Hatena::ブログ(Diary)

裁判員制度めざす会ブログ

2012-01-03

裁判員経験者からの手紙 その5 田口真義さん

 2008年11月、最初の候補者登録通知が届かなかった時、私は残念な思いを仕事場で吐露していたことを覚えています。市民が司法制度に直接参加することは、まるで投票権がもう一つ増えたように画期的な慶事であると、不謹慎ですがそう考えていました。
翌2009年には、待望の候補者登録通知が届きました。しかし、そこには候補者として登録されただけで、呼出状が送られてきてはじめて選任手続きに臨めること知りました。制度の詳細な流れまでは知らなかった私は落胆しました。
通知は戸棚にしまい込みすっかり忘れてかけていた2010年7月中旬、9月の公判に関する呼出状が届き驚きました。「きたぁ!」と声を上げて喜んだのも束の間、拘束が9日間に及ぶことを知りました。通常の裁判員裁判は3〜4日で終わると広報されていたので、「これは、相当大変な内容の裁判なのでは…」という不安と同時に普通の会社員の場合、9日間も休むのは難しい、その分、自営業の自分は選ばれるチャンスが高いと、根拠のない期待をしていました。
そんな期待と不安を胸に呼出し期日に裁判所へ向かいました。朝9時過ぎの呼出しに応じた候補者は27人。広報官、書記官から事件の概要を知らされた後、質問票や交通費請求の書類に記入捺印し個別質問を受けたのは2〜3人、最終的にくじで選ばれました。後から聞いた話では、「くじ」といってもパソコンでボタンをポンッと押すと、選任する候補者の番号が画面にパッと出る仕組みだそうです。
個別質問の間、候補者控室では緑茶、麦茶、ほうじ茶などが飲み放題で雑誌まで置いてありました。私は候補者の中で、一番多く飲んだと自負します(笑)。雑誌もめくり公機関から提供されるサービスを満喫しようと心がけました。意地汚いですね(苦笑)。
正味20分ほど堪能した頃、選任された方の発表ということで、座席に呼び戻されホワイトボードが室内に運び込まれました。「あった!」自分を含めた9つ(裁判員6人+補充裁判員3人)の番号が大きく貼り出され、「この番号の方は、荷物を持ってこちらへ」と、別室に促され、裁判長からの説明後、宣誓を行い、導かれるままに評議室へ移動しました。
受験の合格発表と違い、ドキドキする間もなく、あっけなくあっさりと選ばれてしまいました。

私が担当したのは、保護責任者遺棄致死、麻薬取締法違反(合成麻薬の譲渡・譲り受け・所持)の四つの罪に問われた被告事件。この裁判を担当したことで、当初から一挙手一投足を注目されているような、見えない重圧にさいなまれました。理由は、被告人が元芸能人であったという異例の事件だったからです。
テレビもパソコンも所持していない私には、芸能界のことなどまったく興味のない世界。もっと通常の目立つことのない事件を担当したかったというのは、贅沢な希望でしょうか。
公判の時には、一般傍聴席61席を目当てに1,554人もの傍聴希望者が傍聴券を求めて行列を作ったそうです。事件の内容や裁判の争点等は、おそらく知らない方はいないと思いますので、省略します。
選任手続き後、つまり初公判の日の昼食は裁判長も含めて合議体全員で会食するそうで、賛意を確認した後、1人500円ずつお弁当代を徴収されました。
この初日の昼食会はどこの裁判体もほぼ同様のようで、自費であることに賛否いろいろありますが、緊張して硬くなっている裁判員をほぐす意味では賛同します。半ば強制のような空気であっても、このような場があってよかったと思っています。ちなみに菜食主義のうえ、米も食さない私は漬物ぐらいしか手をつけませんでした(涙)。

