2023年発行やおい同人誌ベスト20

1位 はだかの心臓 どうせ、おたがいさま

ジャンル:スラムダンク 作者:へらへら

学生時代の宮城と三井が両思いながら初セックスに至るまでの不器用なさまが微笑ましい前半と、渡米後にエロ慣れした宮城が三井の前立腺を刺激してコマぶち抜きで射精させるシーン、エッロ!!セックスの合間にたびたび言い合いになるシーンに入るのが笑えるし、自然で上手い。

 

2位 S

ジャンル:鬼滅の刃 作者:はいのこ

元縄師だった美術教師の宇随天元が、片思いしている同僚の煉獄杏寿郎に緊縛絵のモデルになるよう依頼したのをきっかけに煉獄が縄酔い体質であることが露見してエロ展開になってくのもエロいが、現役縄師である宇随弟に天元とはまたひと味違う縛りを味わわされて開発されてく煉獄がエッロ!!「気高き精神と淫らな肉体の共存」を体現する煉獄の乱れっぷりが見どころ。原作キャラをキャバ嬢にしたりして遊ぶのは同人誌にはよくあるんだが、はいのこさんは特にそれが深くて上手い。今後もいろんな世界に鬼滅キャラをはめ込んで遊んで欲しい。上手い作家さんの同人誌ほど読むと頭がCP固定されてしまいがちなんだが、はいのこさんの作品みて以来煉獄さん攻の本を見る気が失せてしまったよ。どうしてくれんだ。

 

3位 OPPOSITE EDGY COLORS VIVID ADDITIVE MIXTURE

ジャンル:ブルーロック 作者:ボンバー太郎

凪誠士郎と馬狼照英がお互いにいがみ合ってマウントの取り合いしてるうちになんとなくエロ展開になってくあたりが自然で上手い。容姿も性格も俺様系の馬狼が攻かと思いきや自ら上にのってちんぽを受け入れる展開新しいなーと感心した。おまけ漫画で馬狼がメイド化してるので基本的に受キャラなんだな。凪は可愛い顔しててぼんやりしてそうなのに、実はガサツでズケズケ物言いしてくる攻キャラっぷりが楽しい。

 

4位 イージー★マーダー★ショウタイム2

ジャンル:オリジナル 作者:速水くろ

殺し屋稼業3人の内のひとり、フランソワがなぜ筋者の男に執着するのかが残酷描写たっぷりに描かれる本作は激しいトラウマの癒し方などそう簡単には手に入らないんだよ、という現実を描いているようで恐ろしく面白い。それに付き合うジルは鬼畜でなければ務まらないことを体現していて、戦慄するエロさ。こういう同人誌あると嬉しくなる。 

 

5位 毒を喰らわば

ジャンル:呪術廻戦 作者:菖蒲

虎杖悠仁と両面宿儺が伏黒恵を犯す作品をずっと描き続けている菖蒲さんの描く昔話モノ。鬼神の生贄として差し出された伏黒を虎杖と宿儺が救い出したのちに、伏黒の身体についた呪いを祓うために精を注ぐ必要から伏黒を2人で犯す。奴隷として生きてきた伏黒は舌も足の健も切られていたが、宿儺が復活させて3Pに。犯されすぎた伏黒のちんぽからは「変な水しか出ない」し「腹もいっぱいでもう飲みきれない」状態になってるところがエッロ!!

 

6位 性悪上司が無能部下に性的に堕とされる本

ジャンル:オリジナル 作者:海苔巻がむひこ

他人を蔑み見下してのし上がって生きてきた白鷺が、鴛鴦という部下に脅され、酷く犯されるうちに鴛鴦なしではいられない体になっていく過程がエッロ!!ある揉め事で鴛鴦がそばからいなくなったのち、欲求不満になった白鷺が女とのセックスで発散しようとしたが勃たず、仕方なく自慰で済まそうとするも鴛鴦との強烈な性交が体と心に染み付いていて射精できず、おそるおそる尿道に異物挿入をしてメスイキしてしまう。その後は街で出くわした鴛鴦に浮気を問い詰められた流れで犯されるわけだが、元来あった人を押しのけて生きてきた加虐性が、自分の欲求を満たすための被虐性愛に転換するところが遺憾なく描かれています。 

 

7位 勃たないヤリチン元ホストがハマるとヤバい男に監禁される1ヶ月

ジャンル:オリジナル 作者:すめし

タイトルが全てを物語っています。ツラの良さと枕営業で歌舞伎町のナンバーワンホストとして君臨していた怜央がある日EDになり逃げるようにホストを辞めて会社員として過ごしていた時に成史に会い、治療名目でエロ行為をされたらED治ってラッキー❤︎とばかりに女漁りしたらまたEDを発症、再び成史の治療を受ける羽目に。今作は成史所有の海外の別荘で監禁されて主に道具責めされて勃起不全が治ります。おまけ漫画で女体オナホールで怜央がオナるシーンがあるんですが、それ見ながら成史が「ほんっとにノンケって情けなくて可愛いですよねぇ」て発言するので、ノンケ男性の皆さんは要注意です。 

 

8位 裏垢尾形加筆修正再編集版

ジャンル:ゴールデンカムイ 作者:前歯

現パロもので、素人がセフレ探ししてる裏垢SNSで尾形百之助がハメ撮りしてる映像を杉元佐一が見つけてしまい、会いに行ったらそのままラブホに行くことになる話。夏場のムレムレな杉元の肉体を尾形がまさぐったりしてウブな杉元が恥ずかしがるところが可愛い。ふたりは体の相性がとてもいいので、杉元は「俺だけじゃダメか?」て尋ねるものの、尾形は「他人に干渉されんのもヒロイズムのダシになるのもうんざりなんだよ」と杉元のまっすぐな愛を歪んだ自己愛でかわしてしまう。尾形は誰かとヤるたんびにアタリかハズレかで相手を評しているので、杉元と関わることでそれが変化するのかは次作の見どころですな。

 

