橋本健二の読書&音楽日記

日々の読書と音楽鑑賞の記録です。

ザルツブルク音楽祭2018 グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラ・コンサート

classingkenji+books2018-08-27

ザルツブルク音楽祭も終盤だが、私が最後に行ったのは、ヨーロッパの若手音楽家によって編成されているオーケストラ、グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラのコンサートである。指揮は、まだ20代後半の新鋭、ロレンツォ・ヴィオッティ。会場のフェルゼンライトシューレの狭い通路から、100人を超える若い団員たちが続々とステージに登場するさまは、壮観だった。
1曲目は、ウェーベルンの「夏風のなかで」。「大オーケストラのための牧歌」という副題がついているが、作品番号はない。寡作の作曲家ウェーベルンが21歳の時に完成させた、習作である。後期ロマン派的色彩の濃い、題名のとおり牧歌的な曲で、若い指揮者・若いオーケストラにはふさわしいのかもしれないが、指揮者は過不足なく演奏し終えることに精一杯で、オーケストラは力量を十分発揮できない中途半端な演奏に終わってしまった感がある。少なくとも、聴衆がこのオーケストラに求めている演目ではなかったように思う。
2曲目は、新鋭チェリストゴーティエ・カプソンソリストに迎えて、ドヴォルザークのチェロ協奏曲。カプソンの演奏は、今年の音楽祭で最初に聴いたリサ・バティアシュヴィリと同様に、メロディ、とくに弱音を美しく響かせるところに特徴がある。1楽章の第1主題もよかったが、なにより第2主題の美しさには目を見張った。また第2楽章と第3楽章の、チェロの最高域を駆使した部分では、ありがちなように最高域を弾きこなす技術を誇示するのではなく、音量を抑えて美しく歌わせる演奏が新鮮だった。オーケストラは可もなく不可もない感じだったが、バイオリンと管楽器のソロは優れていた。
休憩をはさんで後半は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。このオーケストラがこの曲を演奏するとなれば、いやがおうにも期待が高まるところなのだが、いささか残念な演奏だった。同世代の団員たちの自主性を尊重しようとしたのかもしれないが、指揮者は最初、指揮棒を動かさず、ファゴットのソロに任せてしまう。ソロの終わりごろから指揮を始めるのだが、指揮者不在で始まった演奏は、各ソロパートがバラバラに演奏するような始末となり、原始のリズムを刻む弦楽器の強奏が始まるまで、ほとんど演奏の体をなしていなかった。次第にパワー全開の力演になっていくが、全体の統率はとれないまま。終わったあとは、おそらく同世代の若い音楽家たちと思われる聴衆が、ホールの最後列あたりで熱烈なブラボーを繰り返すので、他の聴衆は苦笑いしていた。
このオーケストラのコンサートは、毎回楽しみにしていたのだが、今回は失敗。若いオーケストラだからこそ、百戦錬磨の大指揮者が率いて、育ててやって欲しかったところである。たとえば、2010年にブロムシュテットが指揮したコンサートのように。しかし、これも毎回のことだが、終演後に団員たちがお互いの健闘をたたえ合い、聴衆が退場するのをよそに談笑し続けるさまは、じつに微笑ましい。現代を代表するオーケストラのひとつであることは間違いない。(2018.8.24)

