるようなあつかましい人」を罪人視するのを推奨してたっぽいんだが、それって領土とられた後の支配内容についてなにも考えさせなくするよね。「失敗を遠ざける理念」が失敗後にどうあるべきか何も考えさせなくするようにさ。権力者側は市民から反発くらうなら自分の政策がハンパな証拠だし、市民側は権力者に無視されるようならそれは自分らの言い方が悪いんだよ。「反発されんような仕事をする責任」と「無視されないような声のあげかたをする責任」をそれぞれが果たせばいい話。自分がうまくできないからっていちいち権力者や市民を憎んでたら、いつまでたっても自分を磨くところまでたどりつけなくなっちまうよ。相手が動かないなら動かすような言動をこちらが仕掛けるほかないんだよ。そうやって責任を各々がちゃんと負う精神性があればこそ、上記画像の「敵をつくらない勝利」が実現されてくんじゃねーのかな。そういう爽やかさって罪人を許さないとするキリスト教思想からは生まれようがないよね。領土とられて文句いうのもさ、後手に回った人の負け惜しみなんだよな。先手打てなかったことに後から文句ゆったってはじまらないよ。学校での勉強てそうやってうまくやるために自分磨きさすのが本来的な目的じゃねーのかね。なにしろ自分の考えを変えさえすれば理不尽なことを言いつけてくる人とだって楽しく付き合えるようになるんですよね。あつかましいヒトを穏やかな性質にねじまげさす必要なんかないんだよ。あの性質は善でこの性質が悪だなんてそんなバカあるか。この世にあるもんはすべて尊いと言えない時点でじゅうぶん差別的だろ。
ところで永久保さん夫婦とその周辺をしきりにディスってる人のたむろするスレがあるんだが、永久保さんが気になってしかたがないんだな。マジに嫌いだったら俎上にすらあげたくないてなるはずなんだが。この前のホンマでっか特番で悪口ばっかいう人は対象のイイとこもたくさんわかってるんだってやってたなあ。逆にホメてばっかいる人は心のなかでは悪口が渦巻いてるんだってさ。前述スレで書き込みしてる人は永久保さんの奥さんの容姿と学歴を再三けなしてるんだけども、容姿と学歴の良さを是とするのってバブル期の価値観だよね(イケメンで高学歴ならけなさないって優生思想じみててキモいな)。おいらなんてどっちもねーから仮に有名人なったら総攻撃されんだろな(笑)そういやおいらの通ってた高校て3B(バカ・ブス・仏教←笑)で有名だったからその点自信はある。永久保さんの絵については最近のが洗練されてると思うがなあ。シンプルでいいよ。まあたまに顔が崩れてたりするけど。脂がノッてる時期から外れた作品がイマイチなのは歌手でもなんでも同じなんでそこディスってもしかたないと思うがな(そもそもおいらと過去世のヒトビトが永久保漫画を介してつながった時点で霊的な意味でも重要な存在であることが証明されてるようなもんだしねえ)。あとアマゾンの客評で「三角形など幾らでも出来る」とか書かれてるけど、ふつうに三角形はできても二等辺三角ができる点てそうはない気がするけど。ところで仏教が女子校格付け的視点からするとマイナス要素とみなされるのって「(お経が)暗っぽい」「正座」「ハゲ」とか、おもにビジュアル面での陰気イメージからなんだろうけど、仏教はハナから備わってるもんに気づかせることで穏やかさを導きだす方向だからヒトにやさしいんスけどね。仏教に否定的なイメージ抱くヒトは単純にセントグレース大聖堂的なビジュアルに憧れて教会での結婚式とかやりたがるんだろうが、そっちはハナから備わったもんを否定するとこからはじまる差別前提のキリスト教思想が下敷きになってるんすよ。ビジュアルイメージと教義内容が真逆なのはなぜなんだ。まー単純に「白っぽいか黒っぽいか」てだけなんだが、人間性否定教義の側が白で覆われてるビジュアルなあたりからして詐欺師が善側イメージだけで固めてるのと似通ったテイストをかんじずにいれませんな。