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橋本健二の読書&音盤日記

2009-08-29

木下昌明『スクリーンの日本人』

 映画評論の世界には、もともと反体制的感性の持ち主が少なくないけれど、これほどはっきりと反体制カラーを前面に出し、しかも何冊もの著書のある人は、今では珍しい。「日本映画の社会学」という副題のつく本書は、さまざまなジャンルの多くの映画を扱ってはいるけれど、最大のモチーフとなっているのはアジア太平洋戦争の被害と加害の問題である。

 その白眉は「小津神話アキレス腱」という一文だ。山本嘉次郎や伏水修など、ほとんど戦犯といってもいい人々はもちろんのこと、木下恵介今井正山本薩夫など、戦後は反戦反体制派として活躍した名監督たちも、戦争中にはいくつもの戦意高揚映画を作っていた。そのなかにあって唯一、戦意高揚映画を作らなかったとしばしばいわれるのが、小津安二郎である。しかし、本当にそうなのか。

 著者は小津の戦前の作品である『父ありき』『戸田家の兄妹』を細かく検討し、さらにシナリオや当時の批評と照合して、現在残されている作品には、占領軍の検閲による数多くのカットがあることを明らかにする。それらはいずれも、軍人魂を賛美したり、兵隊検査の甲種合格を祝ったり、進軍歌が流れるなど、戦意高揚を狙った場面である。つまり小津が戦争に協力しなかったという神話は、占領軍の検閲によって成立し、作られたものなのではないか。この明快な指摘には、目を開かされる思いがした。

 著者は、戦後の青春映画についても興味深い指摘をしている。かつての青春映画は、「狂った果実」「不良少年」「青春残酷物語」「十九歳の地図」などのように、定職のない青年たちの社会への異議申し立てを描いたものだった。ところが最近の青春映画は、大林宣彦作品に典型的に見られるように、あるがままの状況を受容し、そのなかでささやかな夢をつむぎ、優しさを求めあうようなものに変わってきた。その背景には、「豊かな社会といわれながらも、一方で社会階層が固定化して格差が広が」るという、1980年代の社会の変化があるのではないか、という。おそらくこうした変化は、青春映画だけでなく、犯罪映画やメロドラマなどにもいえることだろう。

 佐藤忠男川本三郎といった、反体制とまではいわないにしてもリベラルな立場をとる評論家に対する厳しすぎる批判など、リベラル派や良心派を過度に排撃しようとする悪しき左翼の姿勢が目につくところは、本書の難点といっていい。しかし上に紹介したところだけをとっても、本書の価値は損なわれることがない。

スクリーンの日本人―日本映画の社会学

スクリーンの日本人―日本映画の社会学