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旧町名をさがす会(金澤編)

2112-09-03

はじめに

102soさんにご快諾いただき、旧町名をさがす会金沢支部の会員として、
行政上は失われてしまった北陸・金沢の旧町名を見つけて紹介していきます。

ご本家、東京のさがす会よりネタ切れは確実に早いと思われます…
あくまでも番外編として、短い間(?)ですが、お楽しみいただければと思います。
ちなみにこのサイトはリンクフリーですよ。

102soさんによるご本家のさがす会はこちら。
旧町名をさがす会

2018-11-04

金石通町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活した年】平成30年(2018年)
【現在の町名】3日前から金石通町(それまでは金石西三丁目、金石西四丁目)
【感想・雑記】平成最後の平成30年11月1日、ついに9年ぶりに旧町名が復活しました!!しかも3町同時。今回ご紹介するのはそのうちのひとつ、「金石通町(かないわとおりまち)」です。したがって、今回ご紹介するのは、正確には旧町名ではなく、生まれたてほやほやの新町名となります。そして昨日11月3日、平成最後の文化の日に、金石通町にある宮腰緑地にて、「旧」の文字を埋めた旧町名標柱の除幕式が開催されるということで、ひさびさに実家帰って見に行ってまいりました。

わたくしのふるさと金石町。金石通町は、町のメインストリートといっても過言ではないでしょう。昭和18年(1943年)の金沢市編入前、石川郡金石町だった時代の金石町役場は、この金石通町(当時は金石町字通町)にありました。また、金石通町には通町商店街があります。小学生のとき、先生が「かないわ銀座」とよんでかるく小馬鹿にしてましたが、地方商店街の宿命か、衰退ぶりは想像以上です。当時かよった本屋も文具屋もおもちゃ屋もなくなってしまいました。なお、江戸時代には上通町と下通町にわかれていて大店もあり、人の往来も多く、大変にぎわった町だったとか。
ちなみに、かつての金石町役場は、金沢市役所の支所、金石市民センターおよび金石町公民館となっており、町の中心施設であります。旧町名の復活記念式典ももちろんここで開催されましたよ。

ところで、今回ご紹介したのはかつての旧町名当時のものかどうかの判別が難しい「デンデン系」の電柱番号札です。本日、あらためてあたりをくまなく探してみましたが、当時の表札を掲げるお宅やデンリョク系の電柱番号札は全く見つかりません。NTTの「通町」はたくさん見つかります。しかしながら、電電公社のロゴが書かれた手書き風の番号札はおそらく撤去されてしまい、1枚も発見することができませんでした。したがってもう見ることができない電電公社ロゴ入りの通町番号札である、という希少価値をアピールしつつ、旧町名復活のお祝いの言葉にかえさせていただきます。本当におめでとうございました!

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宮腰緑地・除幕式の様子(上)
「旧」の文字が埋まった標柱(中)
金石市民センター(旧金石町役場)(下)
[発見日:平成25年9月29日]

2018-07-07

石屋小路

f:id:cho0808:20161203112842j:image:left:h400【消滅した年】昭和45年(1970年)
【現在の町名】武蔵町
【感想・雑記】武蔵スタジオ通り。演出の街だから武蔵スタジオ通りらしいのですが、意味はよくわかりません。昔このあたりにライブスタジオがあったのが由来との説があるようです(出典:N氏のぶらり散歩日記、トリップアドバイザーなど)。そもそも武蔵スタジオ通りと呼ばれるようになったのはいつ頃でしょうか。わりと最近な気もするのですが、なぜか由来がわからない。。。

さて、今回ご紹介する石屋小路(いしやしょうじ)は、まさにこの武蔵スタジオ通りの町ということです。場所は金沢の繁華街、武蔵ヶ辻にある「めいてつ・エムザ」というデパート脇の小路です。「武蔵スタジオ通り」と大きくモニュメントに書いてあるのですぐにわかりますよ。江戸初期、この小路に藩の名高い石工が住んでいたのが由来だそうです。江戸時代の地図にも「石屋小路」の名前が見られるのですが、意外にも正式な町名となったのは明治4年(1871年)なのだそうです。それまでは安江町横町という町名だったのですが、通り名称がそのまま町名に採用されたといったところでしょうか。それにしても、つい最近誕生した武蔵スタジオ通りの由来がはっきりしないのとは対照的ですよね。