9位 1936 此岸にて 【再版】

ジャンル:オリジナル 作者:かすがいネジ げすちゃん

第2次大戦前のドイツで、天から落ちた天使ニコラウスがナチスの高官ルトヴィクに拾われて何不自由なく育ってゆく過程で、生命の死や性に触れてこの世の悲しみを学んでゆく話。伯父のコンラートに強姦されて「愛し方」を知ったニコラウスが、同じことをルトヴィクに行い、気持ちはいいのに完全にはつながることができないことに泣くシーンがかわいそうでエロい。この話の前後に成人したニコラウスがアメリカ人のおっさんとヤるシーンがある。

 

10位 闇に寄す<破>

ジャンル:ゴールデンカムイ 作者:これなが(けだま)

鶴見中尉と月島基が両思いで初セックスに至るまでを丁寧に描いた良作。「お前が、内に密かに飼っているその火 昏い闇の中にちろちろと輝く火だ…俺にはそれが眩しい 俺はその眩しい火の光に 時折眼を焼かれてしまうのだ(中略)この火を消したくてたまらなくなる…」と鶴見は告白し、月島は戸惑いながらも鶴見の激しい感情を受け入れようとする。セックスまでに近づいてゆくふたりの心理的距離感が危うくて良い。

 

11位 同居人に家賃の代わりにチンポを提供してもらったらハマっちゃった話

ジャンル:原神 作者:いちのみるく

ノンケ男性がアナニーしてるって現実にあるのかな?今作では理屈を並べて相手を論破するアルハイゼンが、家賃のないカーヴェから家賃がわりにちんぽを提供する提案をされていざヤってみたら予想以上に気持ちよくてハマってしまう話ですが、乳首やアナル開発されて徐々に受として自覚してくくだりがエロい。「気が強いやつはアナルが弱いって言うけど本当だったんだな」てカーヴェ談。アルハイゼンはいちいち男に犯されることで敗北感を味わってるけど、現実の男性もそうなのかしらね。

 

12位 ウラガワ

ジャンル:ヒプノシスマイク 作者:わたあい

観音坂独歩が何かにつけてオナニーする話。前半は違法マイクとの試合の影響で謝罪するたんびに射精してしまって何かが目覚めそうになってげんなりする話で、中盤は連勤疲れを買い漁ったオナホールでオナって発散しようとする話、後半は営業でボロ病院にきたら閉じ込められてしまってホラー的現象が起きまくってテンパった独歩が「性的なこと=生命力であるから霊的存在とは対極にある」発想からとにかくエロ!エロいことを!とばかりに人体模型をオナホにしてヤったり、検尿カップにオナって出た精液を入れたりと兎に角オナる。オナる男をたんのうしたい方向け。 

 

13位 メス乳首少年と乳搾り職人おじさんのまとめ本

ジャンル:異世界日帰り漫遊記 作者:すん

乳搾り職人のおじさんがツカサ少年の乳首を開発するくだりが丁寧に描写されててエロい。後半にはちゃんと本番行為もあるのでそれも丁寧です。 

 

14位 薄明

ジャンル:ゴールデンカムイ 作者:U

月島基が鯉登音之進のエロい夢を見続けて苦悩するも、実は鯉登のほうも準備万端じゃないか!的な展開で鯉登が天然でいちいち煽るので我慢ならなくなった月島が乱暴になるところがエロい。

 

15位 ドシロートコミュニケーション

ジャンル:スラムダンク 作者:篠崎きょうこ

人前ではケンカばっかしてる流川楓桜木花道が人目のないところでは激しいセックスする間柄だったとゆう話。独占欲強めの流川に激しく犯される花道がエロい。 

 

16位 ぜんぶアンタのせい

ジャンル:スラムダンク 作者:さばの味噌煮

三井寿の誘いに宮城リョータがタジタジするもだんだんノせられて本番に突入してく様がエロい。最初は積極的な三井が、宮城にヤられるうちに涙流してヨガってしまっている痴態がいいすね。

 

17位 有るべうもなし泡沫の

ジャンル:鬼滅の刃 作者:オツ

不死川実弥が半鬼化した不死川玄弥を誘われるまま犯す話。実弥が鬼を殺す際の高揚感に囚われて玄弥を犯し、自分が鬼畜であることを自覚するシーンがイイ。 

 

18位 100回メスイキしないと、出られない部屋。

ジャンル:呪術廻戦 作者:マンボ

伏黒甚爾と虎杖悠仁がそれぞれ欲求不満になったところで「部屋」に2人同時に入れられる、毎度お馴染みな展開。甚爾の強引なセックスでメスイキしまくる悠仁がグズグズエロい。 

 

19位 【再販】鬼殺隊見聞録ー再録集2ー

ジャンル:鬼滅の刃 作者:茉莉

柱のメンツが出てくるコメディもの。エロなしだが絵も上手いので載せておく。鬼滅映画がいかに売れたかこの同人誌を見ればわかる。 

 

20位 触手[番い適性検査報告書]001

ジャンル:オリジナル 作者:紺ノ由

数ある触手モノの中でもかなり丁寧に男を嬲ってたのでランキング入り。 

 

【総評】

スラダン映画によって狂ってしまった方々がたくさんエロ同人誌を描いた年でした。体育会系の精力の強さ。総数は他の人気ジャンルと比べて少ないのに、内容が粒ぞろいで大変よろしい。呪術廻戦は原作者が魅力的なキャラを次々に殺してしまうため、熱心なファン達がどうにか!どうにかキャラが幸せになる世界線を・・!!とばかりに同人誌でバッドエンドではない展開を繰り広げまくってたのが印象的でした。まあ同人誌て元来そういうものですよね。心残りは東京リベンジャーズの良さそうな同人誌がまったく手に入らなかったことです。

 

