トーキーの産業的背景と、トーキーでの映画製作

 トーキーの出現は、映画界において一大事だった。映画はそれまで、フィルム(化学工業)と、撮影機・映写機(機械工業)の合成体だったが、トーキーになることでそこに「電子工業」を組み込むことになった。こうして、映画産業は複雑な構成体となり、トーキーのための設備投資は、映画をさらにビッグ・ビジネスへと導いた。1928年末までに、全米1000館以上の映画館にサウンド・システムが設置されたという。

 初期の頃のトーキーでの映画製作は、混乱と試行錯誤の連続だった。初期トーキーはアフレコが難しく、同時録音に頼っていた。だが、カメラの回る音が大きく、その音を入れないように専用のブースに入れて撮影した。サイレント時代のように、監督が撮影中に大声で指示を与える事はできなくなった。また、カメラが動かせない上に、マイクの発達も十分でなかったため、画面作りも不自由だった。スタジオもガラス窓のない防音装置の施されたものに変え、技術スタッフも大幅に増やす必要があり、莫大な費用がかかった。新たに登場した音声技術者は高給取りとなり、彼らはスターのテストを成功させることも失敗させることもあったという。マイクの置き場所ひとつでも試行錯誤の連続で、油断するといろんな雑音が入ったりした。当時の様子は、映画「雨に唄えば」(1952)でも描かれている。

 音が映画に組み込まれたことで、歌と踊りが中心の音楽映画や、銃声が響き渡るギャング映画などの新たなジャンルが生まれた。一方で、製作費の膨張や、声質の悪いスターの凋落、楽士たちの失業などを招いた。

 一方で、音響装置の性能はまだ良くなく、サイレント用の映画館も残っていたため、しばらくはサイレントとトーキー映画両方のヴァージョンを製作するという形が取られた。最初にサイレント版を製作して、その後で必要なトーキーの場面を追加撮影したという。スターは1本分の出演料でサイレントとトーキーで演じたのだった。

 さらに、ロバート・スクラーによると、トーキーにより喜劇が検閲の対象となりやすくなったと言われている。言葉による喜劇の自由な精神が、検閲の対象となったのだ。その結果、喜劇は生き延びたが、社会的な闘争と嘲笑、誇張、放埓に根ざした喜劇は消えてしまったという。