哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡...
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20050714

[][][] わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。何年かまえ――正確には何年まえかはどうでもよい……





今日はイシュメールの話をする。

 *-*

19歳の夏、初めてアメリカ大陸に渡った。大学2年の夏休みに、ひと月ほどスタンフォード大学に滞在することになったのである。ちなみに西暦でいうと1991年になる。

本当の留学ではなく、中身はただの語学研修だったのだが、たいへんに楽しいひと月であった。われわれの世話をしてくれたスタンフォード学生たち(そのための学生団体があった)との交流や、サンフランシスコやパロアルトバークレーでの出来事など、語りだしたらきりがないが、いまはどうでもいい。今日はイシュメールの話をするのだから。

約1か月間の語学研修ののちには、(いかにも日本人大学生向けのプログラムであるが)ディズニーランドに行ったり、帰りの飛行機ハワイに寄って観光したりという楽しげな企画が用意されていた。わたしはべつにディズニーランドハワイを軽んじていたわけではないのだが、せっかくアメリカくんだりまでやってきたのだから――「何でも見てやろう」(©小田実)ほどのものではないにしろ――と、ちょいと実地のアメリカ見聞をしてみたくなった。そういうわけで、ディズニーランドハワイへと向かうみんなと別れて、ひとり旅立つことにしたのである。行き先はニューヨーク。とくにニューヨークのなにを知っていたわけでもなかったのだが、とにかくニューヨークへ行こうと決めた。

世話をしてくれたグループのひとりで、とくに仲良くしてくれた学生に、Hという女子学生がいた。ロサンゼルス国際空港のちかくに実家があるというので、彼女実家に出発の前日に泊めてもらえることになった。どうして彼女と仲良くなったかというと、当時彼女恋人であったBとわたしの仲が良かったからである。Bは、ステレオタイプ的にイメージされるいわゆる「アメリカ人」(「ハーイ!」)とはまったく逆に、恥ずかしがり屋で非社交的なドイツ文学専攻(ベンヤミン好き)の学生であった。そんな彼とわたしとが、ロックThe ClashR.E.M.等々)の話で意気投合したのである。ちなみに、Hはその後日本にやってきて、短い期間だが高松英語教師をしていたこともある。高松での再会の様子や、そのときに聞いたBとの別離、日系ブラジル人Mとの新たな恋といった話もあるのだが、それもいまはおこう。

ともかく、そのようにしてわたしはHの家に泊めてもらった。ちなみにHの両親は、ボケとツッコミを地でいくような漫才夫婦であった。Hのお母さんは典型的な「やり手」。地元の有力な小学校経営者であった。他方でお父さんは、お母さんがすごすぎたからなのか知らないが、ちょっと天然の入ったお笑い系の人であった。しかしこれがなかなかの曲者で、一見すると天然ボケにしか見えないものの、よくよく観察してみると、そのじつきわめて巧妙に計算されつくされた天然ボケ――今風にいえば「社会的に構築された天然ボケ」――とでもいうような超絶技巧を駆使しているのがわかる(ひょっとしたら駆使しているのをわかられている時点で彼の負けなのかもしれないが、その負けをも自己言及的に自らのボケ芸に採り入れるのが真の「構築された天然ボケ芸人であろう。そして彼こそはまさにそれを実践しているように見えた。しかし、はたして彼がほんとうにそこまでの「高み」を目指していたのかどうか、それは杳として知れない。さらにしかし、その「杳として知れない」点こそが彼の「構築された天然ボケ」の存立拠点であったのであり、それこそが彼のオントロジカル・ゲリマンダリングの確信犯的……以下、長くなるので省略する)。ともかく、彼はそうしたボケ芸によって周囲の人間たちを笑わせることを日々の楽しみとしているような、愛すべき(と同時にけったいな)人物であった。

出発の朝、お父さんが突然「俺が飯をつくってやる!」と高らかに宣言し、家族の迷惑をよそに勝手に朝食をつくりはじめた。なんでもテキサス出身とのことで、「記念にテキサス流のブレックファストを食わせてやる」といきまいている。空港行きのバスの時間が迫ってきて一同がやきもきするなか、彼は鼻歌を響かせながら黙々と肉を焼きつづけた。テーブルに差し出されたのは、塩と胡椒で味つけされた500グラムはあろうかというビーフステーキであった。さいわいわたしは「目覚めた数秒後には重い肉でもなんでもがんがん食える」体質であったので(実家焼肉屋だし)急いで残さず平らげた(いま同じことをやれといわれたらさすがに無理だろうと思う)。

