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facebook でダラダラと書いていると、ブログのモチベーションを維持するのが難しくて、ついつい間があいてしまう。この間いろいろ書きたいことはあったのだけど、でも書けないことも多かったり、ネガティヴなことは書いてても疲れちゃうからイヤだし...

先日まで京都で Picnic をやっていたんだけど、基本的には去年一年で終わらせたくないということと、どうも一緒にいるだけでもうゴールというようなディスカッションに問題を感じていたので、一緒にやっている増本くんとそのあたりを話そうということでやったんだけど、こう書いちゃうとそれは、なんかクレア・ビショップの関係性の美学批判みたいになっちゃうんだけど、そうじゃなくて、ディスカッションという場所ではディスカッションという場所の意味に向かってとりあえず真摯でないと、つまり、リクリットもリクリットなりに食事に対して真摯だと思うんだけど、それさえないというのはどうも問題なような気がするということ。で、それについて話したんだけど、もちろんそんなに簡単に解決できるはずのことではない...

ところで、Picnic が終わったあとで、京都の美大の学生と話したんだけど、少し心に残ることを言っていた。アーティストはみんなどこか怖がっている...。つまり近々のところでは、どうやって生計たてようかとか、展覧会に人が来るかなあとか、ギャラリーがつくかなあとかなんだけど、それを聞いたとき、日本で名が通っているアーティストたちもみんなそうだなあって思っちゃった。起業家とか天才とかというような無理なフレームに自分を押し込めようとする姿にさえそれを感じちゃう。彼女とはこれからも話さなくては...

東谷くんのこと

東京国際フォーラムで開かれた第3回アートフェア東京(2008)の関連イベント「ダイアローグ in アート」のなかの「アジアの国際展、次の10年へ」は、僕にとって印象深い出来事だった。シンガポールビエンナーレの芸術監督や、光州ビエンナーレのコキュレータ、南京トリエンナーレのキュレータを招き、僕がモデレータを務めた。議論というよりは、各国際展の紹介という傾向も強かったため、前半部分はそれも仕方のないことかとあきらめ、後半に何か議論ができればと思っていた。前半の紹介が終わろうとしていたとき、それは起こった。一人の男が会場後ろから大声を上げて乱入してきた。「ダメダメ、こんな議論意味がない」。東谷くんだった。彼は当時、釜山ビエンナーレのキュレーションも担当しており、パネラーとしてその場にいてもおかしくなかった。「議論になってない議論に。それに、僕のやってる釜山のことについても触れていない」。もっともだった。苦虫を噛み潰したような顔をしている隣の登壇者を無視して、彼を前方のパネラー席に招き入れ、そのことでやっと議論らしきものが始まった。会場からも南京やシンガポールについて、政治的背景についての考慮はどうなのかという主旨の質問があったように記憶している。そのとおりだった。光州ビエンナーレでは、光州事件の記憶が反芻されている。パネラーに転じた東谷くんは、自身の意見を述べつつも、節度ある態度で、おとなしくその役を演じてくれた。議論は意味のあるものに転じたと思う。少なくとも僕の隣で他の発言者の発表時に中古車サイトをブラウズしていた登壇者や、政治的な意味で微妙な土地での開催であるにもかかわらず、そのことを正面から取り上げて説明しなかった登壇者よりも、彼の姿勢は真摯だった。だからこそ、CAMP主宰で開催されたChim↑Pomの「ピカッ」を巡る討議の場で、彼がモデレータを務めているにもかかわらず、その問題を正面からとりあげようとせず、「公共性」の話に逃げようとする彼に対して怒り、もっとそのこと自体を話そうと提案したのだ。また別の討議の場で、また別のかたちで出会えると思っていた。

20km向こうに

渋谷に原発があって、もしもそこで事故が起きたら、その程度にもよるけど、どれくらいのエリアが立ち入り禁止になるのか?
今回のプロジェクトは、それを実感してみようというプロジェクト。
いろいろと、考えながら歩いている。

