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自称映画通

2012-10-26 ネバーエンディングストーリー


1984年西ドイツアメリカで制作・公開された映画

ネバーエンディング・ストーリー

(Die unendliche Geschichte / The Neverending Story)。

日本では1985年3月16日に公開された。



原作はミヒャエル・エンデの『はてしない物語』だが、原作の趣があるのは1作目だけである。また、その1作目もオリジナルの話とは終わり方が異なっている。



制作費2700万ドル。当初ディズニーに資金のバックアップを求めていたが交渉が決裂し、結果的に提携相手がワーナーとなる。ワーナーは監督の変更を希望するなどテコ入れ要望が多く、映画のヒットと原作改変の両面に大きく影響を残した。 音楽監督のロバート・ハザウェイは、アトレーユ役のノア・ハザウェイの父親。日本でのコピーは「さぁ、オメガファンタジーの旅へ!」「M・エンデの世界的ベストセラーを映像化、ファンタジックSFX超大作!」。



あらすじ

 主人公、バスチアンはいじめられっ子で、母を亡くしてからは父親とだけの寂しい生活を送っていた。そんなある日いじめっ子から逃げるために飛び込んだコレアンダー書店で彼は不思議な本ネバーエンディングストーリーと出会う。本を読むと物語の主人公になれる、本の世界に籠もれる、だから本が好きだと力説する彼に書店の主は「だがそれらの本は読み終われば現実に戻される。この本は危険だ」と止めるが、どうしても読んでみたいバスチアンはこっそりとその本を盗んでしまった。学校をサボって本を読み始めたバスチアンはネバーエンディングストーリーの世界に浸り始める。内容は虚無による崩壊の危機に瀕した世界ファンタージェンを救うため、草原の勇者アトレイユが旅立つといった冒険小説だった。物語に胸躍らせるバスチアンだったが、徐々に奇妙な現象が彼とアトレイユを繋げていく。



2つ存在する映画

 オリジナルは西ドイツで公開されたDie unendliche Geschichteという2時間の長編である。こちらも役者・シナリオ共にワーナー側のテコ入れが入っているが、音楽面ではテコ入れが行われず主題歌が存在しない。



北米・日本での公開版では更なるテコ入れが入り、30分程のシナリオカットとジョルジョ・モロダーによる楽曲の変更が行われた。そしてイギリスのロックバンドカジャ・グーグーの元ボーカルリマールの主題歌が追加、結果としてこのワーナー主導による改変が映画のヒットに大きく貢献する事となる。



原作者との確執

 原作者ミヒャエル・エンデとの裁判騒動の発端は、契約書の見落としが原因だったと言われている。エンデの当初の要望は、監督は黒澤明に任せ、撮影はヨーロッパ、役者は皆ドイツ人で揃える、異世界の姫君である「幼ごころの君」役の女優だけは日本の白装束を着た少女であるべきという内容だったと言われている。重要な役回りの強大な竜「ファルコン」については、可愛らしいドラゴンではなく、中国の伝説の龍のような神秘的な存在にすべきと考えていたらしい。しかし結果的に契約の失敗のせいで、エンデは原作者でありながらスタジオ見学も許されない不遇を受ける事となった。



決裂を決定的とする上で致命的だったのは、映画のラストシーンが、エンデの意図とは正反対であることである。映画の主人公バスチアンは、本の世界「ファンタージェン」の力を借りて、現実世界のいじめっ子に仕返しをする。エンデはこれについて真剣に腹を立て「このシーンをカットして欲しい」と告訴に踏み切る事となった。裁判の結果は、エンデの敗訴となり、「ミヒャエル・エンデ」の名前をオープニングから外す事で、なんとか和解した。



後にミヒャエル・エンデは、「ファンタージェンを破壊するために悪の人狼が脚本を書き、映画にした」「原作の前半だけを映画にしても意味がない」などと多くの批判を残すことになった。ただし第2章公開の際に「あの映画をきっかけに原作を買ってくれたお客さんも多かったし、原作を読んでもらえるなら宣伝映画として苦痛も和らいだ」と多少評価を持ち直した。完全にオリジナルストーリーである続編2・3についてはバスチアンが夢に頼らないため苦言を呈していない。