・エロ創作物に関するひとりごと

「描いてはいけない表現がある」てのは「存在してはいけない人間がいる」てのと同じ意味に思える。以下の文章はこれを前提にしています。

創作物に於いて、例えば殺人性癖をもつ人間がいるから殺人描写は一切してはいけない、などと言う人はいません。なのに、小児性癖を持つ人間がいるから小児エロ描写はしてはいけないという論調が公然とまかり通っています。「わたしの性癖はいいけどあなたの性癖はダメ」という論理はこれまで繰り返されてきた差別そのものです。殺人性癖に関して言えば、角幡唯介さんという冒険家の方がイヌイットと同じ生き方をしていくなかで、狩りによる殺しが楽しいという感覚を見出してしまったそうです。殺しの娯楽感は原始の時代からあるもので、現代社会ではそれがわからないようにされているとおっしゃっています。小児性癖に戻しますが、子供への性的感覚は多くは思春期前あたりに周囲にいる同性や異性に対して抱くもので、おそらくそれが生涯にわたって心を支配してしまう側面があるのではないかと思っています。だとすれば、小児性癖を抱く人間はいつの時代も一定数生まれ続けることになる。どう対処すればいいのか?創作物で発散する方法があります。性的暴力、性的搾取、空想の世界であれば大いに結構。現実でやってはいけないことをやるために創作の世界がある。表現の自由とは精神の自由でもあります。創作物の世界では描いてはいけないことなどなにひとつない。殺人性癖も、小児性癖も、創作物の中ならばいくらでも満たしていいのです。ただ、そういった真の表現の自由を実現するには教育が必要です。ヒトラーのような苛烈な扇動をする者がつくったものを目撃した時はどうしたらいいか?小児性癖者向けのエロ漫画を見た時はどうしたら?あらかじめどういう心構えでいるべきか、どう対処したらよいのかをしっかり教えておく。いちばん悪いのは「全部なくして無かったことにする」。それでは苛烈な表現物に出くわした際に丸裸で放り出されてしまうのと同じことが起こります。理想としては「どんな創作物をみてもブレない」姿勢をもつことです。異質なものが出てくるたびに禁じることは表現の自由を衰えさせるだけだと思います。苛烈な表現に怯えて禁止にがんじがらめになる脆弱な「自由」よりも、どんな表現が現れても冷静に読みとくことのできるしなやかでゆるぎない強さを持つ「自由」を実現させる社会こそが多様性を尊重していると言えるのではないでしょうか。

ただし実在の子供に手出しした奴は死刑でいい。

心で花を狩る

 

棟方志功展メイキング・オブ・ムナカタ(東京国立近代美術館)みてきまして、版木を彫って出るゴツゴツした彫り線で描いた男神と、女性や菩薩の柔和な曲線が画面いっぱいに展開されていて、その線の上(裏からのもあるのかな)から淡い薄青色や薄赤茶色で透明感ある彩色が施されてるものが多かった。女性は男を描くときのように角ばった彫線では絶対描かないのね。棟方さんが神仏を好んで彫ったのは人外の並外れたちからを表現したかったからなんだろうか。31のキリストの12使徒を描いた中で指聞さんが描かれてるのがあって、なんか顔や肌に模様が描かれてるんだけど、あばたか何かなのかな?遍天呂さんはヒゲづらで、そのヒゲにいっぱい模様が描かれててなんか可愛い。特に女性を描いた作品(特に50や53)では素っ裸のものと、裸に模様が散りばめられてるものがあって、あの体に模様がみっしり描かれてるのはどういう意味があってのことなのかな。神仏系のでは上記画像にも出した29の十大弟子を描いた作品は釈迦の弟子達がジョジョ立ちしてるものですが、なんか顔つきとか見るだにゴッホつーよりピカソゲルニカ系の顔つきしてるふうに思える。目が極端にくっつけて描かれてるとことかさ。それといろんな作品の解説でも書いてあったけど、21の空海頌の解説に『空海作とされる「いろは歌」を元にした佐藤の未発表の詩稿を読むなり版画化を申し出』とかあって、なんか棟方さんはいろんな芸術作品から感化されることが多かったみたいすね。40−1はお寺の襖に松が描かれたものですが、松だって言われないとなんだかわからん。筆をぶつけるように描いてて勢いがありすぎる。もはや現代美術。1936年の展覧会でサイズがデカすぎて陳列拒否された話が解説に出てたけど、襖でアレなのでそうもなるだろうな。あと解説で「下絵を描かず短時間で彫りあげたとする逸話が有名だが、何枚ものスケッチがあり、構想段階で長考した跡が残る」てあって、勢いだけで彫ってるわけでもないのね。でもお坊さん彫ったやつとかはなんか円空の作った仏像を思い出すよ。作品にはよく鳥が出てくるんだけど、アレは川端誠さんの「鳥の島」てのがよぎった。そういえば川端さんは円空がモデルと思しき風来坊のシリーズを描いてたっけね。棟方さんの神仏作品では35は口元が笑顔の不動明王ですが、当時の軍のためにそうゆうのを大量に描いてたらしい。棟方さんは戦争中もうまいことやってたんですな。うまいことやってたといえば棟方さんは和菓子屋の包装紙のデザインなんかもやってたそうで、ああいうのみやげでもらうと嬉しいね(グッツ売り場に菓子込みで売ってたよ)。そういえば展示の最初の方の13桃真盛りは棟方らしくない小さな花が丁寧に施された作品だったけど、あれポスカで売ってほしかったな。展示の最後の方には望月ミネタロウさんの棟方さんを描いた漫画雑誌が展示されてた。

本日題は63の花狩頌の『削り花の矢を天に向かって放つアイヌ儀礼に発想を得た作品』ていう解説に出てたものから取りました。

肌香。匂いが溶けてゆく。流れる匂い。

  

