橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

祐天寺「ばん」

classingkenji2008-02-15

昭和三〇年代の話である。ある居酒屋で、なぜか炭酸が飛ぶように売れている。それを訝った炭酸会社の社長が、その店を訪れてみると、生レモンを焼酎に搾り入れ、炭酸で割って飲ませていた。そこからアイデアを得て、店の店主にもアドバイスをもらって開発されたのが、「ハイサワー」なのだという。だからこの店は、「レモンサワー」の発祥地ということになる。いや、単に「チューハイ」「サワー」と言えばレモンサワーを指すことも少なくないことを考えれば、今日の「チューハイ」「サワー」の発祥地ともいえないこともない。この話は、『古典酒場』の第二号に載っている。その店が、ここ祐天寺の「ばん」である。
駅から離れているので少々不安だったが、店はすぐに見つかった。まだ五時前というのに、店は満員になりかけている。まずは名物のレモンサワーをいただく。すぐに店員が持ってきたのは、氷と焼酎の入ったグラス、炭酸水のボトル、そして二つ割りにして絞り器に載せたレモンが丸ごと一個。絞りたてのレモン、栓を開けたばかりの炭酸で、自分で作るサワーが美味しくないはずはない。これで、わずか二五〇円。もつ焼きも、美味しい。中でも、赤身、フランス、あぶらと三種類あるカシラは、カシラ好きの私としては感動ものの逸品だった。豚のしっぽの煮込みの「とんび」、そしてこれを豆腐とともに供する「とんび豆腐」も絶品。はじめて来た一人客と目をつけた店主が私に話しかけ、この店の載った『古典酒場』を見せる。知ってるよ、それ見て来たんだから。なにしろ、同じ号の対談には、私も登場している。そのページを見せると、店主は大喜びし、ちょうど一席だけ空いた正面のカウンターに案内してくれた。客は、ジャンパー姿の中高年男性が多い。私から見えた一四人の客のうち、なんと一〇人までがジャンパーやセーターを着たカジュアル姿の六〇代男性で、うち何人かは野球帽やハンチングをかぶっている。まるで下町大衆酒場だ。隣にいた六〇代の客が話しかけてくる。スーツ着たサラリーマンがいませんね、と尋ねると、ここはその前に地元の客で満員になってしまうのだとのこと。東急線に下町大衆酒場がある。東京は、入れ子構造になっている。下町の中に山の手があり、山の手の中に下町がある。そんな多様性が、東京の魅力の一つだ。均質なゲーテッド・コミュニティなど、文化を知らない連中に住まわせておけばいいのだ。(2008.2.8)