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ながさきエッセンス

2009-11-17 アメ車以前  

 長崎って、ほんとに港町なのかな…というのは、ずっと前から違和感としてあった。港町…それはそうなんだろうけど、もとのもとのもとから、そうなのかな…と。長崎が「国際貿易港」として機能しはじめてからの「長崎」こそが長崎である、ということになっているけれど、それはやっぱり、言ってしまえばここ400年ほどの「接ぎ木部分」である。それがあまりにも「珍品」だし、それまでの長崎とは比べ物にならない経済的な繁栄とくんちその他の付随品があったものだから、後世の人の目はそっちに奪われっぱなしなのだけど、やっぱり、言ってしまえば、たかだか400年だ。それ以前の長崎のことはほとんど語られることがないし、出てきたとしても「取るに足らない寒村」的な扱いである。そしてたぶん、日本全史的にはそれでオッケーである。

 そう、山陰の小さな温泉の田舎ヤクザである「山倉のおっちゃん(11月9日分参照)」が、どう逆立ちしても「仁義なき戦い」には登場しないように。でも「山倉のおっちゃん」も、自分の町ではいっぱしの「名士」であり、そこには「彼基準」の「豊かな生活」や「大盤振る舞い」があった。それは、「どう逆立ちしても長者番付には載らない零細企業の『シャチョーサン』が、それでも、町のスナックでは景気よく飲んでる」というようなものである。見渡すスケールが違うだけであり、そして世の中はほとんどが「シャチョーサン」と、それにすらなれない人々で構成されている。菅原文太の水面下には、幾万かの「山倉のおっちゃん」がいるのである。

 ささやかに「山倉のおっちゃん」の素顔を描き出そうと試みている私にとっては、だから、「それ以前の長崎」を「取るに足らない寒村」としてバカにすることはできない。それはとりもなおさず、おっちゃんの「知られざる幼少時代」なのだから。外国の船がバーッと入ってきて「ヨッシャヨッシャ!」と景気よくふるまう前の彼が、いったいどんな出自であり、子供時代を過ごしたのか、私には気になる。おっちゃんにばかり喩えてしまうが、「接ぎ木時代」が始まる以前にも、長崎には、土地が、海が、山が存在した。全史的には箸にも棒にもひっかからなくとも、原始時代からの人間の足跡はあるし、不確かかもしれないけれど、伝説とも歴史ともつかない細々とした記述も残されている。それを「貧しい塩焼きしかいない寒村」として切り捨てることは、私にはできない。

 そして初めの疑問に戻る。「港=海」を基準に考えれば、たしかに長崎は「貧しい塩焼きしかいない寒村」だったのかもしれない。さらに「天然の良港」ともてはやされる長崎の「港」が、じゃあどうして西洋人に「発見」されるまでロクな役割を持てなかったのよ、といえば、これは単なる想像なのだけど、日本国内やアジアあたりまでを行き来する身軽な船には「『良』すぎた『港』」だったんじゃなかろうか。車と駐車場の関係に置き換えれば「それまでは『軽専用』『外車お断り』の駐車場で十分だったが、そこへデカいアメ車(この場合『ポル車』『スペ車』か)がやってきて『トメルトコナイデスカ?』って聞くので探してみたら、ちょっと奥まってたけど広いとこがみつかった」というようなこと。「軽」や「普通車」は、長崎なんて奥の奥まで入って来なくても、深堀とか戸町とか、それくらいの規模の港できっと十分だったのだ。

 それでそれで、長崎は結局どんなとこだったのよ、と考えていくと、「むしろ山里?」という暴論に突き当たりそうになっている今日このごろである。

かなんかなかなんかな 2009/11/17 16:57 近日掲載されている長崎の話は的を得ていて面白いですね。
彦山の兄弟分「豊前坊飯盛山」の大虐殺の話はご存知でしょうか?有名なキリシタン大名が長崎を治める時のお話です。
当時の日本は僧侶が権力を持っていたのは周知のことですが‥‥‥。
高平・小島地区には「太郎坊愛宕山」もあるし。中島川は
伊勢宮あたりが河口で、玉帯川は思案橋あたりが河口だった
みたいなので、本当に長崎はどんなとこだったんでしょうね。

トンビトンビ 2009/11/18 09:10 豊前坊、太郎坊、彦山、岩屋山、秋葉山、さらには諏訪神社を再興させた青木某…「長崎と修験」についても、一見のんきな「七高山めぐり」などの行事もふくめて、まだまだ考えることがたくさんあります。「焼き討ち」「虐殺」「殉教」…そういうことに関しても、どっちが悪いとかひどいとかいう視点ではなく、それが起こったことによって、そのあと人の心の奥底に沈み、隠され、しかし別の形を取って出てきたようなものを探れないかと考えています。それは今の長崎の人の心にも、まだ文様を描いていると思うからです。(と思うに至った経過は、長くなるので、エントリー本文にて)