「来てくれる女は背中に灸のある人とか妊婦でした。主人が働かないので生活に苦しみ内密に小遣いをといふ人を私も安く来てもらって描かして貰った」

甲斐庄楠音の全貌(東京ステーションギャラリー)見てきまして、前半は絵で後半は映画関係の着物なんかが展示してあった。前半の絵は遊女とか太夫を描いたものが中心で、2〜3点の展示後にいきなり有名な横櫛がでてきてびっくりした。ホラー小説の表紙にもなってるやつで、パッと見だけでもアヤカシ感が強いのに、現物みると更に人外なカンジがして怖かった。横櫛2点の間に説明があって、この微笑みはモナリザの影響があるふうな説明が描かれてたんですけど、京都テイストでモナリザを濾過するとこんな化け物じみた笑みになってしまうものなのか。化粧のせいではあるんでしょうけど肌が真っ白すぎるし、そのやけに白い肌と真っ黒な黒髪の境界が溶けかかったようなぼんやりとぼかされた描かれ方をされていて、なんてゆうかはっきり見えてるはずなのにどうも薄闇のなかにいるような風情なので、そんな中で微笑まれると何を考えてるのかわからなくて恐ろしいものに見えてしまう。大正5年版の横櫛の女性の着物は襟部分に天女みたいのが描かれてて、それはいいんですけど着物の下の方に麒麟みたいな化け物と炎が描かれていて、どういう心境であの図柄の着物を着て微笑んでいるのか?と考えるとなんか恐ろしいよ。大正7年版の横櫛も花(牡丹かな)が背後に描かれていて普通に考えると華やかなはずなのに、どうも夕闇を思わせるんだよな。大正6年の秋心て作品も白肌の女性の絵なんですが、背後に掛けられた孔雀の羽根模様をあしらった着物と女性の肌の境目がぼんやりと溶けている。ただ横櫛と秋心の女性は化粧部分は真っ白いものの、着物の裾から出ている手足の指先とか鎖骨あたりの肌はほのかに赤みがかっていて、ああこれってエロ漫画家さんがよくやる手法だなーとしみじみした。女の子の肘とか膝とかがうっすらピンク色に塗られてるアレですよ。楠音がやるとホラーエロ漫画家てカンジになる。首から上は血が通ってないカンジだけど、それ以外の部分にはちゃんと血が通ってるふう。エロ漫画家感といえば4の毛抜て絵は上半身裸の男の娘の妖艶さがほとばしっていて、背後にはケシの花が描かれてるんですけど、アレは中毒性があるよってゆう意味なんだろうか。8の白百合と女は白い長襦袢の女性が描かれてるんですが、でかい乳輪が透けています。楠音てふっくらした女性が好みだったんだろうか。それとも単にモデルさんがそうゆう体型のヒトだったてだけかな。9の女人像は女性が撫子かなんかの花を持ってるんですけど、萼が歪んだ針みたいで禍々しさを感じずにいられん。10の島原の女(京の女)は禍々しすぎて地獄の住人感が強い。11の幻覚(踊る女)は着物を翻して踊る笑みを浮かべた遊女の絵なんですけど、着物のはだけた部分が速水御舟の炎舞みたいな風情で、なんだか化かされそうだよ。しかしあの後ろの影は誰の影なんだろう。踊ってる遊女の手の形とは微妙に違ってるんだよな。12の舞ふもアヤカシ感が強いし。13の春宵は上記に掲載した画像ですけど、なんかもう化け物の宴感が強くてついマーダーライドショーとか極悪なピエロとかが浮かんでしまって出さずにいれなかった。遊女の化粧肌の白さとお歯黒と笑み皺をリアルに描くとこんな禍々しくなるのかよ。14の悪女菩薩は髪飾りが電飾ぽい。15の裸婦とかみるにつけ、やっぱり楠音てふっくらした女性が好みなのかな。しかし17の裸婦(上記「」内は説明文より抜粋)は乳輪でかいのに陰毛が全然ない。わざわざ剃ったか無いように描いたかのどちらか。18の母は楠音の母親なのかな。髪の毛や顔のたるみも優美な曲線で描かれてていいですな。各質感の丸みを帯びた美しさを特化して描いてるから顔を美化せずともちゃんと綺麗です。20の娘子は企み事を思わせる目つきに着物の青ラメが映えていいですな。24の「女の顔」もですけど、表情がドラマチック。昼メロのキャラみたい。28の春は着物で横たわる女性が描かれてて、脇にガラスコップが置いてあるんですが、これ18の母にもガラスコップが描かれてるんですけど、なんでしょうね?あのガラスの質感と着物の女性が異常に合う。光り物と着物て相性がいいんだろうか。S-003からS-023-I〜16まではおもにスケッチが展示されてるんですが、モノクロの絵になると楠音の描く女性の怖い表情がむきだしになる。S-015の藤椅子に凭れる女(下図)もいかにもいじわるそうな笑顔を浮かべてるし。この女性も肉感的でムチムチしてるな。S-029のスケッチ(黒猫と女)は夢二の黒猫に感化されて描いた?のかな。着物が豹柄ぽくて夢二の女よか肉食系な雰囲気。それと展示に楠音がせっせと集めた切り抜きを集めたスクラップブックが展示してあって、楠音の脳内を覗き見るみたいで面白かった。男女問わず顔や裸や能面なんかの切り抜きが貼ってあった。胸毛全開のショーンコネリーとかもあったし、三島由紀夫と美輪さんの若い頃の写真の切り抜きなんかもあった。次は楠音が作った映画の着物が展示してあるんですけど、展示内に「戦時中、この非常時に退屈とは何事だ、と禁止され、戦後もしばらくはチャンバラ映画が制限されたため、右太衛門は舞台で退屈男を演じ、甲斐荘が衣装や舞台装置を担当する。」て説明があって、船の上で戦うからってトビウオをあしらった着物とか、黒地に金糸銀糸で縫われた菖蒲があしらってあったりとか、とにかくド派手。映画だからいいんでしょうけど、あんなの着て歩いてたら目立つことこの上ないな。その後には大正4年頃に描かれた畜生塚の大作があって、十数人描かれてるんですけど、2人だけ顔を白く、髪を黒く塗られてて、あの調子で全部塗ってたらもっと迫力ある作品になったろうになあと残念に思った。S-058の畜生塚(小下絵)は女のヒトたちが狭い画面の中で悲しんだり苦しんだりしてる絵なんですけど、小説の表紙とかに良さげ。何しろ楠音の絵は白肌の質感と光のない黒目に見据えられるゾクゾク感に満ち満ちておりましたよ。