もっとも、原作でもバスチアンはネバーエンディングストーリーと出会った事で暗黒面に墜ちてしまうので、この映画はバスチアンが増長し始めた部分までの未完物語と解釈すれば原作に忠実と受け取る事もできる。事実プロデューサーもこの映画はプロローグに過ぎないから完結編もちゃんと作ると弁解している。


マイケルジャクソンinネバーランディングストーリー

 マイケル・ジャクソンの豪邸にあるテーマパーク「ネバーランド」のセットを撮影された映画。タイトルロゴがネバーエンディングストーリーに酷似しているが、日本版スタッフのお遊びである。


裁判中のマイケル・ジャクソンが逮捕直前に主演した貴重な作品。彼の邸宅・ネバーランドで撮影された、名作へのオマージュとアクション満載のアドベンチャー。日本へ向かう飛行機が操縦不能になり、聖書の“ノアの箱舟”が眠る謎の小島に不時着する。

2012-09-26 天空の城ラピュタ

スタジオジブリ制作の日本の長編アニメーション作品。

アニメーション映画として1986年8月2日から東映洋画系の103館で公開された。


監督は宮崎駿。宮崎にとって、原作となる作品が存在しない初のアニメオリジナルの監督作品である[2]。製作は徳間書店スタジオジブリ制作映画の1作品目となる。


ラピュタ」という名称はスウィフトの『ガリヴァー旅行記』に出てくるエピソードからとったもの。劇中に空飛ぶ島の物語を空想した人物としてスウィフトの名前も出てくるが、名前の借用以外は『ガリヴァー旅行記』との関連はない。19世紀後半、産業革命期のヨーロッパを元にした架空世界での冒険を描く。

興行的には振るわなかったものの、数々の賞を受賞するなど高い評価を得た。

次第に高年齢向けになっていくアニメに対して、マンガ映画の復活を目標に小学生を対象に古典的な冒険活劇として企画され、それが結果的に大人の鑑賞に耐えうる作品になるというのが宮崎の方針であった。配給した東映の観客満足度調査は97.7%と高く、物語は幅広い年齢層に支持され、ビデオ販売の方は好調であった。

同時上映作品は、テレビアニメ名探偵ホームズ』で宮崎駿が監督した「ミセス・ハドソン人質事件」と「ドーバー海峡の大空中戦!」。

名探偵ホームズ』を放送していたテレビ朝日と競った日本テレビ放映権を獲得し、1988年4月2日に「土曜特別ロードショー」で初放送され12.2%の視聴率を挙げた。22,6%の高視聴率を獲得した1989年7月21日の金曜ロードショーからは同枠で繰り返し放映される人気ソフトとなっている。これ以降、日本テレビスタジオジブリと提携を深め、宮崎が関わった映画作品は日本テレビで放映されるようになる。


あらすじ

 ある夜、飛行中の飛行客船を、空賊ドーラ一家が襲撃する。政府特務機関に捕らわれ客船に乗っていた少女シータは、混乱に紛れて特務機関の指揮官であるムスカ大佐を気絶させると、彼の懐から青い石のペンダントを取り返す。窓を伝って逃げようとするが、空賊に見つかり、驚いた拍子にシータは客船から転落してしまう。雲間を落ちていく中、気を失った彼女の胸にかかっていたペンダントの青い石が突然光を放ち、シータは光に包まれゆっくりと降下していった。



鉱山町で働く少年パズーは、青い光とともに空からゆっくりと降りてきたシータを助け、自宅にかくまう。一夜明けパズーは、シータの行方を追う空賊や政府からシータを守り逃走を図る。パズーの亡父は冒険家だったが、かつて、空に浮かぶ城「ラピュタ」を見たという。そこにはラピュタ人(らぴゅた・びと)が住むといわれている。シータラピュタ人の子孫であることと、シータ が持っているペンダントの石は「飛行石」(ラピュタ人が使っていたといわれる伝説の石)であることを知るに至って、パズーはラピュタの実在を確信する。だが、その直後に政府軍隊が現れ、2人は捕らわれてしまう。



シータを再び捕らえたムスカは、シータに、かつて空から落ちてきたという壊れたロボットを見せ、シータラピュタ王家の末裔である事を伝えると、パズーの命と引き換えにラピュタ到達への協力を迫る。解放されたパズーは自宅で待ち受けていたドーラ一家と共に、シータ奪還に向かう。