ザルツブルク音楽祭2018 歌劇「サロメ」

classingkenji+books2018-08-23

この日は、ハンス・ウェルザー・メスト指揮のウィーン・フィル、ロメオ・カステルッチの演出で、オスカー・ワイルド原作、リヒャルト・シュトラウス作曲の歌劇「サロメ」。会場はフェルゼンライトシューレで、私の席は前から4列目のいちばん左。
演奏が始まる前から、サロメの後ろ姿が投影されたり、黒服の男たちが歩いたり、ビニール袋をかぶった男たちが蠢いたりと、不気味な演出がはじまる。フェルゼンライトシューレの舞台奥のアーチの空間は、アーチ部と同じようにざらざらした質感の素材で埋められ、やや白っぽい、巨大な岩盤のようにみえるよう加工されている。
演奏が始まる。ナラボートと小姓、ユダヤ人たちのやりとりのあと、サロメが左から走って入ってくる。純白のドレスを着ているのだが、体の背面の足の付け根あたりが真っ赤な染みで汚れていて、サロメが少女から女へと変容を遂げたばかりであることを暗示している。
意表を突いたのは、ヨカナーンの登場。背景全体を照らす白っぽい照明の一部が円形に消されて、まるで黒いスポットライトを当てたかのようになったところから、黒い塊が蠢きながら現れる。黒子たちとヨカナーンである。サロメとヨカナーンのやりとりが始まると、黒い円が次第に広がって、サロメを飲み込んでしまう。ヨカナーンの世界を象徴する黒い空間で、サロメはヨカナーンを賛美する。
見所のサロメの踊りの場面だが、サロメは一切踊らない。金色に光る台の上で、ドレスを脱いだ半裸姿でうずくまったまま、微動だにしない。奇抜な演出である。あえて踊らせないことで、半裸で踊るサロメの姿を暗示したのだろう。もっとも、これなら踊れないソプラノでも起用できる、ということかもしれないが。
カナーンの首が欲しいというサロメをなだめて、ヘロデが別のものを与えようとするシーン。ヘロデが宝石や白孔雀などを提案するたびに、ビニール袋に包まれた死体(のようにみえるが、ほんとに死んでいるわけではなく、あとで動き出す)が舞台に置かれていく。宝物というものは、人の命と引き替えに得られたものなのであり、死体に等しいということか。
これ以外にも細かな仕掛けがいろいろ。ほとんど意味がないように思われるところも多く、少々やり過ぎではないかという気もするが、全体としては成功だろう。何より素晴らしかったのは、サロメ役のアスミク・グリゴリアンで、最後の場面で「もし私を見ていたなら、あなたは私を愛しただろう」と歌い上げたところは圧巻。正直いってあまり期待していなかったメストの管弦楽が、意外に素晴らしかったこともあって、私としては珍しく、まったく退屈させられる場面のない歌劇公演だった。(2018.8.21)

ザルツブルク音楽祭2018 ロンドン交響楽団コンサート

classingkenji+books2018-08-22

音楽祭4日目は、サイモン・ラトルの指揮するロンドン交響楽団のコンサートへ。曲目は、バーンスタイン交響曲第2番「不安の時代」を前半におき、後半はドヴォルザークのスラブ舞曲作品72と、ヤナーチェクシンフォニエッタ
バーンスタインソリストは、ツィンマーマン。ツィンマーマンは6年前の音楽祭で、クリーブランド管弦楽団をバックにルトスワフスキの協奏曲を弾くはずだったのに、体調不良とのことで聞き逃した。今回、ようやく同じく現代ものを聴くことができたことになる。バーンスタインのこの曲、遠い昔に一度聴いたことがあるだけで、ほとんど印象が残っていなかったのだが、ラトルのメリハリある指揮とツィンマーマンの華麗なソロで、十分楽しむことができた。同じコンビでCDが出ているはず。買ってみようという気にもなった。
後半のドヴォルザーク、有名な1曲目は以前、ラトルがベルリン・フィルを振ったコンサートのアンコールで聴いたことがあるが、じつに生気あふれる演奏。コスモポリタンなスタイルには賛否があろうが、エンターテインメントとしては満点だろう。7曲目の最後を大いに盛り上げたところでいったん指揮棒を止め、ねらい通りに聴衆が拍手を始めたところで、「まだ終わりじゃないよ、つづきを聞いてね」(聞き取れないので想像)といったことをしゃべって笑いを誘ってから、終曲へ。ラトルらしい茶目っ気である。さて、ラストのシンフォニエッタドヴォルザークの2曲のヴィヴァーチェにも共通のことだったが、金管はがなり立てる手前、弦は金切り声を上げるようになる寸前まで音量を上げ、音響のバランスがいくぶん崩れるのもおかまいなしに盛り上げる。以前のベルリン・フィルの演奏でもその傾向はあったが、それをさらに強めたこの演奏は、功成り遂げたラトルだからできることだろう。
前半のバーンスタインは、作曲者のヒューマニズムが感動を呼び起こしたが、後半の2曲は感動よりは興奮を優先した演奏といっていい。ベルリン・フィルを去ったあとのラトルは、こんなふうに自由な演奏活動をしていくことになるのだろう。(2018.8.20)