乳首とか瞳の奥とか唇とかの色のさしかたがなにげに丁寧だよ

『山や水、木や花の身体的な動きをとりわけ観察している。

すべてが人間の身体と同様の動き、

植物の歓喜や苦悩に似た揺さぶりを想起させる。』ーエゴン・シーレ、フランツ・ハウアーに宛てた手紙より、1913年

『至高の感性は宗教と芸術である。

自然は目的である。

しかし、そこには神が存在し、

そしてぼくは神を強く、

とても強く、もっとも強く感じる。』ーエゴン・シーレ、詩「芸術家」より、1910年

Nick's inner monologue becomes increasingly delusional as he comes to believe he is Jesus Christ reincarnated to judge Pottsville. 』(Pop. 1280 - Wikipedia)

『そこで彼は、キリストの「ピエタ」の図象を用いながら、聖母を血まみれのキリストの屍を抱く凄まじい「運命の女(ファム・ファタール)として表した。』ーピエタ(「クンストシャウ、サマーシアター」の演目、「殺人者、女たちの希望」のポスター)オスカー・ココシュカ、1909年

レオポルド美術館 エゴン・シーレ展(東京都美術館)見てきまして、全体的にシーレ単体展というよりウィーン分離派に属していた芸術家たちの傾向をざっと理解できるような出展体制になってたような。シーレ以外の画家の作品がそこかしこに混ざってて見応えがありましたよ。画家の肖像写真見てるとなんか横顔写したもんが多くて、あれは顔(特にアゴや鼻の骨)の角ばった部分と頭部の円形部分を分離派がよくキメ模様として型にして使ってる柄に近しい形状だからなんですかね。展示の9・10・11のクリムトの描いた肖像画は黒色が際立ってきれいだったな。クリムトて金色使いで有名だけど、黒色がやたら映えてたように思った。16から21は分離派展のポスターが連続して展示されてて色使いや角ばったキメ模様が美しかったし、作品を囲む額も繊細なつくりで実物見られてよかった。あんな美しい額どこにも売ってないよ。22・23はシーレの花の絵が展示されてて、22のは花がどうこうというより背景のなんもないはずの空間が角ばった筆の塗り跡でみっしり埋まってて濃密すぎる。23の菊はパステルカラーなのに背景が黒1色だからか甲斐庄楠音の横櫛みたいな妙な迫力がありましたね。菊というより腐り落ちる寸前の南洋植物的な何かって感じだった。次に分離派のヒトたちが手がけた風景画が展示されてて、27のカール・モルの冬の風景を描いた絵はただの木々と雪道を描いただけなのに、色使いが画面からあふれんばかりの豊穣さできれいだったな。色の洪水といえば28のシーレの絵も30のクリムトのウィーンの街を描いた唯一の風景画てやつも色であふれかえってたな。色であふれかえっていながらもなんか不穏でたまらなかったのは31のアルビン・エッガー=リンツ「森の中(《祈り》のための習作)」て絵で、森の木々が描かれてるだけなんですけど、木の皮が青銅色で、皮が剥がれた地肌が灰色に塗られてるもんで、ゾンビの群れでも見てるみたいな感じだった。エッガー=リンツの絵で不穏だったのが33の「昼食(スープ、ヴァージョンII)」て絵で、遠目からみてああ解剖中なのかな・・て思って近くでよく見たらなんか食べてるぽかったからびっくりした。テーブルの上に何がのってるか全く見えないうえ、あのテーブル囲んでるヒトたちの湿っぽい雰囲気いったいなんなの。不穏といえば29のシーレの「秋の森」て作品、木の枝がやたら筋張ってる描き方し始めてておっいよいよか!的に期待させてくれる。エッガー=リンツ作品は34のなだらかな丘陵を描いた絵はちょっと女の裸を思わせるなめらかな描線だったなあ。風景画では41のコロマン・モーザーの山脈て作品、使ってる色自体はパステルカラーで薄使いなのに稜線をくっきり描いてるから分離派ちっくなキメ模様的なメリハリある色分けになっててきれいだった。次の展示はリヒャルト・ゲルストルて画家の作品で、46の「半裸の自画像」、なにげに先っぽ見えてませんか。あの下半身おおった布からちょい出してる丸部分はそうとしか思えませんでした。ゲルストルのは48・49の絵を飾ってる額がきれいだった。前者は木製ので後者はメタリックなやつで。絵としては荒々しいベタ塗りなかんじのが多かった。次の展示からはようやくシーレ作品が乱打してくるわけですが、シーレの絵てちょろ見したイメージからして工事現場の鉄骨むき出しの建材に薄皮のばして貼り付けたふうな勝手な印象もってたんですけど、実物みるとなんか色鮮やかな死にたての遺骸て感じですな。そこらへんが顕著なのが53の「叙情詩人(自画像)」てやつで、腐った死体に生えた赤カビ青カビて風情だった。なんか52の絵もなんですけど、シーレの絵て印刷物で見るとやたら筋張って見えるんだが、実物みると油彩は特にベタ塗りすぎて油ぎってる感じなのな。51の「ほおずきの実のある自画像」は広告にも使われてる有名なアレで、塗り跡べったりな白背景に赤青黒で色鮮やかにシーレ自身が描かれてるんですが、いちばん痺れたのは自画像の瞳の中央にほんのわずかにほおずきと同じ赤(厳密にはオレンジっぽい色)がすっとさしてあっておおーと思った。55の裸体自画像は文字どおり全裸なんですけど、なんかちんこがよくわからないふうなんですよね。自信なかったのかな。シーレてさー写真でみるとわりとぷくぷくしてるのに、自画像だとやたら筋張ってるふうな描き方なんだよな。まあそれが持ち味だからしょうがないっちゃそうなんだけど。あと54の「闘士」見ると根本的に青色とオレンジ色を多用すんのがスキなんだなーとしみじみした。次の展示は女性像をおもにとりあげてて、62の「母と子」て絵はなんだか鎖骨から首にかけての肌の白色が母子でつながってる風に描かれてて不気味でした。母子系で不穏だったのが65の「母と二人の子どもII」てやつで、ひからびた女の死体が抜け殻みたいな赤ん坊の人形抱えてるふうにしか見えない作品。赤ん坊の人形の向かい側に幽体離脱した赤ん坊の魂みたいのが描かれてる。中央の母親の死体ちっくなヒトの左足のかかとにオレンジ色が塗られてるんですけど、あれ血なのかな?なんの説明もないから全然わからない。あとこの展示部分だけじゃなく全体に言えることなんですけど、鉛筆でささっと描いたふうな絵がものすげーうまい。当たり前なんだろうけど天才だーと思った。次の展示が風景画というか家を主に描いた作品群で、68の背景の質感がクソ重たいのにはじまって69の「丘の前の家と壁」て作品に描かれた家の中が暗闇すぎて怖い。白い壁もなんか傾いてるし。74の「小さな街III」で描かれた家々も、窓あいてるのにぜんぜん開放感ない。暗闇が口を開けてるふうにしか見えない。あと75の「モルダウ河畔のクルマウ」て作品では家々の小さい窓がどれも歯ぎしりしてるみたいに見える。次の展示ではなぜかオスカー・ココシュカてヒトの作品が展示されてて、80の自画像みるとなんかひょうきんなやつなのかな?と思った。78の「裸体の少女」とかは普通にうまいんだけど、上記でも抜粋した84のピエタはガチムチのマリアが皮膚を全部はがされて赤剥けになったと思しきキリストを抱えててなんかすごかった。絵の端に「OK」とか書いてあって、なにがオッケーなのかと思いつつ親指を立てそうになりましたけどあれ単に書名ね。次の展示はまた分離派のお仲間コーナーで、90のアントン・コーリヒの「キューピッドと青年」て作品みて思ったんですけど、西洋芸術で描かれるちんこってどうしてどれもちいさいんですかね?外人さんだから巨根だろどう考えても。なんでですか?答えてくれたまえ。ちいさければ卑猥ではないとでも?大人の事情てよくわからない。次の展示はパトロン系だけどそこすっとばしてシーレの裸体コーナーに。101の「赤い靴下留めをして横たわる女」ての、乳首の紅がきれいですな。102のも靴下留めシリーズですけど、なんか身体に塗られた赤色が傷口ぽくてちょっと痛々しい。次の展示はシーレの早すぎる死に向かってゆくわけですけど、107の「横たわる女」ての、エロいですけどまんこはちゃんと隠れています。シーレの局部といえばいちばん最後、115の「しゃがむ二人の女」ての、股まるみえだけどまんこぜんぜん描いてないですね。赤でちょちょっと塗ってるだけ。なんですかシーレ。局部描くのが嫌でしたか?どうしてだシーレ?とモヤモヤしたモノを抱えながら帰途早咲きの桜なんかをたんのうしました。

