金石相生町

f:id:cho0808:20120805145139j:plain:left:h300【ほぼ消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活するかもしれない年】ナントカ2年(2020年)頃?
【現在の町名】金石北一丁目、金石北二丁目、金石北三丁目、金石北四丁目、金石相生町
【感想・雑記】金石相生町(かないわあいおいちょう)は、金石町の郊外にあたるわりと広範囲な町域です。現在の金石北一〜四丁目の各一部で、最後にのせた地図の大部分が、かつての金石相生町になります。なお、地図の右上に「金石相生町」の文字が見えますが、実は道路と雑木林と砂浜だけからなる一区画にわずかに残っているようです。

相生町という地名は全国にありますが、明治時代に急増した瑞祥地名のひとつです。瑞祥地名とは、縁起のいい名前をつけた地名のことで、似たような意味の地名として、高砂町、千歳町、老松町、弥生町などがあります。「相生い」「相老い」などにも通じ、合併を祝って付けることも多いそうです。金石相生町も、慶応2年(1866年)に宮腰町と大野町が合併したときにできたお祝いの地名のようです。(宮腰と大野との合併の話についてはこちらの日記も参考のこと)

さて、金石相生町(石川郡金石町字相生町)といえば、戦前の一時期、現在の金石町小学校の建つ場所に「涛々園」という遊園地がありました。大正14年(1925年)に金石電気鉄道が開園・運営したテーマパークで、演劇場、動物園、相撲場、大浴場などがあり大変賑わっていたそうですが、戦時中の昭和18年(1943年)に閉園してしまいました。また、ほぼ同時期に浅野川電気鉄道社長の平澤嘉太郎さんが、近くの粟ケ崎(というか内灘?)に粟ケ崎遊園を開園しますが、こちらも昭和16年(1941年)に軍に接収されて閉園しています。涛々園も粟ケ崎遊園もどちらも、阪急・小林一三・宝塚遊園地のミニチュア版といった感じだったのでしょうか。
なお、現在は卯辰山で開催される相撲の甲子園、高校相撲金沢大会は、当初金石海岸の日和山で開催されていましたが、大正15年(1926年)から涛々園が大会会場となり、涛々園が閉園してからも昭和26年(1951年)まで開催が続いたということです。
そして翌年の昭和27年(1952年)には、金石御塩蔵町校舎から金石町小学校が移転してきて現在に至ります。当時の名残なのか、わたしが通ってたころの校庭には相撲場がありましたが、今もあるんでしたっけ?

本日最後は、金石相生町で発見したデンリョク電柱番号札に書かれていた「涛々円」をご紹介して締めくくります。「涛々園」ではなく「涛々円」!いやーデンリョク電柱番号札は奥深いわー。

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金石相生町あたりの地図(mapion)(上)
「涛々円」のデンリョク電柱番号札(下)
[参考文献:ほぼウィキペディア、いいね金沢(金沢市ホームページ)など]
[発見日:平成24年8月5日]