MGM メイヤー=サルバーグ体制の確立とグレタ・ガルボ
ルイス・B・メイヤー=アーヴィング・サルバーグ体制が確立され、2人の給料も上がった。メイヤーは週給1,500ドルから2,500ドルに、サルバーグは650ドルから2,000ドルに増えた。利益の配分にも保証をつけさせ、株を安く分譲する約束もさせたという。また、メイヤーはサルバーグを重用し、自分の報酬よりも高い報酬となるようにしたとも言われている。
後にMGMを代表する大スターとなるグレタ・ガルボは、監督でありガルボを育てた人物でもあるモーリッツ・スティルレルと共にMGMと契約し、ハリウッドへやってきた。スティルレルは創造のためには贅沢が必要だと考えており、金を稼ぐためにMGMのルイス・B・メイヤーと契約してアメリカに渡ったのだった。
当時スティルレルは、ドイツで映画を撮る予定だが、ドイツの映画会社が破産し頓挫。スティルレルも個人的に借金を抱えていたところを、「喜びなき街」(1925)のためにグレタ・ガルボをドイツに貸すことでしのぐなど、金銭的な苦労を重ねていたらしい。そのため、メイヤーからの誘いを受けざるを得ず、週給1,500ドルでMGMへわたったとも言われる(ガルボは週給400ドル)。
メイヤーの目的はスティルレルだったが、スティルレルがガルボとも契約を結ばせたのだった。ちなみに、ガルボとスティルレルの間には肉体関係があったというのが通説だが、スティルレルは同性愛者だったという説もあるという。
さらにMGMは、ゴールドウィン撮影所のあったカルヴァー・シティを本拠地として撮影所を増築してもいる。
まだ業界最大手のパラマウントとの間には開きがあったものの、MGMの追撃体制は整いつつあった。