上記抜粋箇所でジム・トンプスンの作品説明を載せましたけど、ほんとは作品中の「お前、3文字のやつと勘違いしてるんじゃないのか?」的なセリフの部分を載せたかったんだが手元に作品がなくて出来なかった。すごく残念だ。

ジャングルを思わせるのは色が氾濫してるせいか?

 

シュトックハウゼンがあのテロのことをルシファーによる最大の Kunstwerk だと言ったのは事実です。Kunst は(テクネー/アルス/アートなどと同じく)「芸術」や「技術」を包含する「術」を含意し、Kunstwerk はそのような「術」による労作を含意する――当然そういう含意を踏まえた上で、Kunstwerk は「芸術作品」と訳されて然るべきでしょう(「悪魔の技術の労作」と訳さなければ誤りだとは言えません)。ルシファー(悪の大天使)の芸術作品なのだから、それは悪の発露であり、非難すべきものであることは言うまでもない。しかし、それは、愚かな悪者どもが思いつきでしでかした下らない悪事として切り捨てられるものでもない。むしろ、その巨大な闇に拮抗し、それを圧倒するほどの作品を、芸術家は光の側で生み出さなければならず、そのためには、テロリストの献身――悪への献身ではあるにせよ驚くべきものであるには違いない献身――に拮抗し、それを圧倒するほどの献身が、芸術家にも求められる。シュトックハウゼンはおおむねそのように考えていたというのが、私の解釈です。あえて単純化すれば、テロリストはもちろん芸術家の敵だが、どうでもいい雑魚ではなく、端倪すべからざるライヴァルだ、といった感じでしょうか。』(浅田彰のドタバタ日記 第2回 20086月26日より抜粋