アートにかかわることは、それ自体とても刺激的なことだけれども。常態化していろいろなことにたかをくくってしまうと、
むしろマイナスなものに転じてしまうおそろしさがある。
トークに出て、つねに自身や自身を取り巻く窮状を訴えている人たちにもそれはある。
そうしている本人が、訴えようとしている当の対象と同じ構造を自身の中に取り入れてしまうこと。
このことを痛感したのは塩尻だった。
キャリアや熱意や活動量が、裏目に出てしまうということがある。

僕がかかわっているプロジェクトでも少なからずそれはある。
そのこと自体を糾弾するのではなくて、そうならないように常に意識すること。
それは委縮ではなくて、むしろその意識の果てにしか解放もないということだろう。

fbなどのおかげで

ブログとの距離を見失い中ですが、やっぱりちゃんとやっていきます
memoがわりに、現在の懸案事項を書いておきます

・次の本のアウトライン
・ここ20年の日本の現代アート
・子どものためのラジオ
・準備室の展開
・水戸のトーク
・成績(!)
・作品のプロトタイプ
・北九州
・小演劇
・仙台のトーク

そして、今日からは塩尻です 
山中の塩尻で、海を想う試み

今年は、日本をあっちこっちへ移動する夏を実践中です
新潟、西蒲の海、きれいだったなあ...

明日から

manifestaとdocumentaに行ってきます。今回は、図らずも院生、学生など、総勢15名近い大所帯です。前回、アナウンスだけしたため、結構無謀なツアーで行った人がいるため、一部の学生には参加を呼びかけたのですが、それが裏目に出て、大所帯化、大学側からも急造のツアーに批判が出て、少しへこんでいますが、それでも、アーノルト・ボーデの成したことの初日を目にすることが、きっと、学生たちにとってかけがえのないものになると信じています。行ってきます。いろいろなことやものと、向き合ってきます... 大学の対応にはいつも唖然とさせられますが、それでもいろいろな問題を指摘してくれた上で、楽しんで行って来て下さいと声をかけてくれたHさんには感謝しています。ありがとうございました...

アーティストであることを強く望み、それに向かって真摯であることと、既存の枠組みに入ることは根本的に違うことだと思う。京都で行ったPicnicのkick off talkに対して、京都で活動している人がちょっとだけ顔を出し、ずいぶん乱暴な批判を書いていたけど、もう少し現状をしっかりと見つめてほしいと思う。美大生の多くは、あるいはアーティスト予備軍は、さまざまなかたちで一社会人として未熟な状態を生きざるをえない。そのことに対して、声高に強くアーティストであることだけを肯定する視点に固執していても、何も改善されることはない。

現状を見つめて、できる部分に手を伸ばすこと。例えばそれは、本当に小さな細部にもある。京都のPicnicに関して、美大生であることだけで彼女や彼らを下に見ようとする視線、あるいは、様々なイヴェントなどで、参加者を階層化してしまう仕組み。Picnicは、もちろんそれに抗うために始めたものだ。

Why picnic ?

‘Picnic’ has somehow free and healthy impressions. Of course, sometimes it will stray to the direction of hedonism, but not of control and restriction. The picnic which held at the boundary of Austria and Hungary in 1989 is well known as the beginning of collapse of divide of east and west. This fact, that is, something soft, not something powerful, is succeed in acting upon the power, should not be forgotten.

We hope that our picnic for art which began in the city of Kyoto is the same. We continued to discuss each other with drinking and eating, at every place in Kyoto. At that time, we didn't have any boundaries to across, but from another point of view, we were always surrounded by something to do so. Did we feel any kind of control or restriction in art world ? We had no rule in our picnic, but we kept one thing in our mind ambiguously. That is, don’t talking about the way of something meaningful for surviving in the system in front of ourselves. Of course, sometimes our discussion would seem like irresponsible complaints of drunkards. Still, we want to say it is a noble picnic. Those words might be the words for crossing something, toward somewhere…

In our picnic, no music sounds. But, a small small baby who took part in our almost every picnic, was always peevish at everywhere. Probably our talk was similar to her cry. But if it were fact, this would give us the power. Because, always she had some complaints, tried to correct those, and appealed it.

The expression of “no picnic” is said to express difficulty of doing or acting. This difficulty might be contained also in the situation around contemporary art. So, picnic is necessary. Because, doing picnic is not "no picnic".