飛行石

 透明感のある青色の結晶体で、人や物体を重力に逆らって宙に浮かせることが出来る力を持つ。



飛行石そのものは地中の岩などに広く含有されているが、そのままでは掘り出されて空気に触れた時点で反応を起こし、ただの石になってしまう。かつてラピュタと呼ばれた王国にのみ飛行石を結晶にして、空気中でも反応を起こさない状態にする技術力があったとされる。その力を用いて天空の城「ラピュタ」が建造され、高度な科学力を持ったラピュタの民は全世界を支配したという。



ラピュタ王国が滅びた際に、王族であるシータの先祖が1個の飛行石を持って地上に降りた。これは青色の飛行石の結晶に、金でラピュタ王家の紋章が描かれ、ペンダントとしてしつらえられていた。この飛行石にはさまざまな力があり、シータ飛行船から落ちた際にはその命を救い、時に光線を発してラピュタの方角を指し示し、最後には天空の城の滅びの封印を解き放った。



また、作中において天空の城の中枢に据えられている、正八面体状の巨大飛行石を指して「ラピュタの力の根源だ」というセリフがあったことから、何らかのエネルギー源としての性質も持つと考えられる。さらに、700年以上、城を浮かばせ続け、人目から隠すために城の周囲の気候を制御し続けていたことから、少なくとも700年以上(おそらく半永久的に)使用できる。最後に大木の根に支えられて空に上っていく描写があったものの、周りの建物は腐食や崩落、風化が進んでいたので自然崩壊により最終的には飛行石のみが空中を漂い続けるのかも知れない。



ラピュタの中には飛行石の紋章と似た模様が描かれた壁があり、そこに飛行石を近づけるとラピュタの下部の部屋に繋がる道が開かれる。同じく下部の最深部にも壁に大きく描かれた紋章があり、同様に石を近づければ巨大飛行石の眠る部屋へと通じる。



おまじない

 飛行石はラピュタ王家の血をひく者が口にする言葉に反応し、様々な事象を引き起こす。それらは口伝で密かに伝承されてきた。



リーテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス・バル・ネトリール



眠りについていたラピュタを目覚めさせる呪文。「我を助けよ、光よ蘇れ」を意味する。飛行石自体も活性化し、離れ離れになったラピュタ城を指し示す青い光を発して、地上に降りた王家の者を再び城へと導く。

この呪文一つでラピュタの機能全般が活性化するようで、ロボット兵も反応して活動を再開する。シータはこの呪文を「困ったときのおまじない」として祖母から教わっていた。



バルス

 滅びの言葉。ラピュタ語で「閉じよ」を意味する。ラピュタ城中枢に浮かぶ巨大飛行石に命令を伝え、中枢部の回路を自壊させ、城全体を崩壊に導く。


2012-07-26 バック・トゥ・ザ・フューチャー

バック・トゥ・ザ・フューチャー』(Back to the Future)は、
1985年のアメリカ映画。SF映画。略して『BTTF』『BTF』とも呼ばれる。

公開当時全米で『フューチャー現象』と呼ばれるブームが生まれるほど大ヒットした。

同年のアカデミー賞では音響効果賞を受賞。続編に『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(1989年)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(1990年)がある。




元々は第1作のみで完結するものとして製作されたが、1987年にビデオソフト化された際に、ラストシーンに「TO BE CONTINUED...(つづく)」という劇場公開時にはなかったテロップが入れられた。このテロップの本意は、「マーティ達登場人物の人生の旅(冒険)はこれからも続く」と言う意味も含まれたジョークだったのだが、これを見た人達による続編製作希望の問い合わせが殺到したため、急遽シリーズ化された。主演のマイケル・J・フォックスも、テレビ放送された際にこのテロップを見て驚いた一人である。 続編の製作が決まった際、当初は続編1作のみを製作する予定だった。しかし、監督のロバート・ゼメキスが共同脚本のボブ・ゲイルと構想を練るうちにいろいろといいアイデアが出てきたため、それを約2時間の枠に収めると内容が半減してしまうことから、さらに続編を1本増やして3部作にすることに変更、PART2・PART3の2作は同時進行で撮影された。 1989年11月22日(米国、日本版は12月9日)に劇場公開されたPART2を観た観客は、映画のエンディングにて、わずか半年後にPART3(米国1990年5月25日、日本版は7月6日)が公開されるという予告を観て度肝を抜かれることとなった。