『感情的にも道徳的にも歴史的にも、

また、

政治・軍事的に利用することに対しても

決して肯定することは出来ないですが、

既成の感覚の枠組みでは捉え切れない美しさを

否定することはできませんでした。』100 Sunsくろじぃさんの100Sunsより抜粋より抜粋

ゲルハルト・リヒター展(豊田市美術館)見てきまして、写真を写し取って油絵にした作品は、目の当たりにした現実の光景が時を経るごとに記憶の中でブレて変容する寸前の有様を描きとめたものに見えた。記憶の底は他人はおろか当人ですら手が届かない。変容は止められず、どんな記憶も肌触りのよさそうな柔らかな輪郭線に変容してゆく。16の「水浴者(小)」という作品は、女性の裸体の柔らかさーうっすら赤みをおびた頬、乳房を隠す艶かしさが記憶の変容を帯びて更に強調されている。17の「トルソ」は顔から下の女性の裸体を描いたもので、輪郭線のブレが、人間の女性の体をぬいぐるみのような質感に見せている。8の「頭蓋骨」は、死を象徴する骨ですらも記憶の中ではぼやけ、風景に溶けかかって美しい。28の「ルディ叔父さん」は戦争によって故人となった人の写真を元にした作品だが、これも記憶の中で輪郭線がぼやけた幻影となってしまっている。ブレた記憶をほっとくとどうなってしまうのかというと、「頭蓋骨」のように風景に溶けていってしまうのだが、その記憶が溶けてしまった後の風景そのものを描いたような作品も多くあった。例えば4の「グレイの縞模様」は記憶の中の縞模様が、時間を経て丸みを帯びた形状に変化した有様を描いたような作品だし、5の「グレイ」は油絵を濃厚に塗って所々が尖ったまま繊細な灰色が迫ってくる作品、6の「グレイ(樹皮)」は執拗に厚塗りを繰り返した作品だし、7の「グレイ」もまるで左官の仕事のように美しく灰色を塗った作品だ。そういう「ただ塗っただけ」に見える作品の前に立つと、ガラスに反射して鑑賞者が写ってしまう。9の「鏡」という作品はもろにその傾向の作品で、以前、マーク・ロスコを鑑賞したときに感じたこと思い出した。ロスコ絵の前に誰かが立っただけでものすごい映えてしまうんですが、それと同じでリヒター作品の鏡を前にすると、自分が作品に取り込まれてしまうんですね。映ったもの込みで「作品」として成立させられてしまう。鑑賞者がいなければ成り立たない作品。これと同種の作品は11の「鏡、グレイ」も同じで鑑賞者が取り込まれるし、12の「鏡、血のような赤」も鑑賞者が前に立つと、世界があっという間に真っ赤な世界観に包まれてしまう。こういう作品を見ていると、リヒターは世界を全て原初の「風景」に塗りこんでしまいたいんじゃないか?と思えてくる。それが顕著なのが25の「モーリッツ」という赤ん坊を描いた油絵なんですけど、かろうじて赤ん坊自体は塗り込んでいないんですが、その周囲をいまにも塗りつぶしたくてたまらんといった風情で黒い色で囲んでるんですね。塗りつぶしたくてたまらん系の絵では、それが進行しすぎて塗った後に引き裂くように地の色をむき出しにしている。18、19、20の作品は普通のカラー写真に油絵を重ねていて不穏すぎるんですけど、どの写真からも傷を見出だして変容の餌食にせずにいられないんだなーとしみじみした。ちょっと異質なのが22のアブストラクト・ペインティングで、この絵は写真を一切使っておらず全て油絵だけの作品で、色の裂け目の柔らかい部分から細長い何かが生み出されてる。32の「ユースト(スケッチ)」と並び、変容が進みすぎて抽象画になってしまった系の作品。塗りつぶし、引き裂き、氾濫させる系の作品ばかり見ているとこれがリヒターの本質なのかなと思いがちなんですけどさにあらず、その暴力的色彩の氾濫が整然と並べられた作品もある。34の「4900の色彩」では等間隔に四角い色彩が整然と並んでいる。光が差したと思しき白色もある。または63の「ストリップ」は超細いまっすぐなカラーの直線が並んだもので、リヒターの内部を整理するとこうなるのか!と驚く。それでもやはりリヒター作品で目をみはるのは64〜67の「ビルケナウ」で、例のアウシュヴィッツで撮影された写真を厚塗りした上引き裂くような塗りで仕上げた作品なんですけど、変容した記憶を引き裂くと光と闇が溢れ出すのだなあとしみじみした。シュトックハウゼン理論に従うなら、闇の側(旧体制)で作られたものが凄いのならば光の側(新体制)がそれを上回るものを作ればいいだけのこと。リヒターもアレクシエーヴィチも、戦争という名の暴力=闇があったからこそ作品を生み出せた。我々は光を生みだす為にこの世に生まれてきて闇を味わっているのではなかろうか。光は闇がなければ何も生み出せない。死刑囚の絵画展も、死刑という闇から生まれたものだ。原初には闇がある。闇があるということはつまり光が生み出される可能性があるということ。死もまた生がなければ存在しない。私達の生は巨大な死のうえに成り立っており、リヒター作品はままその事実を思い起こさせる。ビルケナウは闇の行いを光の仕事で覆い尽くした。シュトックハウゼン理論の正統な使い方だ。911を「ルシファーによる壮絶な芸術作品」と評したシュトックハウゼンの意見をなるほどと思うのは他人事だからだろと思われるのは至極当たり前で、当事者だったらのんきに鑑賞したり論じたりする気になんかなれないのはよく知ってる。前の勤め先の建物の窓が311の余震で左右に動いてるのを驚いてみてしまう通行人に気づいて腹が立ったのをよく覚えてる。見るんじゃねえって思ったよ。あと高校の時にカンニングしてバレた時に周囲の視線が集まるのを経験して以来、観衆の視線とカメラに撮られまくる犯罪者の気持ちがよくわかるようになった。なにかをみる行為てのはそれだけですでに他人事なんですな。今後も自分ちが崩れるのみたらショックだけどちょっと面白いよなあと思う当事者と他人事の立場がない交ぜになった気持ちを大切にしようと思う。

 

ツイッタは今月末か来年初めごろに再開します。

Chim↑Pom展いけないので書いてみた

アカデミー賞司会者を平手打ちしたヒトだけ罰されるのは、暴力をふるう側がいつも「相手が悪いから殴った」(コレ、プーチンウクライナ侵攻する理由とほぼおんなじな)て思ってるからということで納得しましたが、平手打ちされるような冗談を言った側が罰されないのは表現者を委縮させてしまうことを避けるためなのかしらね。だとしたらさすが表現の自由を自分らで確立させて育んできた歴史をもつヒトたちは野太い考えを持ってるなーとしみじみした。日本みたいに「誰かが傷ついたから」とかいって当事者でもないのに代弁者きどりで気に入らない表現したヒトを大多数で押しかけてぶっ叩くようなマネはしないんですな。代弁者きどりで多数でぶっ叩くといえばChim↑Pomさんのヒコーキ雲で青空にピカッと書いた作品が、それを気に入らない人たちから猛抗議を受けて被爆者当人とChim↑Pomさんが対談する本が出来上がったことがありましたけど(当事者の声を引き出せたのはよかった)、あの作品て平和慣れした日本人にある日突然暴力的記憶を思い起こさせる作品としてものすごくわかりやすくて優れた現代美術作品だよねえ。ああいうリアルに心揺さぶる作品はアメリカでは何十億もの価値がつくと思うんだが、日本の表現の自由制度は自分らで確立したんじゃなくアメリカから押し付けられたという性質上まだまだ歴史も浅いので、リアル心揺さぶられるモノを見せられるとどうしていいかわからなくなって、被爆者当人がかわいそうだとか的外れなこと言いだして大多数でぶっ叩いて爽快感を得て済ますだけなのな。なんつーか忠臣蔵の伝統があるせいか「悪者(とみなされる)側を暴力で成敗する」的な行動につい爽快感を感じてしまいやすいよね。よく考えるとそれっていちばん危なっかしい感情な。最近ので似たやつだと子供を暴力的動画から守るとか息巻く人ね。子供が自発的に残酷映像とかエロいのみるのはダメだっていうけど、子供の自発性て率先して育んでいいものなんじゃねーの?そういうのだけはNGなの?もしも子供がそういう方面の芸術的才能を持ってたとしたら子供の才能の芽を摘んでしまうことになるんじゃね?親御さんがそういうの不安だって思うならその気持ちを直接子供に伝えれば済む話なのに、根本から見せるのを阻止するようなマネすんのはどうかと思うよ。ぜんたい何が言いたいかというと何かの表現に目くじら立ててぶっ叩くような幼稚なマネはいいかげん見直して冷静になれよということです。冷静になると特定の表現が社会的価値としてどうなのかとかそういう観点でみることができやすくなると思う。Chim↑Pomさんには多数にタコ殴りにされてもくじけず、いつまでも悪ガキ大学生ノリでせせら笑う態勢でいてほしい。カネ持ってたら大枚はたいて作品を買いたいが無職なので出来ない。歯がゆい。

