Hatena::ブログ(Diary)

Scape + Space

2009-02-22

藤村龍至論

20:51

『1995年以降』を一通り読んでの感想は、建築ってこんなにも広いんだということだ。そして、カバー、目次、レイアウト、全体の構成、1人分の構成、色彩、厚さ、大きさ、、、ここまで細かく設計された本は初めてだ。


*フラットに並べる:ポストモダン的状況の提示+建築的問題意識の共有

今回『1995年以降』のレビューを書くにあたり、この本を通読する機会を得た。400ページもの分量があるが、藤村氏が相手の建築的生い立ち=学生時代の話を聞き出し、自分のスタンス=批判的工学主義を投げかけ、相手のスタンスを問うという流れが一貫しているため、リズミカルにすんなり頭に入ってきた。この本の文字起こしを手伝ってきた自分にとって、インタビュー1本を文字データにするのにかかる時間で、32組のインタビューを読み切れてしまうことは不思議な感覚だ。そして読み終えて感じるのは、32組に何となくつながりを感じたことだ。そのつながりというのは、様々な建築のフィールド(設計、編集、研究など)で活躍しておられる方が、現状の社会やシステムに対して少なからずも違和感を感じ、どう乗り越えていくかを模索していることだ。東浩紀のいうポストモダン的状況に、藤村氏が下部構造のアーキテクチャー=議論のプラットフォームを組み立てようとしていることが読み取れる。


*建築の深層をデザインすること⇔建築の表層をデザインすること

インタビューの内容は、建築と社会や都市との関係(=建築の深層)をどのように考えているのかと、テーマが先鋭化されている。

学部2年の頃[2006〜2007]、私は建築界において『建築家』が絶対的な存在だと思っていた。というのは手にする雑誌には、設計事務所のボスの名前と写真しかないからだ。さらに、ここで展開される議論は建築の形式性や物語性についてで、あくまで建築単体についてのもので、建築の表層的部分(=目に見えるデザイン)だった。2007年からRAJを読むようになってから、建築の深層的部分(=社会性、政治性、教育性)に興味を抱くようになった、が同時に設計課題の手が止まった時期があり、建築の深層ばかりに囚われ、肝心の建築のデザインが出来なくなるジレンマがあった。そういう点で「マカロニ建築」に執着する大西+百田のスタンスにはある意味分からなくもない。だが、このまま議論がなければ、建築はただの趣味の世界になりかねないと強く感じた。


*本の読者が、主体的にポストモダン的状況を再構成する

ここで興味深いのは、本というメディアが、ポストモダン的状況における下部構造のアーキテクチャーとして結晶していることだ。つまり、読者は32組のどれにも共感してもいい訳だし、32組の中の組み合わせの中からフュージョンして新しい創造ができるかもしれない。読者にポストモダン的状況を認識させた上で、読者に主体的な選択可能性を残すという操作が知的に思えた。


*藤村龍至論:システムを設計する父親型建築家

ずっと前から、私は藤村氏が「批判的工学主義」というコンセプトを掲げながらも、それがどんな空間として表象するのか、疑問に思ってきたが、批判的工学主義の面白いところは、コンセプトを建築のような『モノ』に落とし込むのではなく、コンセプトを目に見えない『システム』に落とし込んでいることだ。情報化社会において可視化された情報(建築界でいえばドローイングや図式性)はすぐに消費され尽くしてしまうが、非可視の『システム』は、消費されずにレッシグ的アーキテクチャーとして機能することにあると思うようになった。しかしそこには『権力』が生ずるために、+批判は避けられないだろう。

ここにはポストモダン的な多極的世界を許容しながらも、建築的問題を共有しようという藤村氏の父親性がある。こうやってこの場所でブログを書いているのも、藤村氏の父親性にあることに注意しなければならない。

次の企画で、藤村氏が上の世代や他の分野の人たちとどのような議論が展開されるかが楽しみだ。

議論というプラットフォームが用意されることで、無数に存在する多極的世界に関係が出てくれば、建築や都市を取り巻く状況は変わってくるかもしれない。そして、その時の状況で、出来る限りのことをしたいと思う。