毎度のことながら話が脱線する。申し訳ない。今後もすると思うが、その辺よろしくお願いしたいものである。

 *-*

エニウェイ、なんとかバスにも間に合い(というか、じつはバスに少し待ってもらったのだが。すべてあのテキサス親爺のせいである)、わたしは飛行機ニューヨークに飛んだ。

ニューヨークラガーディア空港に降り立った。目標マンハッタン。しかしどうやって行こうか。バスにするか、地下鉄にするか、タクシーにするか。さんざん迷ったのだが、地下鉄だと外の景色が見えないというガイドブックの記載を読んで、バスタクシーで行くことに決めた。

そういうわけで地上に出てみた。タクシー乗り場を見回してみると、大きな黒人がわたしに向かっておおげさに手招きしている。イエロー・キャブの運転手だ。順番とかないのかなぁ、並んでいる人にわるいなぁとは思いつつも、誘われるまま彼の車に乗り込んでしまった。

マンハッタンまで、たしか1時間ちかくかかったと思う。たいへんしゃべり好きの運転手であった。さきほどわたしを呼び寄せたのと同じおおげさな身振りで、両手を上下左右に振りまわりながら後部座席のわたしに向かって話しかける。いわゆる手離し運転である。しかも、頼んでもいないのにわたしの顔を見てしゃべろうとするものだから、危なっかしくてしかたがない。これで運転できるのか、この人はいつもこうなのか、はたして大丈夫なのかと、客からすれば身も凍る思いである。リュック・ベッソン製作の映画TAXi』(1997)主人公のタクシードライバーであるダニエルサミー・ナセリ)の車に不幸にも乗り合わせてしまったあのビジネスマンになった気持ちをイメージしてみてほしい。

彼は言った。

Call me Ishmael.

当時のわたしの座右書であったメルヴィル白鯨』は、まさにこの一節からはじまる。

「わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。何年かまえ――正確に何年まえかはどうでもよい――財布がほとんど底をつき、陸にはかくべつ興味をひくものもなかったので、……」(八木敏雄訳、岩波文庫)。

シュメールのこの言葉を聞いた瞬間、――当時わたしは『白鯨』の第一パラグラフを一文一句そらんじていたので――それにつづく下記の文章が走馬灯のようにわたしの脳裏をかけめぐった。

Some years ago - never mind how long precisely - having little or no money in my purse, and nothing particular to interest me on shore, I thought I would sail about a little and see the watery part of the world. It is a way I have of driving off the spleen and regulating the circulation. Whenever I find myself growing grim about the mouth; whenever it is a damp, drizzly November in my soul; whenever I find myself involuntarily pausing before coffin warehouses, and bringing up the rear of every funeral I meet; and especially whenever my hypos get such an upper hand of me, that it requires a strong moral principle to prevent me from deliberately stepping into the street, and methodically knocking people's hats off- then, I account it high time to get to sea as soon as I can. This is my substitute for pistol and ball. With a philosophical flourish Cato throws himself upon his sword; I quietly take to the ship. There is nothing surprising in this. If they but knew it, almost all men in their degree, some time or other, cherish very nearly the same feelings towards the ocean with me. (Melville, Moby Dick Or The Whale, 1851)

しかし、それにもかかわらずイシュメールはしゃべりつづける。当然ながらわたしの脳内で起こっていることなど彼にとってはなんの関係もない。

一拍おいて、彼はこう尋ねてきた。

Are you Japanese?

この問いには、アメリカ滞在中に何度も直面した。いかにも日本人然としたわたしの出で立ちからしてそれも当然であるが、しかし、わたしはこの問いを投げかけられるたびに、なんともいえない困惑を感じていた。

ことさらに誇るべきことでも恥じるべきことでもないが、この困惑を説明するためには、わたしの「出自」を引き合いに出さなければならない。わたしは在日朝鮮人三世である(いわゆる「在日三世」または「コリアン・ザ・サード」)。いまでは日本国籍を取得しているが、当時はまだ大韓民国国籍所持者であった。日本国籍を取得(いわゆる「帰化」)したことにはもちろんさまざな理由があるが、いまはどうでもいい。

