明治期における学生男色イメージの変容(前川直哉)

両親の二泊三日の東京観光は満足のいくものだったようで、
自分なりにちょっと親孝行できた感じでよかったです。
まだまだすねかじりまくりなわけですが・・・
川の字で寝るなんてことは妹が生まれて以来ほとんどなかっただろうし、
なんか必要以上に感傷的になってしまったりしました。

今回の論文はちょっと変り種になるかもしれません。教育社会学の分野にもあたろうと思って物色していたら、想定外のタイトルがあったので読んでみました。

前川直哉(2007)明治期における学生男色イメージの変容―女学生の登場に着目して―「教育社会学研究」第81集p5-23

■はじめに
課題:明治期における学生男色のイメージや表象の変容を検証し、男子学生を取り巻くどのような状況の変化がこれらの変容の背景にあるのかを考察すること。
ポイント:当時の男色や学生男色に関する言説ばかりでなく、それらを排除したり衰退させたりする動きの側、すなわちヘテロセクシズムがどのように展開したのかという点に注目。男子学生とヘテロセクシズムとの関係を考察する上で非常に重要と思われる「女学生の登場」や「恋愛概念の変化」などに着目し、これらが当時の男子学生に関する言説や学生男色イメージにどのような変容をもたらしたのかを検証する。
■ファンタジーとしての学生男色とその限界
男女間では「智力の交換」や「大志の養成」が不可能であるという前提のもと、それらが可能な男性同士の関係を、男女間の関係よりも優れていると主張する記述→明治期の(硬派な)男子学生たちのエリート意識とも合致。対等な男性同士の親密な関係性としての男色を理想視するファンタジーが共有されていた。
限界:理想的な関係が、小説などの文学作品という虚構の中でのみ成立しているという点。女性が小説中に一切登場しない。
■女学生の登場
女学生の急増:男子学生の「男女交際」の相手役として新たに女学生を想定することができるようになったという変化。
「恋愛」が情熱的・神秘的な概念とは異なり「結婚」へとすんなり直結する非常に現実的な行為の一つに。
結婚に接続する新たな「恋愛」概念の普及は芸娼妓や遊郭の女性などに代わり学校による教育を受けた女学生が想定されるようになったことと深く関連。男子学生たちに新たな幸福イメージをもたらす。
以前は「家庭」が言説上の理想像でしかなかったが、恋愛対象、将来の結婚相手と想定しうる「女学生」の存在を通じて、将来の「スヰート,ホーム」を夢見ることが可能に。→「家庭」は男子学生にとってもある程度現実的な幸福の姿として、より身近にイメージできる存在に。
反社会的なエネルギーをも持ちうる激情としての恋愛の魅力に代わり、一生続く穏やかで暖かい幸福を約束する(と思われる)新たな恋愛の魅力が男子学生の前に出現した。
■学生男色イメージの変容
女学生の登場で、学生男色が「男同士の恋」「同性の恋」などとも表現され、学生男色が硬派学生の占有物とは認識されなくなる。→男色はもはや硬派ではなく軟派が行うこととされ、認識が180度逆転。
従来のような「硬派=男色/軟派=女色」ではなく、「硬派=下級生に鉄拳制裁/軟派=下級生と淡い男色(チゴさん)」へ。
恋愛対象としての女学生の登場により、男子学生にとって「恋」「恋愛」がより身近な概念となり、それらに対する憧れが増し、「男子学生同士の親密な関係」も「男女間の恋の代替物」のように認識されていった。
「結婚」を後ろ盾とする異性間の「恋愛」が、同性間の「恋愛」にない正統性を獲得する過程=ヘテロセクシズムの制度化→同性間の恋愛は「まがい物」として周縁化。
芸妓らとの交流が学生の「堕落」と表象され負の要素とされていたためにそれに対抗するために学生男色が自己正当化されていたが、女学生との恋愛は結婚・家庭へと結びつく関係であり、従来の学生男色が新しい男女交際へのアンチテーゼとして持ち出されることはなかった。
大町桂月の言説(硬派学生のイデオローグ)→「恋愛」が女性側により親和的であるという価値観をもたらし、「男性の脱恋愛化」を促す。
家庭においては「一家団欒」が追求すべき価値とされながらも、近代的な「男は外、女は内」という性別役割分業により、家庭内の責任者は女性に→男性は「家庭の和楽」を構成する一員でありながら、本来の居場所は家庭の「外」とされる。
「男性の脱恋愛化」言説は、「恋愛」や「恋愛ー結婚ー家庭」幸福イメージを受容するか排斥するかで男子学生を二分。「恋愛受容派=軟派」「恋愛排斥派=硬派」へ。
以前の硬派学生の理想「対等な男同士の関係」は「男性同士の性霊の抱合」「朋友の道」と説明される。(あくまで恋愛とは別の関係)
「男は外(社会)」「女は内(家庭)」という領域分担:男性による外(社会)の独占→社会において結ばれる紐帯の相手が「朋友」「親友」→「友情」が男性の占有物とされる。
■おわりに
女学生の急増以来、男子学生同士の親密な関係は、
軟派学生たちを中心とする「男同士の恋」→異性間の恋愛感情の代替物
硬派学生たちを中心とする「男の友情」→「恋愛」とは異なるものとして無害化
という二つのパターンで認識。ヘテロセクシズムから逸脱しない形態へと解体されていった。
当初は肯定的に受け止められていた学生男色が支持されなくなっていった
理由について、先行研究では通俗的な性科学の流行や「同性愛」概念の登場に求めてきたが、学生男色イメージ自体の変化も大きな理由だ。

感想

いろいろ興味深いです。まとめる際には逐一触れていませんが、引用されている文献も読み応えがあります。教育心理学の論文とはだいぶ趣きが違って、歴史資料から言説分析を論理的に行って考察を加えるスタイル。
納得のいく説明が与えられているように感じました。
このテーマにあたる際には現代の「腐女子」ブームを想起せずにはいられません。この論文の学生男色イメージの主体は男子学生自身ですが、腐女子はまさにファンタジーとしての(学生)男色を生産し消費しているわけで、女学生の登場によって男子学生の中では薄れたとされるファンタジーが女性によって復活・再生させられているのはとても面白いことだと思います。男女間では「智力の交換」や「大志の養成」が不可能であるという前提のもと、それらが可能な男性同士の関係を、男女間の関係よりも優れていると主張して、対等な男性同士の親密な関係性としての男色を理想視するファンタジーを共有する、というのは腐女子の根底思想の説明としてほぼ通用するのではないでしょうか。それに加えて女性が自らの女性性を忌避した結果であるとか男性が攻められているさまを楽しみたいからとかいろいろバリエーションはあるのでしょう。
この論文では男女間の「恋愛(=結婚へとつながる概念へと変質しつつあった)」に特権が付与されて同性間の恋愛がまがいものとして周縁化されていったとしていますが、そうしたヘテロセクシズムが浸透して常識となっていった結果、現代においては、反社会的なエネルギーを強く有し結婚などの現実の制度と断絶したものとしての恋愛を虚構の世界に求め、”「男性同士の恋愛こそ結婚に回収されないからこそより真実の恋愛だ」などと特権化する”腐女子文化が興隆しているのかもしれません。
では百合萌え男子については?
同様に、もしくは反転すれば説明可能なのでしょうか。
面白そうだけどよくわからないし支度をせねばならないので一旦ここで終わりにします。
朝からちょっと刺激的でした。