創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(156) ロール・パーカー夫人とのインタヴュー(1)

ドイル・デーン・バーンバック社 副社長兼コピースーパバイザー


この人ぐらい、日本の広告界の人びとに親しまれたDDBのコピーライターはいないだろう。
DDBを訪れた人のほとんどは、例外なく、彼女の親切なもてなしを受けているし、また、ご主人とともに2度プライベートに来日、九州からずっと東上したりして、日本をよく理解してもいた。いちばん気に入ったのは尾道と。
そのうちの一度、電通の新井静一郎さん(故人)と近藤朔さん(故人)のお手配で、とてもいいスピーチの会を催していただいたが、ぼくは逆に、夫人からしかられた。「今回の訪日は休暇中のプライベート・タイムなのよ」と。30数年前に休暇に対する基本的な考え方を学ばされた。

ものを書くことで生活を立てようと考えた


chuukyuu「あなたがコピーライターになろうと決心した前後のいきさつを聞かせてください」


パーカー夫人「5歳の時、グリムとかアンデルセンのような童話作家になりたいと考えていました。15歳になると、それが抒情詩人に変わっていましたが---。
20歳になってからは、ものを書く仕事で、確実に収入のある分野で働きたいと思うようになりました。それには新聞記者がいいと考えました。
現実に就職する段になって、速記とタイプの技術も持っていたので、まず、秘書として入り、最終的にはものを書くことにしようと決めました。
その時、2つの口がありました。1つは『ニューヨーク タイムズ』紙、もう1つは広告代理店でしたが、『タイムズ』紙のほうが週に5ドル安かったので、代理店の方をえらんじゃったの。
その代理店は、DDBではありませんよ。
もちろん、DDBの名も耳にしていました。DDBは創業したばかりで、伸びつつあり、人びとの口に、よくその名がのぼっていましたから」


chuukyuu「それで、バーンバックさんへ手紙を書いて売り込んだ?」


パーカー夫人バーンバックさんあてじゃなくって、当時のコピー・チーフのフィリス・ロビンソン夫人あてでした。でも、秘書の時代ではなくって、その代理店でコピーライターになり、一人前になったと自分でそう思った時です」


chuukyuu「どんな手紙だったのですか?」


パーカー夫人「ただ、なぜ、DDBで働きたいかを書いたの。そうしたら、ロビンソン夫人とバーンバックさんが判断してくださって、採用されました。見てもらうほどのサンプルを持っていなかったし---。
そうね、もし、いままでいちばん成功したヘッドラインは?って聞かれたら、この手紙の『親愛なるフィリス夫人』って答えることになるわね」

バーンバックのやり方を見て勉強した


chuukyuuDDBでは、どのような指導を受けられましたか?」


パーカー夫人「私は、とても幸運だったのです。私がDDBに入った当時は、バ−ンバックさんとロビンソン夫人とゲイジさんが主要なキャンペーンを担当しており、コンセプトもあの人たちがつくっていました。それを私は、そばで見ていられたからです。
私たちは、小さなアカウントや業界紙広告、カタログなんかを担当していました。私にとってスリリングだったのは、ロビンソン夫人とゲイジさんがやっていたコール水着の広告のボディ・コピーを書いた時ね。
それから、まだ無名アートディレクターだったクローン(Helmut Krone)さんが入社してきたので、私は、バートンズ・キャンデーの一切の仕事をあの人と組んでやるようになりました。私たちは新聞広告のいくつかを手がけましたが、それらは新聞広告の古典的作品となっています。


おいしい--- 
ほら、ねっ?


とにかく幸運でした。手をとって教えてもらったというんじゃなくって、いつもそばで、あの人たちのやり方を眺めることができたんですもの。これは、私にとっては、すばらしい勉強でした。それに、まだ、ヨチヨチ歩きのライターだった私を、バーンバックさんやロビンソン夫人が個人的にいろいろ教えてくれたんですもの」


パーカー夫人が入社したころのバーンバック氏は、38歳か39歳、ロビンソン夫人は30歳そこそこ、ゲイジ氏もそれぐらいでした。現在のパーカー夫人は、40歳を越えているはず---とすれば、新人がパーカー夫人といっしょに仕事をすることで、彼らは大いに勉強になるはずです。したがって、最後のセリフは、パーカー夫人の懐古趣味として聞き流しておきましょう。


chuukyuu「英国でお育ちになったでしょう? コピーを書いていて英国英語で書いてしまうことはありませんでしたか?」


パーカー夫人「いいえ。でも、英国の高校で、とても厳格なキングス・イングリッシュの先生に習ったんです。ですから、米国へ渡ってきた当座は、米国人ってなんてメチャクチャ文法を使うんだろうって、びっくりしました。
ウィンストンの煙草に、『ウィンストンは煙草らしい味がする---Winston taste good like a cigarrette should ---というスローガンがありますが、これも文法的な点で私を悩ましました。正しくは"like" じゃなくって"as" ですもの(でも、1969年の現在では、"like"が普及してしまって、教養のある人まで使うようになっています)。
とにかく、そうこうするうちに、私には米国式口語を変える力がないってことを悟り、私の英国式英語を変えることにしたんです。しかし、米国式表現がわかってからは、私は米国英語に深入りするようになってしまいました。
コピーを書いていて、困ったことはありましたね。自分はふつうに書いているつもりなのに、米国英語の立場から見ると、とてもキザに見えちゃったりして---。それに私のアクセントは、DDBでは笑いのタネでした。ですから、はやく米語になれようと努力したのです。いまでも、時どき英国英語がでちゃうらしいけど---。英国へ行って友たちに会うと、米国なまりがひどいって言われているのに。
言葉の問題は、これから徐々に重要性を失っていくと、私は思います。その理由は、最近の傾向として、米国式英語も英国英語にだんだん近づきつつあるからです。英国人が米国人のスラングを意識的に使うこともあるんですよ。たとえば、ポピュラー・ソングなんか。逆にビートルズや英国の近代文化だって、どんどん米国に流れてきているし---。そうね、あと10年もすれば、両者の違いはなくなるんじゃないかしら?」


>>つづく