 

ちなみに冒頭で出した平手打ちしたヒトは、舞台あがってマイク奪って「妻は病気だからあのヘアスタイルなんです」てひとこと言うだけで客全員味方につけられたのにね。言葉には言葉で返そうね。

なんで毒と酒を隣同士で置いとくのか

ナイトメア・アリー(TOHOシネマズ上野)みまして、話としては後ろ暗い過去から逃げるように流浪の旅をしていたスタンさんが、あるとき目にした小人さんの後をついてくといつのまにか見世物一座のなかにまぎれこんでいて、いろいろ見てくうちに一座の仕事を手伝うようになってそこで出会ったヒトから読心術を学んで成り上がってくという筋なんですが、読心術をさらに発展させたのがあなたの隣にいま霊がいます…的な幽霊ショーで、それやってると破滅するからやめろって!!て師匠的な存在から再三言われてるのに、イヤこれは儲かるから!て言いくるめてどんどんヤバい方向へ転がっていってしまうとゆう展開に。ニュースでたまにとっ捕まった詐欺師の行状について取り上げてますけど、詐欺師ておカネ大好きなわりに使い方がショボいというか、酒のんでどんちゃん騒ぎしたり高い車買ったりしたりとか、大金手にしたときの用途や発想が大学生レベルなんだよな。その点スタンさんはあまりハメ外したりすることなく、ただただ「金を儲ける」ことだけを目的に詐欺に勤しんでいた。人を騙して金を得ること自体に快楽を感じてるのかもしらん。んでスタンさんは拾ってもらった見世物一座で稼いでた世間しらずの純粋なモリ―さんを誘って助手として使いながら一座から離れて都会で読心術を武器に金持ちからカネを巻き上げてくんですけど、あるとき読心術ショーをみにきてた心理学博士のリッターさんと関わったことから、リッターさんの顧客であるお偉方をカモにする方向に。ここで禁じ手の幽霊ショーを本格的にやり始めて、それを真に受けたお偉いさんがもう俺の前に幽霊呼べよ!てなって、後戻りできなくなったスタンさんはモリ―さんを使ってヒト芝居打つことに。ところがこれがバレちゃったもんで血迷ったスタンさんが殺しに手を染めることになるんですけど、おそろしい破滅の道をたどる的な宣伝からもっとヒドいことが起こるのかと思って期待してたら、なんか最後はおさまるべきところにおさまった的な展開になってた。自殺した人が死んだことに気付かずに何度も何度も自殺しつづける的なエンドレス地獄にでもなるのかと思ったりしたのでちょっと肩すかし。ぜんたいモリ―さんをはじめとする見世物一座は残酷残虐を謳って客集めしてるんだけど、それは客の側も嘘が混じってることに薄々気づいてる程度のものであって、観覧してもちょっとびっくりして帰途につくレベルなんだが、スタンさんの幽霊ショーは観覧するとトラウマを掘りおこして人生を根幹から揺さぶってしまうような作用があるので、ターゲットになったヒトは死に肉薄することになってしまうんですな。見世物一座の人々は物言いは一見乱暴なんですけど、実はあたたかいというか、境遇や体裁は一切問わずに受け入れてくれる深い度量があるので、なんかほのぼのしてるんですよ。小人さんや軟体の黒人さんや、ホルマリン漬けの1つ目の胎児までもみんな包み込んで居場所をつくってくれる。モリ―さんも見世物一座にいるときはすごく安心して楽しげに過ごしてるんですよね。ところが幽霊ショーをやりだしたスタンさんといっしょにいると消耗して元気がなくなってくかんじだった。スタンさんは離しちゃいけないもんを手放して、近づいてはいけないほうへどんどん近寄ってしまう。タロットカードがそれを言い当てているのに、それを捻じ曲げて解釈する有様。見世物一座の描写に関しては、パンフによると、原作小説では「カーニバルの芸人たちの生活の言語がそのまま使われている」「隠語のたぐいに限らず、とにかく原文がかなり難しかった」ということなので、見世物一座に興味がおありの方は読んでみるといいやもしれません。原作者のグレシャムさんも霊媒について調べ上げてたりしたとかで、なんか伝記でも誰かつくればいいのにねえ。

あなたの隣に霊が的なくだりで思い出したんだけど、以前特攻隊の件で三巳華さんを批判したことがあったんだが、江原啓之自身は本物の霊能者なのに、この件で詐欺師呼ばわりされてテレビから追い出されてしまった件があったから、なるべくなら事実を記したほうがいいよ的な老婆心から書いたんだけど、なんかイマイチ伝わってないのかもしれないな。嫌われるのは慣れてるからいいけど、本物が偽物呼ばわりされるのは納得いかん。