ザルツブルク音楽祭2018 マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル

classingkenji+books2018-08-21

音楽祭の3日目は、もう1つ、ピアノのリサイタル。ポリーニの実演をザルツブルクで聴くのは、これが3回目。これまではたしか、オール・ショパンのプログラムだったのだが、今回は前半に、ブラームスの3つの間奏曲作品117と、シューマンの「オーケストラのない協奏曲」(ピアノ・ソナタ第3番)、そして後半にショパンという、いつもと違うプログラム。とくにブラームスの独奏曲は、これまでポリーニが弾いたのを聴いたことがない。
期待していたブラームスだが、はっとするような音色の美しさは、さすがポリーニ。とはいえ、とくに特徴的な演奏というわけではなく、ポリーニならではの演奏というところが感じられない。シューマンでは、技巧が冴えに冴え、スリリングなパッセージの連続で観衆を沸かせた。
さて、後半のショパン。曲は、まず作品62の2つのノクターン、次が作品44のポロネーズ、作品57の子守歌、最後が作品39のスケルツォ3番。演奏される機会の多い曲をあえて避け、ショパン好きなら知っているけれど、クラシック初心者の耳に残るほどではない曲を、緩急をつけて配するというプログラムで、それぞれの曲の性格をくっきりと弾き分けた。いずれも見事な演奏だったが、とくにスケルツォの劇的な表現は圧巻。演奏が終わるとともに、多くの観客がすっと立ち上がって歓声を送った。アンコールは、まず作品25-11のエチュード、そして最後は誰もが満足するバラード第1番でしめくくり。
ポリーニも、もう76歳。2年前にも気になったのだが、歩く姿がやや猫背気味。足取りも、しっかりしているとはいいがたい。そして、メインプログラムでもいくつかミスタッチがあり、ポリーニも「普通の一流ピアリスト」並みにはミスタッチをするようになったようだ。アンコールのエチュードで、最後の和音を盛大に外したのには驚いた。完璧主義者の彼のことだから、まだ十分弾けるのに引退するなどと言い出さないか、心配になる。最後のバラードは、現代最高の演奏だったといっていいだろう。まだまだ活躍してほしいものである。(2018.8.19)

ザルツブルク音楽祭2018 ウィーン・フィル・コンサート

classingkenji+books2018-08-20

音楽祭の3日目は、ウィーン・フィルのコンサート。指揮は、ヘルベルト・ブロムシュテット。演目は、シベリウスブルックナーの、いずれも第4番の交響曲である。私の席は、前から3列目の右から7番目で、第2バイオリンの直下という位置。
ブロムシュテットは1917年生まれの91歳で、現役最高齢指揮者といっていいだろう。ステージに登場すると、盛大な拍手とともに歓声が上がる。聴衆の尊敬を集めていることが、よくわかる。歩き方も、また指揮ぶりも颯爽としており、年齢を感じさせない。
シベリウスは、悪い演奏とはいわないが、ウィーン・フィルの透明というよりは密度のある音色には合わないようで、いまひとつ。テンポの設定など音楽の運び方は巧みなのだが、シベリウスの演奏としては不満が残った。ウィーン・フィルには、マゼールの全集などあるにはあるものの、シベリウスの録音が少ない。それにはやはり理由があるようだ。
やはり眼目は、ブルックナーブルックナーの「楽器」としては世界最高というのが定評のウィーン・フィル。そしてブルックナーを得意とするブロムシュテットである。いい演奏になるに決まっている。スタイリッシュで知的な指揮ぶりも、見ていて楽しくなってくる。弦楽器は、強奏部では素晴らしく分厚い響きをみせ、弱音部ではコンマス以下一糸乱れぬ合奏を聴かせる。とりわけ素晴らしかったのは第4楽章で、曲の展開にしたがって、それぞれの部分の性格をくっきりと描き分け、論理整合的に積み上げていく感があった。いくつかの骨太の論理が、その展開とともに次第に撚りあわされてひとつになり、壮大な結論部へと導かれていく、思想書の名著にもたとえられようか。まじめな話、一度スコアを研究して、著書を書く参考にしようかと思ったくらいだ。終演後は場内一斉にスタンディング・オベイション。ブロムシュテットは団員一人一人をねぎらい、握手したり、立たせて拍手を受けさせたりするのだが、聴衆はただただ、ブロムシュテットを讃えていたのである。昨年は同じウィーン・フィルを指揮して7番を演奏している。おそらく来年も、また再来年も、素晴らしい演奏を聴かせてくれるのではなかろうか。(2018.8.19)

