2011-02-23
GLOBAL ENDS展/建築とコンテクストの必要十分条件
ギャラ間で2Gのセールをやっていると聞き、渋谷から歩いて乃木坂へ。青山霊園の梅も奇麗に咲いていて、春が顔をのぞかせていた.チッパーフィールドのエルクロが売り切れてしまっていたのはショックだったが、Young Spanish architectsを1200円で購入.ついでに2回目のGLOBAL ENDS展を鑑賞.
<場所が建築をつくる。そして、コンテクストを引き剥がす。>
初めて訪れた時は、建築家の作家像を読み取ることで必死で、あまりの芸術性の高さに感服するだけで精一杯だったが、2回目に訪れてみると、世界中の建築が小さなギャラリーに集まっている当たり前の事実がとても新鮮に思えた.というのは、作品を見る限りでは、建築が建つ「場所のポテンシャル」を最大限に引立てていると感じる一方で、一歩引いて見ると「雑誌で見る奇麗な現代建築」と感じられ、さらに「東京のギャラリー」という場を通して並列されると、何が「リアル」であるのか分からなくなる.つまり、ここで展示されていた建築作品は、コンンテクストから理解できるし、コンテクストから切り離しても十分な存在感を持っていることが新鮮に思えた。
<リアルは僕が選ぶ。コンテクストを移し替える。>
GLOBAL ENDSが画期的なことは、展覧会のタイトル自体にイデオロギーがあるというよりも、鑑賞者によって展覧会の意味を「発見」するように仕組まれていることだと思う.例えば、RCRはOlotの自然(=コンテクスト)から、あの素晴らしい建築を発見したわけだけど、我々はRCR的手法によって、東京や日本(=コンテクスト)を発見できる可能性があるかもしれない.つまり、GLOBAL ENDSが示したことは、モダニズム的手法によっても、まだまだモダニズムを超えられる可能性があるのではないかということ。勇気づけられますね。
<建築が建築をつくる。>
GLOBAL ENDS展は、抽象化一辺倒の日本の建築状況に対する批評的メッセージなのではないかと「僕」は感じた.RCRの素材感や、パウロダビットの彫塑的造形や、トムクンディングの可動式建具を日本的あるいは東京的に解釈できる可能性があるかもしれない.そう、僕たちは見たものの中でしか建築をつくることはできない.建築が建築をつくるのである.ちなみに、これは設計製図第1の授業で塚本先生が最初に述べた名言である.
<建築とコンテクストの必要十分条件>
コンテクストから建築を説明できること。建築からコンテクストを説明できること。そういった説明の可逆性に、建築の存在感が宿るんだなと感じた。そして大事なことは「説明=文字+イメージ」であること。文字がイメージを補完し、イメージが文字を補完する。
2009-10-09
データ、プロセス、コンセプト
久々のブログ更新です.建築学会で開催されたトークイベント「データ・プロセス・ローカリティ」に参加してきた.プレゼンテーターが、若手アトリエ建築家、中堅有名建築家+教育者、組織事務所建築家と幅広く、建築デザイン界の幅広い試みを間近に体験できて刺激的であった.2夜の講演を通して、クローバーというデータを見つけ、スケッチが繰り返されるというプロセスを通して設計されているかのように見える中山氏のデザインと、環境条件というデータと緩衝領域というコンセプトが組み合わさり、綿密なプロセスを経て設計されているように見える五十嵐氏のデザインと、BIMという設計ツールを駆使した建築デザインの可能性を追求する山梨氏のデザインがフラットに思えたことは興味深い.
※データ・プロセス/作家と社会を結ぶもの
1夜目ではプロセスの中でジャンプをどう位置づけるか.2夜目ではデザインのアイデンティティをどのように合意形成のシステムに乗せるか、という点に議論の焦点が絞られた気がする.2夜の議論を大雑把にまとめるとするならば、「ジャンプ」とはデータを発見・編集することであり、「プロセス」はアイディアをジャンプさせるための手法であり、合意形成のシステムであるということだろう.今回のシンポジウムが、藤村氏の建築学生に対する問いであるとすれば、空間!空間!と念仏して新しい建築=「幻想」を模索するのもいいけど、それは「現実」社会で作ることができるのだろうか.自分の理想を社会に位置づけるための「手法」を考えることが、今、最も建設的ではないかということだろう.この問いを卒業論文と卒業設計をひかえた自分に返すとするならば、理想とする建築デザイン=「公共性、アイデンティティ、空間性などなど」と、社会に位置づけるためのストーリー=「社会性」を結ぶ「コンセプト」を設計することにあるように思える.
