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2006-04-08 永井均「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」を読む このエントリーを含むブックマーク

2003年1月31日初版の、倫理学および政治思想の入門書である。入門書と言ってもレベルは高く、倫理学にはそもそもなぜ道徳的でなければならないかを問うたりするメタ倫理学と、道徳的に善い行いの内容を問う規範倫理学と、応用倫理学の3つに分かれているということがちゃんと書いてある。

まず、この本で一番永井節が冴え渡っているのはこの「はじめに」の一文だろう。


だれも口に出して言わないからだれも感じていないのかなと思っていて、あるときふと言ってみたら、じつはみんなそれを感じていた、という経験が私には多い。


この文からわかるように、永井均は<哲学>の天才である。優れた哲学者とは、既にある問いに新たな回答を示した人ではなく、誰もが薄々感じていながら誰も問わなかった、もしくは誰も問題として認識さえしていなかった問いを初めて問うた人だからである。

この本は、プラトンの対話篇のように、対談形式になっている。序章を始めから途中まで引用する。


序章

アインジヒトとの遭遇 何が問題か?

祐樹

今日はじめて、M先生倫理学の講義を聞いたんだけど、ぼくにはよく理解できなかった。最初、なぜ人を殺してはいけないかとか、そういう問題は倫理学の問題なんだ、とかなんとか言っていて、それからソクラテスの話に入っていったんだけど、その後の話の展開が、なんだか、キツネにつままれたみたいで…

アインジヒト

あいつ、どんなこと言ってた?

祐樹

別に殺人に限ることはないけど、要するに、「悪いこと」というのはつまり「自分にとって悪いこと」なのだから、がんらいするはずがないんだって。だから、それをやってしまう人は、それが悪いということを、実は知らないんだ、という話だった。

千絵

そうそう。悪いと知っていて悪いことをする人はいない、と言ってたね。ソクラテスがそう言ったらしいけど、でも、悪いとわかっていながら、ついついやってしまうことも、あると思うけどなあ。

祐樹

それもあるけど、そうじゃなくてさ、ついついじゃなくて、よくよく考えて、それが道徳的に悪いということもよくよくわかったうえで、それでもそれをやる、って言うこともあるんじゃないかと思うんだ。

アインジヒト

千絵が言うのは、長期的に見れば自分にとって悪いとわかっていながら、その時の自分の欲望に負けて、ついついやってしまう、ということだね。それは確かにある。喫煙者や酒飲みはいつもそういう誘惑と闘っているわけだ。でも、祐樹が言うのはそうじゃなくて、道徳的に悪いとわかっていながら、長期的な観点も含めた自分の利益を優先させて、道徳的に悪い行為を、ついついではなく熟慮の末に、あえてやるということだね。それもじゅうぶんにありうることだと思うよ。

千絵

じゃあ、悪いことを悪いと知っていながらすることもあるの?

アインジヒト

もちろんあるさ。ちょっと、きちんと考えてみるか。雨が降っていることを「天気が悪い」というけど、あれはたいていの人が雨を嫌がっているからだな。みんなが晴れよりも雨のほうが好きだったら、雨降りのことを「天気がよい」と言うはずだからな。でも、もし、あるときある人にとって雨のほうが好都合だったら、その人は「私は雨のほうがよい」と言えるはずだ。それはつまり「私は天気が悪いほうがよい」ということだ。つまり、一般的に「悪い」ことが自分にとって「善い」ことはよくあることで、そういう時に、その雨は本当は「善い」のか「悪い」のか、なんて問うのは無意味だ。ということはつまり、「善い―悪い」というのは価値評価だから、その価値を享受する主体から切り離せない、ということだ。誰がそれによって利益を受け、誰が害悪を受けるのか、という「誰にとって」ということを曖昧にしておいては駄目だ。さて、それでは、その時の自分にとって雨のほうが好都合な人が、かりに何か超人的な力を持っていて、大雨を降らせたとする。その人は善いことをしたのか、それとも悪いことをしたのか。どうだい?

千絵

自分にとっては善いことだけど、他の多くの人にとっては悪いことでしょうね。

アインジヒト

その通り。そして、それこそが道徳的問題の原型なんだ。いいかい、その人はまず自分にとって善いことだから雨を降らせた。そうでなければ、そいつが雨を降らせる理由なんかなかったんだから。それを否定することはできない。しかし、その人はそのことによって多くの他の人に多大な迷惑をかけた。つまり、彼らにとって、それは悪いことだった。だから、その人は道徳的には悪いことをしたことになるだろう。

祐樹

そうすると、道徳的に悪いことって、必ず、自分にとっては善いことだ、ってことにならないかな?

アインジヒト

なるね。ソクラテスに反して、それはほとんど必然的な真理だ。そこに道徳的価値と他の諸価値との根本的な違いがあるんだ。だから、それを考慮に入れていない倫理学説は全て無意味だ。


いやあ、脱道徳的な視点に感動した。道徳的に生きれば真の自由だというカント哲学には賛成できない。キリスト教倫理道徳とを批判したことで有名なニーチェと、私の問題意識はやっぱり近い。

それから、カント哲学の特に「道徳形而上学原論 (岩波文庫)」「実践理性批判 (岩波文庫)」についても述べられていて、私が高校生の時からの疑問が解消した。倫理教科書に、


カント人間道徳的義務を果たすことを自由と呼んだ。

とある件がわからなかったのだ。そりゃ、道徳的義務を果たした後は自由な状態になるかもしれないけれど、道徳的義務を果たす行為そのものは義務やん! とずっと思っていた。カントが言いたいのは、人間が傾向性を撥ね退けて義務に従うことこそが真の自由である、ということなのだ。