私は当初、裁判官とは“サイバンカン”というような片仮名のお堅いロボットのような存在だとイメージしていました。しかし、裁判員経験を通じて裁判官も私たちと同じ人間であり、愚痴も言うしジョークも言う、ごく普通の人間なのだと感動しました。悪意のない知的でシュールなブラックユーモアは、私をとても楽しませてくれました。
世の中がワイドショーや週刊誌報道に沸いている中、裁判長は「日本中の誰より真実を知っているのは私たちです!」と、世論にたじろぐ私たちの背中を支えてくれました。
公判には証人19人が呼ばれ、私は裁判員の先頭を切って、補充尋問に乗り出しました。その直後の休廷中、他のメンバーに「自分が『言い出しっぺ』を務めました」「せっかくの機会だし、税金もきちんと払っているのだから参加しないとモッタイナイですよ」「何でも疑問に感じたことは質問してみたらよいのではないでしょうか」と、挙手を促しました。
内心には、わからないことをわからないままにして、判断することだけはしないで欲しいという想いがありました。その結果、何人かが尋問の流れに乗ってくれました。
私は人が人を裁くという、不条理な行為を裁判という合理的な形で執り行う司法制度に、市民が参加するということを、真摯に受け止めて考えたときに、決して生半可な気持ちで臨んではいけないと自分に言い聞かせて、毎日、裁判所に向かっていました。
審理中の一字一句も一瞬たりとも、聞き逃すまい、見逃すまいと冒頭陳述のときからアドレナリン全開(笑)でメモをとりました。証人が話した言葉から仕草、印象など気になったことを詳細にメモしました。質問したいことなどを箇条書きにして質問文章を考え、とにかく必死でした。
他の裁判体の方から証人は2〜3人、多くても5人くらいと聞かされたときは驚きました。同時に羨ましいなと、不謹慎にも思ったりしました。
19人の証人の話に加え、最も重要な被告人の話をすべて頭の中に留めておくことは、尋常ではありませんでした。今、思い起こしても頭が痛くなります。
裁判長から、証拠や証言は後からゆっくり検証できると言っていただきましたが、私自身が流れを理解せずに次から次へと証人を迎えることが納得できなかったため、最後まで全開の姿勢を貫き通しました。
公判の途中で中間評議というものがあってもよいのでは、とも思いましたが、裁判所はとにかく予定通りにこの異例の裁判を成立させて、ある種の前例を作り出そうという空気を個人的には感じました。
注目を集める裁判で9日間という長期間のこの裁判を、当時は「異例づくし」と裁判所職員さんがこぼしていました。この裁判以降「死刑求刑」や40日間の公判期間などの大型注目裁判が全国に展開していきました。
参加した裁判員から、苦情が出ないように進行させることに傾注していた裁判所も、そういう意味では必死だったのではないでしょうか。
裁判から学んだものの一つに「まず、相手の話を最後まで十分に聴く」という姿勢を徹底することです。私は19人分の話に被告人の陳述、検察官、弁護人の意見主張すべてをまずは最後まで聴いて、それから検討し、結論を導き出すという作業をしました。
とても苦労しましたが、その公平で公正な姿勢は、今も活きています。
評議は裁判長の進行のもと、まずは裁判員で自由闊達な意見を交わし、時折、裁判長や陪席裁判官から軌道修正や補足説明を挟んでもらい、裁判員全員の意見としてある程度までまとめ上げ、裁判官側の意見を伺うという具合に基本的には裁判員主体の議論でした。
その議論も本当に白熱し、ある意味相手のことを詳しく知らないがゆえに、後腐れなく遠慮のない討論ができたのではないでしょうか。その甲斐あってか、それぞれが思うこの事件に関する意見を思う存分ぶつけ合い、納得のいく評議でした。
相手が納得するまで主張を説明する、自分が納得するまで相手の主張の説明を求めるという徹底的な討議の達成感であり、それは結論云々よりも得がたい貴重なものだと思います。「熟議」とはこのことを言うのかなと、今も感慨深く思っています。
その一方、昼食などの休憩時は、事件とはまったく縁のない話題がほとんどでした。ペット自慢や旅行の思い出など、ごく日常の雑談でした。傍から見ると、この落差は異様だったかもしれません(笑)。
結論はおそらく知らない方はいないと思いますので、割愛します。
公判において検察側が掌握する証人の証言がどんな内容かを、弁護側は証人が証言台に立つまではわからないと裁判長から聞かされました。
実際、19人の証人中、弁護側の証人はたった1人で、それ以外はすべて検察側の証人だったわけですから、そんな不利な状況にもかかわらず、最終的に検察側の立証を一部崩した功労を、私は高く評価しています。
即日控訴ということも、被告人の権利行使ですから、判決に不服があれば当然のことと受け止めます。私にも被告人にも公正な裁判を受ける権利が、公平に与えられています。
ここ最近では、検察や警察の不適切な取調べや聴取が問題視されています。取調べの全面可視化などの訴えなどもありますが、単純に“お上”が正義の名のもとに間違いを犯すのではなく、正しいことを正しく遂行できればよいのではないでしょうか。
私たち市民が自ら公権力の監視を行うことの意味と重要性を思慮します。

評議が終わり、あとは判決公判を迎えるだけとなったときに、裁判長から「これは国家の決定ですから、どうぞ胸を張って下さい」と言われました。私は「裁判員として公権力を行使したのだ…決定には最後まで責任を持たなければ」と強く決意しました。裁判員裁判官と同じ評決権を持っているのだから、責任の重さも同じでなければ筋が通りません。
一部に「冤罪」だったときの責任はどうとるのか?といった批判もあります。だからこそ、そうならないように徹底的に考え、慎重に議論を重ねて、間違いのない判断をしなければいけないと思います。
「人を裁く」ということは、一人の人間の人生を左右する行為であり、慎重に行わなければならないし、重大な責任が必然的に発生します。
裁判員制度は、公権力に対して、正しいことを正しい、間違っていることを間違っている、という当たり前の判断がしっかりできるように、国家の主権者である私たち市民の目で監視をするという役割を担っていると考えています。
今後、裁判員を務める方には、冤罪や不当な権力行使を抑制するために司法参加をする意識と、同時に責任の伴う行為であることを十二分に認識し、全人格を賭す覚悟で臨んで欲しいと切に願います。
私は、裁判員制度が“義務”ではなく、「投票権」のような“権利”だと捉えています。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/citizenjudge/20120103/1325566788