※コンセプト/学生と社会を結ぶもの
先日、産学協同オフィスデザインコンペの授賞式で清水建設設計本部長の日置滋氏と話す機会を得た.日置氏は、設計のコンセプトを先鋭化させるために構造と設備がある.これから構造、設備など建築のもっと現実的な側面をもっと勉強すればもっと面白い建築ができると励まされた.虚構=コンセプト、現実=構造算定+計画+設備とすると『現実の中に如何に虚構を築くことができるか』と述べた篠原一男先生のアフォリズムをふと鮮明に思い出す.と同時に、現実社会のダイナミズムをもっと知らねばならぬと強く感じる.
2009-07-09
ブルーノタウト、もてなしのディテール、対比構造
熱海駅から歩いて5分くらい、幹線道路から反れた急な坂道を上って、石畳の階段を太平洋を望むように下っていくと「旧日向別邸」がある.見た目は純粋な日本家屋.母屋は渡辺仁が設計をして、ブルーノタウトは地下室を改装したという事実をここで初めて知る.母屋のリビングは、太平洋を望む白壁で囲われた庭に面していて(壁が微妙に向きを変えるのがいい)開放的で爽やかだ.30分ほどビデオ鑑賞して、いよいよ地下室へ入ることになる.
階段を下りながら曲がると、階段幅が急に広がり、地下室へ一気に視線が抜ける.曲面に仕上げられた白壁、竹で編み込まれた唐破風窓が美しい.見た目は木造建築だが、地下室というだけあってずっしりとした空気感がある.唐破風窓を迂回するように、さらに階段を4段ほど下り地下室に出る.そこからは、奥の和室まで一気に抜けて、夏祭りの屋台のように連続してつながる電球が、奥に行くように自分を誘惑する.それぞれの室を仕切る鴨居が重ならないから、奥行き感も強調されている.一方、階段周りのディテールも凝りに凝られて心惹かれる.細い竹棒で仕上げられた壁、床板の敷き方、天井の模様.竹の種類によって色彩に変化を与えているという.先へ進みたく感覚と、立ち止まりたくなる感覚が同居するから、なんだかムズムズする.ここは「ピンポン室」といって、ピンポン台が置かれていたらしい.
鴨居をくぐって隣の洋室へ.ここが旧日向別邸で一番の見せ場なのかもしれない.紅色の木綿で仕上げられた壁と、海を見下ろすような階段が印象的だ.先の部屋に比べて全体的に色彩が暗く仕上げられているので海への明るい方向性が強調される.優雅さとともに緊張感がある.外部と一体になるようなアコーディオンの窓サッシもなるほどと思う.ここで驚いたのは、階段の「踏み面」と「蹴上げ」の寸法が一段ずつ違うこと、偶数段の踏み面の角が丸く仕上げられていることが.こうすることで、階段に人が腰掛けることを見込んで、座りやすいようにもてなしていたというわけだ.
さらに隣の和室へ.正直いうと和室は間が抜けた感じがした.床の間に畳が直交するように敷かれていたり、床の間はスゴくドライにデザインされてる.タウトは和風建築の「しきたり」を知らないので当然と言えば当然なのかもしれない.が、色彩はよく考えられている.下段の間と上段の間は、一見同じような鶯色に見えたが、よくよく見てみると、海側の下段の間の方が明るく仕上げられている.こうすると、下段の間=高い+明るい、上段の間=低い+暗い、というような「対比構造」がはっきりする.
ここまできて振り返ると、ディテールが凝られた所とそうでない所の「対比」にも気付く.かつて、伊東豊雄は「公共建築における最大の公共性は、エントランスの把手がどれだけ美しく仕上げられるかにある」と述べていた.
さらに、タウトは地下室を改装する際、構造として効いていない壁を一瞬で見抜いて、それを全部ぶち抜いて風除室(地下の湿気を除くための部屋)にしたという.エンジニアとしての構造感覚とデザイナーとしての身体感覚に思わず脱帽してしまう.
2009-07-02
私のための方法論と、社会のためのバランス感覚
青山ブックセンターで開かれたトークイベント『設計/デザインを考える』に足を運んだ.濱野智志と藤村龍至の対談だ.
『アーキテクチャ』というコンセプトが、2000年の『スーパーフラット』に継ぐ批評性のあるコンセプトであるなと強く感じた.アトリエ/組織、固有性/効率性、美学/工学、と二層構造化する社会に対して『方法論』のみがそれらを架橋すべきものになりうるし、それは情報ネットワークの世界では既に起こりえていることには、深く感銘を受けた.
※建築をつくらない人が藤村の方法論を理解できる?