ともかく、「Are you Japanese?」なる問いに答えるのは、当時のわたしにとってはたいへん難儀であった。「Where are you from?」とか「Are you from Japan, right?」とかいう問いなら話は簡単である。前者には「Japan.」、後者には「Yes.」とでも答えておけばよい。しかし「Are you Japanese?」にたいしては、正直なところ、どのように答えてよいものやら困っていたのである。端的に「コリアンだ」と答えるか、「ジャパニーズといっしょに暮らすコリアンだ」と答えるか、はたまた「コリアン・ジャパニーズだ」と答えるか。

それにしてもずいぶんとささいなことにたいして大げさに困ったり悩んだりするものだ。そう思われるかもしれない。実際そのとおりなのだが、これはなにしろわたしが10代の子どものころの話であるので、この記事の全体がかもしだしているある種の幼稚さについては少しだけ大目に見てもらえたらうれしい(もちろん、ここでわたしは大目に見ろと要請しているのではなく、そうしてくれたらありがたいと希望を述べているのである)。実際、わたしがふつうに「反省」(意識を意識すること=いわゆる「死に至る病」罹患への途)をできるようになったのは成人してからのことである。小学生時代にいたっては、保護者面談において教師から放たれた「この子にはいつもなにかが抜けています」という言葉に母親は深甚な衝撃を受けていた(ちなみに当時のわたしの唯一の「ソウルメイト」は、いわゆる「特殊学級」(当時)にいたKであった。こう言うことがなにを意味するのかにかんしてはさまざまな問題があろうが、事実わたしの小学校生活はKの存在抜きには考えられないものであるので、この機会に触れてみた次第である)。ともかく、だからなのかなんなのか知らないが、わたしには、たとえば四方田犬彦氏のハイスクールなんとかかんとかとかいう本に書いてあるような、おませで知的なティーンエイジャーの冒険などまったく理解不能である。そりゃいま読んでみればいちおう文字は読めるし、なにが書いてあるかもだいたいわかる。しかしそれでも理解不能であることには変わりがない(べつにことさらに理解したいとも思わないが)。また、それを抜きにしても、こういう困惑や苦悩はそれこそ「人さまざま」であって、本質的には年齢のことなど関係がないし、その内容「それ自体」について人様からとやかく言われる筋合いはない。と、だれに頼まれるでもなく勝手に自己完結的逆ギレモードに入りつつあるので、但し書きはこの辺で切り上げて先を急ごう。

上記からも容易に予想されるとおり、当時のわたしはいわゆる「エスニック・アイデンティティ」とか「ナショナルアイデンティティ」とかいったものにたいする意識が希薄であった。当然、在日として19年間生きてきたわけだから、それなりの経験――正確には、「経験」を呼びうるようなたいそうなものではなく、単なる快不快レヴェルの感情の推移にすぎないだろうが。つまり在日として日本を生きること、朝鮮人共同体のなかで生きること、朝鮮日本のあいだで生きることにまつわる、場合によっては強烈な快不快感情――はたしかに積んできてはいた。しかし、なにやら抽象的に聞こえる「アイデンティティ」とか、ましてやその「撹乱」いったような概念や思考とは、幸か不幸か無縁だったのである。ちなみに、わたしのこの「意識の低さ」が、ニューヨークの次に向かうはずだった憧れのジャマイカ(ジャメーカ)に行くことを不可能にしてしまった――航空券はもちろんのこと、キングストンとモンティゴ・ベイのホテルの予約までしたのに!――というオマケもつくのだが、それも今日の話には関係ないのでおいておこう。

さて、アメリカ滞在の途中からわたしは、「Are you Japanese?」にたいしては端的に「Yes.」と答えるようにしていた。これは、当時のわたしには上記のとおり概念的な思考ができなかったという事情にもよるが、なによりも便宜的実用的な措置としての決定であった。実際、ともにアメリカに渡った研修生たちはみな日本人であり、彼らと行動をともにする場合、いちいちそのような困惑を表明することが面倒に思われたのである。ちなみに、のちほどその「日本人研修生」のなかに、わたしのほかにもうひとり在日がいたことが判明した。Sである。そのこともまたいずれ話さなければならないかもしれない。しかしとにかく先を急ごう。