あらすじ

 1985年カリフォルニア州ヒルバレーに住む、ロックとペプシが大好きな高校生マーティ・マクフライは、科学者である親友のエメット・ブラウン博士(通称ドク)を手伝って、深夜のショッピングモールの駐車場にて、デロリアンを改造してドクが開発したタイムマシンの実験をする。 実験は成功したが、ドクがタイムマシンの燃料であるプルトニウムを調達するために騙したリビア過激派に発見されてしまい、ドクは機関銃で撃たれてしまう。同じく命を狙われたマーティはとっさにタイムマシンに乗って逃走するが、誤作動が起こってしまい30年前の1955年タイムスリップする。



1985年に戻ろうとするマーティだったが、タイムマシンは燃料のプルトニウムを使い果たしてしまったため、戻ることができなくなっていた。そこでマーティは1955年のドクと会って、落雷の力でタイムマシンを稼動させる算段を立てる。



だが、もう一つ問題があった。この年はマーティの父・ジョージと母・ロレインが結婚のきっかけを得た年であったが、ふとした事から若きロレインはマーティに恋してしまった。このままでは父と母が結婚せず、マーティが生まれる事実も消滅してしまうため、両親を引き合わせる工作も同時進行で行わなければならなくなってしまった。果たして、彼は父と母を引き合わせ、無事に1985年へ帰還できるのか?



デロリアン車型タイムマシンの通称。

 エメット・ブラウン博士(クリストファー・ロイド)が、自らの愛車 DMC-12 を改造して製作したタイムマシンである。ブラウン博士の発言によれば、DMC-12 が改造のベースに選ばれたのは「ステンレスボディーがタイムマシンにとって都合がいい」ことと「見た目がかっこいい」ことが理由だったようである。



デロリアンは、1985年10月26日に最初のタイムトラベルに成功し、最後のタイムトラベル1985年10月27日に到着した後、列車と衝突し大破した。従って、スタート時点の時間軸から見れば、完成から2日程しか存在しなかったことになる。一方、デロリアンから見た時間軸では、70年以上存在していたことになる(1885年から1955年まで鉱山跡に隠されていた期間が大半を占める)。



因みにデロリアン1955年11月12日に4つ存在していたことになる。1つ目はマーティと1955年のブラウン博士が落雷を利用して帰還しようとさせているデロリアン、2つ目は2015年の老ビフが若き自分に年鑑を渡す時に利用したデロリアン、3つ目は年鑑を取り戻すためにマーティとブラウン博士が利用したデロリアン、4つ目は1885年から70年間鉱山跡に隠されたデロリアンがある。



タイムマシンとしての動作原理は不明だが、後述するフラックス・キャパシターの働きによって時間を飛び越えるものとされている。なお、タイムトラベルの際には時間的な移動しか出来ないようで、空間的には常に出発点と同じ(過去または未来の)地点に移動している。(そのため、2015年タイムトラベルした時にスカイ・ウェイの反対車線を走ってしまったりと、多少の危険を伴う。これは三部作すべてに見られる危険でもある。)



タイムトラベルの際は時速88マイル(時速約140km/h)まで加速する必要があるため、長めの直線道路が必要になるが、2015年の技術で飛行機能を取り付けられたことでこの問題は解決している。タイムトラベルの瞬間、デロリアンは閃光を放ち、炎のタイヤ跡を残す(空中でも残る)。目標時間への突入時には多少の衝撃を伴う。また、タイムトラベル先の時間に出現する際には、3度の閃光とソニックブーム音を伴う。当初のデロリアンは、タイムトラベル直後に素手で触れられないほどの超低温となったが、後に改良された。



なお、ブラウン博士はデロリアンの他にも機関車型のタイムマシンを製作している。


2011-06-26 その他の国の映画

邦画、洋画、フランス映画がやはりメジャーどころだと思うが、

以下の国でも映画は作られている。




北米

アメリカ合衆国の映画 (ハリウッド映画)