ところで、金沢の二大老舗百貨店(?)「めいてつ・エムザ」の正式名称は、「金沢名鉄丸越百貨店」です。昔から丸越(名鉄丸越)とよばれて親しまれてきましたが、平成14年(2002年)の、隣接するスカイビルと一体化する大規模改装とともに、現在の「めいてつ・エムザ」の愛称がつけられました。
金沢名鉄丸越百貨店は、昭和5年(1930年)、製茶業を営んでいた実業家(のち政治家)の林屋亀次郎さんが建設したビルに誘致した三越金沢店がはじまりだそうですが、わずか5年ほどで撤退し、跡地に「丸越百貨店」を開業したそうです。ちなみに場所は現在地でなく、武蔵ヶ辻交差点の対面の「かなざわはこまち」のある場所に建っていたらしいです。ダイエー跡地、のほうが地元のみなさんにはよく分かるかもしれませんね。

では、現在のエムザの場所には何があったのでしょうか。実は、ここには「住吉市場」とよばれた青果市場がありました。わたしの親世代の方ならごぞんじなのかなー。ここ数年、海鮮丼を求める観光客でごったがえす「近江町市場」は昔からの魚市場ですが、その向かいに大きな青果市場があったということです。
その後、大規模再開発事業とともに、住吉市場が現在の中央卸売市場(西念町)に移り、昭和48年(1973年)にはスカイビルが建設されて、そのとなりに丸越百貨店が移転して名鉄丸越百貨店となり、めいてつ・エムザとなって現在に至ります。ちなみに、エムザの3階テラスに出て螺旋階段を登ったところには、今も武蔵住吉神社が鎮座しているのですが、、、金沢市民でもごぞんじない方が多いのではないでしょうか。なお、住吉市場の住民の方たちは住吉町と通称し、石屋小路と住吉町の両方の表札を掲げるお宅もあったとかなかったとか。(出典:『金沢百年町名を辿る』読売新聞金沢局(1990))

最後に、とても残念なお知らせです。今回ご紹介した「金澤市石屋小路」の旧町名表札と古いお宅ですが、たび重なる再開発を乗り越えて平成30年の今日まで残り続けてきたのですが、最近取り壊されて、コインパーキングに生まれ変わってしまいました。。。

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武蔵スタジオ通り(かつての石屋小路)(上)
住吉市場跡地の標柱(中)
めいてつ・エムザ4階に鎮座する武蔵住吉神社(下)
[参考文献:『金沢百年町名を辿る』読売新聞金沢局(1990)、『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、ウィキペディア、N氏のぶらり散歩日記、トリップアドバイザー]
[発見日:平成28年12月3日]

2018-06-06

岩根町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目
【感想・雑記】この週末、金沢では百万石まつりが開催されました。今年の百万石パレードはお天気にも恵まれてたいへんなにぎわいでした。羽田美智子さんのお松の方も、高橋克典さんの利家公も、ミーハーながら、きれいだなあカッコイイなあと思いながら拝見した次第でございます。
ところでわたくし、先週の金曜(6/1)は早く帰ることができたので、加賀友禅灯籠流しも見物することができました!加賀友禅灯籠流しは、友禅流しで有名な浅野川に灯籠を浮かべて、友禅職人の供養と友禅の発展を願う行事だそうです。今年は、半数もの灯籠が燃えてしまうという事件が発生したのでご存知のかたも多いかもしれません。
そういうわけで、いつもの無理やりなこじつけに従いまして、本日は、金沢を代表する川、浅野川沿いの町ということで岩根町(いわねまち)をとりあげたいと思っております。