これは濱野さんの面白い指摘だ.自分が知っている限り、藤村批判は「社会に対する問題意識も明確であるし、提示される批判的工学主義というコンセプト、超線形設計プロセスという方法論も明晰である.しかし、作品としてどうなのか.頭では理解出来るのだけど、身体が理解できない」だろう(問題意識は分かるんだけど、批判的工学主義が理解できないという人も多い気もする).料理に例えれば、ラーメンの早い作り方は理解できるけど、そのラーメンは本当に美味いのかということだろう.つまり濱野氏の指摘は、理論の面では建築の味を知らない人ほど理解できると言い換えられよう.
建築界は作家主義ワールドである.新建築なんて特にそうだ!作家として認められなければ建築家として生きていくことは難しい.東工大では、そのリスクを冒すくらいならゼネコンや組織事務所に行くか、設計をやらずに不動産や役所に行った方が人生は安定するという流れだ.学校も作家主義な世界だ.コルビジュエ、ミース、ライト、カーンといった巨匠がいかにスゴい人かを教わる.東工大でも篠原一男先生、坂本一成先生、塚本由晴先生の影響力は恐ろしいほど強い.一方で、建築学科に3年以上もいると、デザインの素養が磨かれてくるのか、建築作家たちのスゴさが身にしみて分かってくる.
※美味い建築をつくるのは個人のセンス?
最近、藤村氏は設計教育現場において、超線形プロセス方法論を実行している.そこで私が興味深い点が2つある。まず一つは、落ちこぼれが出さずに、誰もが初めての設計課題でも完成度の高い住宅を設計することが出来て、自信を持つことが出来る.もう一つは、人をコンピューターのように扱えば(考えるな、ふりかえるな、枝分かれさせる)、個人の設計センス=デザインセンス(スケール、プローポション、マテリアル)が浮き彫りになるということだ.
藤村氏が問題にしているのは、醜いデザインの建物が都市を覆い尽くしているということだと私は理解している(それは超高層、SC、大規模開発を否定する立場ではない).が、それを乗り越えるための方法論が、デザインセンスの有無を浮き彫りにしていく現象は、アイロニーにも思える.一方で、デザイナーの社会的意義を強調するようにも思える.
※センスはマニュアル化できるのか?
藤村氏は講演会で、「設計を濃密にすれば、空間が濃密になり、社会が濃密になる」といっている.確かに方法論としてのアーキテクチャーは、社会に介入していける理論の明晰さを持ち得ると思う.しかし、濃密な都市風景を獲得するためには、方法論とともに『センス』や『デザインのバランス感覚』がより重要な気がしてならない.それは、現代の作家システムを擁護するものでは全くない.が、それはマニュアル化できるものではなく「私のもの」であるように思う.というのは、デザインに一般解はないが、特殊解は無数にあるからだ.そう考えると、LAJ8号のテーマが『マイ・アイデンティティ』に落とし込まれたのは非常に納得がいく.
やはり、今重要に思えるのは、情報化社会だからこそ、方法論を持ってコミュニケーションすることなのだろう.そして「方法論」と「デザインセンス」は切り離して考えるべきなのでないかということだ.
2009-06-01
"空間的装飾"について/空間のムラについて
研究室生活が始まり2ヶ月が過ぎ『アルヴァロシザ作品研究』というテーマで卒業論文を書こうと、シザ作品の図面と建築写真をじっくり眺める生活が続いています。
そこで最近気づいた事があります。1958年の処女作"Four House"から、最新作の美術館までシザ作品を辿っていくと、どうもシザの空間は『装飾的』なんじゃないかなということです。『装飾的』というと誤解を招きそうですが、ここで言う『装飾』とは、古典建築に見られるような『モチーフ的装飾』ではなくて、空間が装飾的である。すなわち『空間的装飾』であるということです。では、空間的装飾とは一体何なのだろうか。
それは言うまでもなく、近代的な均質空間を不均質に演出する『建築的仕掛け』である.ここで注意しなけばならないことは、シザの不均質な空間は、均質空間を否定するのではなく、均質空間に少しの操作を加え(ているようにみせ)ることだ.その操作というのは『光の扱い』と『形態操作』である.これらは一見、建築をデザインする上での常套手段であることは確かだが、シザが本当にスゴい所は、これらのデザイン要素が全く気まぐれに見えず、普遍的とでも言えるような存在感があると同時に、デザインした主体が見えない程に溶け込んでいる.このバランス感覚は真似しようとも真似できるもの出来るものではない.下は、ガレシア現代美術館のエントランスロビー.光の陰影、天井のスケール操作、全てが美しく緊張感に満ちている.