カナダの映画





中南米

ブラジルの映画

アルゼンチンの映画

・チリの映画

メキシコの映画

エクアドルの映画

キューバの映画





西欧

イギリスの映画

イタリアの映画

スペインの映画

フランスの映画

ドイツの映画

アイルランドの映画

ポルトガルの映画

オーストリアの映画

オランダの映画

ベルギーの映画

スイスの映画

ギリシャの映画





中欧・東欧

ソビエトの映画

ロシアの映画

ウクライナの映画

ブルガリアの映画

ポーランドの映画

チェコの映画

スロバキアの映画

ハンガリーの映画

セルビアの映画





北欧

デンマークの映画

アイスランドの映画

スウェーデンの映画

ノルウェーの映画

フィンランドの映画





アジア

インドの映画(マサラ・ムービー

韓国映画

台湾映画

中国映画

・日本映画(邦画)

香港映画

北朝鮮の映画

バングラデシュの映画

ラオスの映画

・タイの映画

ベトナムの映画

フィリピンの映画

インドネシアの映画

シンガポールの映画





中東

イランの映画

イスラエルの映画

エジプトの映画

パキスタンの映画

パレスチナの映画

サウジアラビアの映画

シリアの映画

モロッコの映画

トルコの映画





オセアニア

オーストラリアの映画

ニュージーランドの映画





アフリカ・その他

南アフリカ共和国の映画

リビアの映画

ケニアの映画

ウズベキスタンの映画

カザフスタンの映画



以下の国でも映画は作られている。



北米

アメリカ合衆国の映画 (ハリウッド映画)

カナダの映画





中南米

ブラジルの映画

アルゼンチンの映画

・チリの映画

メキシコの映画

エクアドルの映画

キューバの映画





西欧

イギリスの映画

イタリアの映画

スペインの映画

フランスの映画

ドイツの映画

アイルランドの映画

ポルトガルの映画

オーストリアの映画

オランダの映画

ベルギーの映画

スイスの映画

ギリシャの映画





中欧・東欧

ソビエトの映画

ロシアの映画

ウクライナの映画

ブルガリアの映画

ポーランドの映画

チェコの映画

スロバキアの映画

ハンガリーの映画

セルビアの映画





北欧

デンマークの映画

アイスランドの映画

スウェーデンの映画

ノルウェーの映画

フィンランドの映画





アジア

インドの映画(マサラ・ムービー

韓国映画

台湾映画

中国映画

・日本映画(邦画)

香港映画

北朝鮮の映画

バングラデシュの映画

ラオスの映画

・タイの映画

ベトナムの映画

フィリピンの映画

インドネシアの映画

シンガポールの映画





中東

イランの映画

イスラエルの映画

エジプトの映画

パキスタンの映画

パレスチナの映画

サウジアラビアの映画

シリアの映画

モロッコの映画

トルコの映画





オセアニア

オーストラリアの映画

ニュージーランドの映画





アフリカ・その他

南アフリカ共和国の映画

リビアの映画

ケニアの映画

ウズベキスタンの映画

カザフスタンの映画













2011-05-26 フランス映画

映画というメディアの創成期において、フランス映画の技術は世界一を誇っていた。映画が発明されたのがフランスであったためである。





歴史

19世紀後半から20世紀初頭


 映画というメディアの創成期において、フランス映画の技術は世界一を誇っていた。映画が発明されたのがフランスであったためである。1895年12月28日、リュミエール兄弟がシネマトグラフを公開した。1895年にパリで公開されたリュミエール兄弟のL'Arrivee d'un train en gare de la Ciotat 映画作品の誕生と言われている。



続く数年間、世界中で映画という新しい手法を使って実験的作品を制作する人々が現れた。1902年にはジョルジュ・メリエスによる世界初の物語のある映画『月世界旅行』が公開。彼はまた、多くの映画技術を編み出した。1908年、映画を芸術に高めようという動きが起こり、ル・フィルム・ダール社が設立される。ル・フィルム・ダール社による映画『ギース公の暗殺』が公開され、ヒット。



第一次世界大戦第二次世界大戦の間、 ジャック・フェデーはフランス映画界において詩的リアリズム(poetic realism)の先駆者となる。彼はまたアベル・ガンス、ジェルメーヌ・デュラック、ジャン・エプスタインと共にFrench Impressionist Cinemaの主要人物ともなった。



