橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

北沢「井口」

classingkenji2007-03-03

持病の腰痛の治療のため、笹塚の鍼灸院に通っている。笹塚は、渋谷区の西端。地図を見れば分かるように、この部分だけが西側に飛び出して、杉並・世田谷両区と接している。駅の近辺はきれいになり、おしゃれな店もあるが、南側へ出ればすぐに、懐かしい雰囲気の商店街になる。これは、観音通り商店街といい、商店街の中ほどの観音会館では、ガラス越しに観音像を拝むことができる。居酒屋も何軒かあり、いかにも庶民的な居酒屋というたたずまいの「T」という店に入ってみた。予想通り、使い込まれた長いカウンターが店の奥まで通っている。メニューは多く、焼き鳥や鶏からあげ、牛すじ煮込みなどから、一〇〇〇円を超えるマグロの刺身まで揃っている。というわけで期待したのだが、味はあまりよろしくない。
商店街を抜けると笹塚橋に出る。下を流れるのは玉川上水で、これを渡ればもう世田谷区北沢。その後は、しばらく渋谷区と世田谷区の境界線近くを歩くことになる。そのあたりに、一軒のやきとり屋を見つけ、入ってみた。平凡なビルの一階の、ガラスの入ったサッシを開けて入るような、質素な作りの店だが、中の賑わいに引き寄せられたのである。この店は大いに気に入った。ビール大瓶五五〇円(ただしスーパードライ)、生ビールはサッポロらしく、大が七八〇円、中が五二〇円、サワー類は三二〇円。ホッピーセットは五五〇円だが、注文すると三六〇mlのホッピーと氷の入ったグラス、そして一合グラスに入った焼酎を渡される。これで、二杯半飲めるという寸法だ。焼き鳥は鳥と豚の両方があり、八五円。うれしいことに、魚の刺身がある。刺身盛り合わせ六八〇円、いろいろ切り落とし五〇〇円など。肉料理も多く、プルコギ炒め四八〇円、自家製焼豚四五〇円など。タン、ハツ、レバの刺身もあり、それぞれ四五〇円と安い。ハツの刺身を頼んでみたが、おろしたてのニンニクが添えられて出てきた肉は臭みが全くなく、軟らかい。串焼きも美味しく、シャキシャキと噛み切れるシロが良かった。
客はカジュアル姿の近所の人々ばかり。座敷に陣取る五〇代三人、四〇代一人、二〇代一人の男性グループは、土建業関係のようだ。カウンターの隣の作業服を着た五〇代男性二人は、水道関係の仕事か。他に、五〇代男性、六〇代男性の一人客と、三つくらいの女の子を連れた三〇代男性。カウンターの中で作るのは簡単なものと串焼きだけで、調理が必要な注文が入ると、店主はいったん奥に引っ込み、出来上がったものを持って出てくる。客の一人が「マスターの作るもん、何でもうまいもんなぁ」とほめちぎる。店主は一九五九年生まれというから、私と同い年。営業許可証には、父親と思われる名前もみえる。この場所で地域の人々に親しまれ、長く続いた店なのだろう。渋谷と世田谷の間の、普通の「いい店」である。小田急線の東北沢から歩いても、一〇分くらいのところにある。(2007.2.28)