ザルツブルク音楽祭2018 歌劇「スペードの女王」

classingkenji+books2018-08-19

音楽祭の2日目は、マリス・ヤンソンスの指揮、ハンス・ノイエンフェルスの演出、ウィーン・フィルの管弦楽で、チャイコフスキー作曲、プーシキン原作の歌劇「スペードの女王」。
ノイエンフェルスの演出は、冒頭から驚きの連続。少年合唱団は檻に入れられたまま、調教の女性たちに連れられて登場し、これに続いて登場するのは、肩から巨大な乳房をぶら下げた女性たち。少年たちは檻から出されたと思えば、調教の女性たちに紐でつながれる。快晴の場面で登場する合唱団は、世紀末ヨーロッパの海水浴客姿。そして合唱の賛美に乗って登場する女帝エカテリーナは、なんと宝石できらびやかに飾られた骸骨だ。ザルツブルクでは最近よくあるように、直方体の舞台装置を多用し、装置も人も、舞台を左右に動くコンベアに乗って動く。壁にはしばしば、抽象的な模様や風景が投影され、最終場のヘルマンが賭博に負けるシーンでは、ヘルマンを欺いた伯爵夫人の顔が大写しにされる。始まってから30分も見れば奇抜さにある程度まで慣れてしまうが、長大な歌劇を最後まで飽きさせない演出だった。
しかし、最後まで観客を飽きさせなかったのは、実際にはヤンソンスの見事な指揮である。私の席は前から6列目のいちばん左で、指揮者の横顔がよく見える位置だったので、ときおり意識的に舞台から目を離して、ヤンソンスの棒に見入っていたのだが、そうすると音楽の流れがよくわかった。繊細かつ緻密、しかも表情豊かで自由自在に音楽を奏でる弦楽器群は、かつてのロイヤル・コンセルトヘボウそのもののようでいて、これに重厚さが加わっている。管楽器群は、コンセルトヘボウほどの華麗さには欠けるが、全体としての一体感は素晴らしい。
歌手では、白い衣装の印象的なリサ役のムラヴェーヴァが全体を引き立て、ジョヴァノヴィッチが、ダメ男でありながら変な色気のあるヘルマンを好演。エレツキーを演じたゴロヴァテンコは、第2幕のアリアが素晴らしかった。その他の歌手も、演出のおかげでそれぞれにキャラクターが際立ち、生気ある演技と歌を繰り広げた。ちなみに席は、高い方から3番目で260ユーロ。ヨーロッパの音楽祭としては高い方だと思うが、得がたい経験をしたのだからお買い得、と思っておこう。(2018.8.18)

ザルツブルク音楽祭2018 ウエスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラ

classingkenji+books2018-08-18

2016年に続いて、音楽祭にやってきた。最初の夜は、ダニエル・バレンボイム指揮のウエスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラ。イスラエルパレスチナアラブ諸国の若者たちからなるこのオーケストラは、1999年にエドワード・サイードバレンボイムによって設立された。実演を聞くのは、今回が初めて。
前半はチャイコフスキーで、1曲目は「エフゲニー・オネーギン」第3幕からポロネーズ。技術的には荒削りだが、若い力の溢れるこのオーケストラにはうってつけで、大いに盛り上がる。2曲目は、リサ・バティアシュヴィリソリストに迎えての、バイオリン協奏曲。バティアシュヴィリを実演で聞くのは初めてだが、弱音を見事に歌わせる演奏は、CDで聞く以上に素晴らしい。表情豊かだが、リズムと構成感を失わないところがいい。彼女の美質はとくに1楽章で発揮されたようで、終わったとたんにたまらず何人かが小声でブラボーとつぶやいたのに続いて、曲の途中にもかかわらず盛大な拍手が始まった。音楽通の聴衆の多いザルツブルクでは、珍しいことだ。曲の内容からいって、やや単調な2楽章と3楽章は彼女向けではなかったかもしれないが、十分に素晴らしい演奏で、終わったあとはブラボーの嵐だった。
後半は、ドビュッシーの「海」と、スクリャービンの「法悦の詩」という、20世紀初頭の傑作交響詩2曲。東と西の、性質のよく似た交響詩という意味でも、おもしろい選曲である。いずれも技術的に苦しい部分は多かったが、バレンボイムの熱意あふれる指揮が、オーケストラの力量を120%引き出したようで、充実した演奏。以前、シカゴ交響楽団で聞いたときの、オーケストラの力量に頼っただけのまったく工夫のない指揮とは対極の、いい演奏だった。
アンコールは、エルガーエニグマ変奏曲から、ニムロッド。選曲からいっても、また思い入れたっぷりの演奏ぶりから見ても、明らかに中東紛争の犠牲者への鎮魂の意図が込められていた。終わったあとは、場内総立ちの拍手の嵐。ザルツブルクの聴衆が、このオーケストラの政治的意味をよく理解し、演奏者たちに敬意をもっていることがよくわかった。はっきりいって、バレンボイムはあまり好きな音楽家ではないのだが、尊敬できるところのあることを知ったコンサートだった。(2018.8.17)