1935年のはじめ、脚本家で俳優でもあったサッシャ・ギトリが初監督作品を完成させた。彼は30以上の作品を制作し、この時代の先駆者となった。



1937年、画家のピエール=オーギュスト・ルノワールの息子ジャン・ルノワールが傑作『大いなる幻影』、1939 年には『ゲームの規則』を完成させた。映画批評家の中には、これらの作品を映画史上で最も優れた作品だとする者もいる。



1930年代の目だった作品としては、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930)、ジャック・フェデーの『女だけの都』(1935)、ジュリアン・デュヴィヴィエの『我等の仲間』(1936)などがある。



第二次世界大戦後:1940年代から1970年代まで

 マルセル・カルネの監督した『天井桟敷の人々』は第二次世界大戦下の戦時中に撮影され、1946年に公開された。この3時間に渡る映画は、当時フランスがナチの支配下にあったため、製作が非常に難航した。1828年のパリを舞台にしたこの作品は、1990年代、600名の映画批評家や映画製作者によって「これまでに作られた最も優れたフランス映画」に選ばれた。



また、1946年にはフランス政府カンヌ国際映画祭を開催しはじめた。



1951年アンドレ・バザンによって映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」が発行され、多くの若い批評家や愛好家たちグループらの議論の場となっていた。更に、批評の執筆者であった ジャック・リヴェットエリック・ロメールジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォークロード・シャブロルなどは、映画の助監督の経験もないまま自分達で個人的に映画製作を始め話題になった。その動きは後にジャーナリズムによりヌーヴェル・ヴァーグと名付けられた。フランスプロデューサーたちは、彼らの映画が制作費の安い割に話題になる事が気に入った。



当時の野心的な映画の潮流は大きく分けて、アラン・レネのような実験的映画作家出身のグループと、雑誌カイエ・デュ・シネマの若手批評家らの自主制作グループがあった。同じころ、映画業界から助監督出身の若手監督ロジェ・ヴァディム、ルイ・マルなどの商業映画のグループが斬新な感覚の作品で興行的に成功する。彼らはそれぞれ作風や立場も明らかに異なっていたが、ジャーナリズムは彼ら全てをひとまとめにし「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼んだ。



ヌーヴェル・ヴァーグの初期の作品としてジャン=ポール・ベルモンドジーン・セバーグら主演のゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)、シャブロルの『いとこ同士』(1959)がある。



1960年代の注目すべき作品にはジャック・ベッケルの『穴』(1960)、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』(1960)、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したアラン・レネの『去年マリエンバートで』(1961)、ジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』(1963)、ロベール・アンリコの『冒険者たち』 (1967)などがある。



若い映画作家の台頭は、フランスだけに留まる現象ではなかった。ほとんど同時期に世界中にその影響を波及させ、若い世代の映画作家たちの活動が各国で次々に起こった。結果、1960年代は世界的に映画の変革期となった。



1980年代

 ジャン=ジャック・ベネックスが『ディーバ』(1981)を完成させたとき、80年代のフランス映画ブームが始まったと言える。ベネックスの『ベティ・ブルー』(1986)、リュック・ベッソンの『グラン・ブルー』(1988) 、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(1991)などがそれに続いた。



1990年代

 1991年、ジャン・ピエール・ジュネが『デリカテッセン』を監督、続いて1995年に『ロスト・チルドレン』を製作。双方ともファンタジー色の強い作品であった。



1990年代半ば、ポーランド出身のクシシュトフ・キェシロフスキが「トリコロール3部作」と名付けられた『トリコロール/青の愛』、『トリコロール/白の愛』、『トリコロール/赤の愛』を完成させた。



また、1995年には若手監督マチュー・カソヴィッツフランスにおける人種問題を扱った作品『憎しみ』でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。



2000年以降

 ハリウッドでしばらく活動したジュネは2001年にフランスに戻り、マチュー・カソヴィッツオドレイ・トトゥ主演のファンタジー映画『アメリ』を完成させ、この作品は日本でも大ヒットした。



2000年以降のヒット作にはマチュー・カソヴィッツの『クリムゾン・リバー』(2000)、ジェラール・クラヴジックのアクション・コメディ『TAXi2』(2000)、 コリーヌ・セローの『女はみんな生きている』(2001)、セドリック・クラピッシュの『スパニッシュ・アパートメント』(2002)などがある。

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