創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(376)DDBへ帰ってきた人たち

クリエイティブな仕事をしていると、「会社、変わろうかな」と思うことは、少なくありません。会社が仕事(あるいは自分ではあるとおもっている才能)に見合ったペイをしてくれてない、いま担当しているクライアントが思ったほど理解してくれないで作品をよくボツにする、サービス残業は仕事が遅いからだときめつける、上役が昼飯のあと爪楊枝をくわえて帰ってくる、(女性クリエイターの場合---結婚の対象になるような男性クリエイターがいない)などなど---まあ、転職の理由は山ほどあるのが職場というものです。
入るときはクリエイターの天国みたいなところと思って1,000人に1人という競争に勝ってDDBに入り、めでたく広告賞もとったら、ベイを3倍だすという好餌につられて転社するクリエイターも少なくないようです。(が、ぼくの甘い目で見ても、DDBで華々しく才能を開花させたクリエイターで、出ていってからもいい仕事をしたのはただの1人---ジョージ・ロイス氏だけでしたが---そうか、メリー・ウェルズさんもいましたね)
比べるのもおこがましいですが、わがAETは、辞めていってさらに華々しい活躍をしたクリエイターが、少なくとも片手の指ほどはいます。あなたのことです。(自讃がすぎたかな)
拙編『DDBドキュメント』(ブレーンブックス 1970.11.10)


戻ってきて本当によかった


……以前働いていたところ…… 甘い感傷で思い出すところもあれば、そうでないところもある。だがたとえ甘い感傷で思い出すところでも、必ずしも、もう一度そこで働きたいと思えるような場所でないことが多いものだ。
DDBは違う。ここでは以前働いていて、また戻ってきて働いている人は、どんどんふえている。そういう人たちの話からすると、戻ってくるのに、すばらしい場所なのある。


家へ戻るような気持でうれしかった


チャック・ドレマスは1966年5月にDDBのフィルム・ライブラリーで最初の仕事を始めた。1969年5月に准プロデューサーの肩書になっていたが、DDBをやめてテレ・テープ・プロダクションで、プロデューサーとなった。
「あそこでは、とてもたくさんのことを学びました」とチャックはいう。
「でも去年(1969年)の夏、DDBのテレビ部門が再構成されて、私にプロデューサーとして戻ってきてくれといわれた時は、うれしかったです。家に戻るような気持でした」(写真:チャック・ドレマス)


DDB史で最初の出戻り者となったのは、たぶんロール・パーカーだろう。ロールは1953年に駆出しコピーライターとしてDDBに席を得た。1956年にDDBをやめ、ほかの代理店へ移った。
まもなくその代理店は、彼女ががまんならないような代理店と合併してしまった。そこで彼女は別の代理店へ移った。だがそこも、がまんできないような代理店と合併してしまった(1950年代後半期には、代理店の合併は、今日新しい代理店が誕生するのと同じくらい日常茶飯事だったのである)。
ロールは1959年にDDBに戻ってきた。そして現在は副社長兼コピー・スーパバイザーである。 (写真:ロール・パーカー)


アートディレクターのチャーリー・ピッキリーロは、1963年から1969年の6年間、DDBを離れて、PKL(ジョージ・ロイスの代理店)でエグゼクティブ・アートディレクターをしていた。
しかし帰参者の多くは1年以内に戻ってきている。 (写真:チャーリー・ピッキリーロ)
ジョン・アナリーノDDBニューヨーク本社を1968年にやめて、サンフランシスコのマッキャン・エリクソンでクリエイティブ・ディレクターとなったが、1年後にDDBロサンゼルスヘ戻ってきた。


DDBロサンゼルスには、ジョン・ウィザーズがいる。彼は1968年3月にDDBニューヨーク本社をやめ、ジャック・ティンカー&パートナ−ズにはいった。(chuukyuu注 ここへは、DDBからメリー・ウェルズなどが高給で移籍していた)
だが、12月にはジャック・ティンカーをやめ、ロサンゼルス支社のクリェイティブ・ディレクターとなった。


1969年初めに戻ってきたティーブ・ピアソンはこういっている。
DDBをやめた時は秘書でしたが、コピーの経験を十分積んでライターとしてDDBへ戻ってきました。長い長い1年間でしたわ」


「タイプを打ったらどうだ」といわれたので……


ラリー・レブンソンDDBで2年間コピーライターをしていたが、1968年4月にやめて、ある小さな代理店へ行った。そこで彼は指導権をにぎらせてもらえるはずであった。
「とはいっても、実際の指導的活動なんてあそこにはありはしなかったのです」と彼は感慨をこめて語っている。「役員の一人がオフィスのドアの前に立って『タイプを打ったらどうだ』というような場所でしかなかったのです。4ヶ月間そこにいましたが、人事課ではご丁寧に休暇扱いにしてくれました。あれは、はかない錯誤じゃないでしょうかね」(写真:ラリー・レブンソン)


別の代理店で奇妙な経験をしたコピーライターはほかにもいる。ディーナ・コーエンは、1967年の初夏にDDBをやめ、代理店のエキス・ヘリメンタル(実験的)クリエイティブ部門に加わったが、9ヵ月でDDBに戻ってきてしまったのだ。どうしてだろうか?
「それは、私たちの唯一の仕事は、クライアントを呼び入れ、赤い靴を買わせるための、ウィンドーに飾ったみどりの靴になることだったのです」とディーナはいう。
「私たちはクライアントに『アア』とか『オオ』といわせるためのキャンぺーンをつくりました。でもそれは、クライアントが『アア』とか『オオ』といった時、その代理店の制作者たちをレギュラー・クリエイティプ部門の平凡なキャンペーンヘ引き戻すためのものだったのです。
その時です。バーンバックさんがいつもいっていた、
『よい広告をつくるには、よいクライアントが必要だ』という意味が本当にわかったのは。ほかの代理店で経験してみるまでは、クライアントをほめるためにいっているのだと思っていました。でも今は、チャンスをつかむのを恐れているクライアントは、きっとつまらない広告でしめくくりをつける、ということがわかってきました」(写真:ディーナ・コーエン)


1年以上DDBを離れていた人たちもいる。
コピーライターのジョン・クロフォードは、たったの16ヶ月間DDBにいたあと、1967年5月にやめて新しい代理店設立に参加した。2年後に戻ってきた。
この記事では書ききれないほど、出戻り者はもっといることだろう。


だが、最もよく知られている復帰は、ジョージ・ライクであろう。
「私が戻ってきたのは」と彼はいう。「ほかの人たちがそう要求しただけのことなのです。ベントンとか、ボウルズとか、メリーとかいった人たち(そういう人びとがいればのことですが)は、いつも私にこういい続けましたよ。『トム、なぜDDBへ戻らないんだい?』『そんなに単簡(ジョーク)には行かれないよ』と、私は答えたね。『そうだろうね』と彼ら。
そして彼らは、靴磨きのフランクを呼んで、コトを運んだというわけさ。私は結局、最後には勝ったわけだ。ベントンは、結局百姓となって終わったし、ボウルズは、インドヘやられたし、もう1人はどうなったか知らないけどね」
(写真:ジョージ・ライク)


(DDBニュース』1970年4月号)



明日は、ラストに登場している出戻り男ジョージ・ライクと靴磨きのフランクとの会話を掲載します。フランクは、DDBの社内をまわっている古参の靴磨き人です。もちろん、フリーランス