岩根町は、灯籠流しの会場から少し離れていますが、彦三大橋と昌永橋・中島大橋との間にあった川沿いの町です。昭和40年の住居表示実施により、瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目の一部となりました。町名の由来は、江戸初期、越前の牢人(浪人)で、馬術の名人であった岩根十蔵が、この地に馬場を開いたことによるもので、岩根馬場と呼ばれました。そののち馬場は、川の対岸、現在の馬場小学校近くにあった関助馬場に移りますが、跡地が町地となり、江戸中期ごろには、岩根町といわれるようになったとのことです。江戸時代の岩根町は、もともと川岸の10数軒だけの小さな町でしたが、明治5年(1872年)に、おとなりの勘解由町(かげゆまち)や亀淵町(がめぶちまち)などと合併して、戸数60軒ほどの大きな(新)岩根町になりました。なお、当時の町の規模としては勘解由町のほうが大きかったそうなので、ひょっとしたら、今回ご紹介する町が勘解由町になってたかもしれません。これを見つけたのも元は勘解由町だった場所ですし。これもまた運命のいたずら、ですよね。そして、いつの時代も、町は生まれそして消えてゆくものなのでしょう。それにしても、元々の岩根町と勘解由町とで、町の雰囲気、というか気どっていえば表情?みたいなのが全然違うから面白いですよねー。これぞ、さがす会活動の醍醐味であります。

なお、勘解由町の由来は、加賀藩士であった森川勘解由のお屋敷があったことによるものだそうで、勘解由殿町(かげどんまち)などとよばれたとのことでした。詳しくは、「市民が見つける金沢再発見の会」武野さんのすばらしいブログをご覧ください。とても勉強になる記事が盛りだくさんですよ!

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浅野川・加賀友禅灯籠流し(上)
江戸時代からの岩根町(中)
江戸時代は勘解由町だった岩根町(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成24年7月23日]

2018-06-04

西堀川町

f:id:cho0808:20120303144838j:image:left:h350【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】堀川町
【感想・雑記】此花校下の旧町名は、なんと平成25年(2013年)1月25日以来、5年半ぶりということです。そんな此花人待望の旧町名のわりには、現在の町名である「堀川町」に方角がくっついただけの、一見行政的無機質な印象もイナメナイ「西堀川町」のご紹介となります。しかも、スマホの地図アプリによれば、西堀川町は、鉄道の高架下に成仏しきれずに幽霊のごとく存在しているようなのです。

実は、金沢駅の高架下にはなぜか幽霊町名たちがたくさん眠っているのです。ウソだとお思いなら地図アプリで金沢駅周辺を確認してごらんなさい。ほうら、西堀川町のほかにも、日吉町、広岡町、折違町、柳町、梅沢町などなど、消滅したはずの町名がいくつも見つかるではありませんか。もちろん、いずれも住民はゼロです。それにしても、これらの幽霊町名たち、なぜ線路下にこんなにも残っているのでしょう。住居表示の際になにか手ちがいがあったりしたのでしょうか?オバケ嫌いのわたしとしては、生き返らせてあげるか、それが叶わぬならば、ひと思いに成仏させてあげたいと願わずにはいられません。
なお、かつての西堀川町は通りを中心に、背割り(町の境界が家の背中)になった典型的な両側町でしたが、いまは堀川町の一角となりました。ただ、その延長線上に1本だけ「西堀川」と書かれた電柱が、これまたなぜか残されておりましたとさ。

…と、ここまで書いたあと、念のため、図書館で最新の住宅地図を確認したところ、高架下に眠っているのは、「西堀川町」ではなく「淵上町」との記載が見つかりました。はたして何が正解なのでしょうか。まあ現れたり消えたり、そのへんも幽霊らしくていいんじゃないでしょうか。ま、そゆことで一応、西堀川町は、旧町名ってことでいいんですかね?いいですよね?そのへんで手を打ちましょう。ちなみに図書館の帰り道、久々に西堀川町を再訪したところ、この西堀川町の表札は残念ながら消滅しておりました。。。なむー。

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鉄道高架下の西堀川町(本当は淵上町?)(上)
西堀川町の通り(中)
電柱の「西堀川」の文字と奥に見える高架橋(下)
[参考文献:『金沢市住宅明細図 地籍版中央部 平成30年版中』刊広社(2018)]
[発見日:平成24年3月3日]