わたしは滞在中に決めた格率にしたがい、端的に「Yes.」とイシュメールに答えた。

シュメールはわが意を得たりとばかり、さらに勢いよくしゃべりはじめた。

自分は黒人だ(まぁ、見ればわかるが)。たぶん年のころは20代後半だったと思う。彼が弁ずるに、自分は黒人であることによってまともな仕事に就くことがなかなかできない。そりゃ立派な仕事をしているやつもいる。でも、やっぱり、俺には難しい。教育もない、金もない。食うためには、しかも道を踏み外すことなく食うためには、こんなところでタクシードライバーでもやるしかないんだ。

たしかに、「いかにも」「どこかで聞いたことのある」ような話ではある。しかしわたしはイシュメールの話を熱心に聞いた。中流階級の白人や、要人に見える人物(そんな人物がイエロー・キャブに乗るかは知らないが。しかし、あのヨーヨー・マストラディヴァリウスをイエロー・キャブのトランクに置き忘れたという事件を思い出せば、そういうこともあるのだろう)でない、同じくマージナルな位置にいそうな客(そんな人物がタクシーを利用するかはわからないが)が乗ってきた場合には、イシュメールはこのような話をよくするのだろう。

しかし、そのときのわたしは、彼の語りを単なるステレオタイプ愚痴に還元するよりはむしろ、つぎのような態度で彼の話を聞いた。彼がそのように語るのは、そのように語ることで生き延びようとしているからなのだろう。それが言いすぎならば、そのように語ることが生き延びることの一部をなしているのだろう。だって実際、イシュメールは目の前で初対面のわたしにそれを必死に語っているのだから。今風にいえば、彼はそうした物語を語りつづけることで自己を構築しつづけているのだろう。その内容についての是非はどうであれ、彼がいまわたしにそれを語っていることは事実であり、彼の生活にそのような語りが含まれていることは否定すべくもない。

あくまで(それこそステレオタイプな)イメージとしてだが、マイケル・マン監督映画コラテラル』(2004)主人公のタクシードライバーであるマックスジェイミー・フォックス)を思い出してみれば、なんとなく感じがつかめるかもしれない。マックスはいまはキャブ・ドライバーだが、いつかはリムジン会社を経営したいという夢をもっている。そしてそれを客である暗殺者ヴィンセントトム・クルーズ)に語る。その後いろいろあって、病気で入院しているマックス母親の見舞いに二人で行くことになるのだが、そのときに明らかになったのは、彼が母親に嘘をついているということだった。マックスの嘘によって、母親は(そのじつ一介のタクシードライバーにすぎない)マックスが景気のよいリムジン会社を経営する成功者だと信じ込んでいるのである。

閑話休題

黒人とちがって日本人は――と彼はつづけた。日本人は、アメリカでおおいに成功できるチャンスをもっている。日本人には技術があり、さらに勤勉である。マンハッタンに行くのならば、見てみればいい。日本人エンジニアビジネスマンがどれだけ成功しているかがわかるはずだ。きみは学生で、いまは旅行気分でいるだろうけれど、いつかアメリカにやってきて本気でがんばってみないか、云々。たしかにこれもよく聞いた話ではあるが、わたしはこれまでどおりうなずきつづけた。

彼はさらにつづける。そうそう、俺には横須賀に友だちがいる。原さんという人だ。若いころ海軍にいたものだから、それで何年か(忘れてしまった)横須賀にいたんだ。だから日本には愛着がある。また行きたいとも思ってるんだ。

なるほど、と思った。だから彼はわざわざわたしを大げさに呼び込んでタクシーに乗せたのか。日本の思い出も含めて、いろいろと話がしたかったのだな。妙に納得してしまった。

そこへ突然、これまでとは打って変わった調子で、

それにひきかえ、 (※原文は英語

とイシュメールは一気に話の舵の向きを変えた。

それにひきかえ、コリアンは最悪だ。やつらはズルいしケチだし、性根がわるい。でも小賢しいものだから、うまく商売をやってやがる。黒人は食料品や日用品をコリアンの店で買わなきゃならない。どんなにいやでも、しかたがない。やつらが店をやってるんだから。とにかくコリアンは最悪だ。このようにイシュメールは、「f**king」をじつに適切な箇所にじつに適切な仕方でじつに効果的に挿入しながら語った。

わたしは軽いショックを受けた。それは悲しみでもなければ怒りでもなく、後ろから「コン」と突つかれたような無色透明のショックであった。わたしもアフリカン・アメリカンとコリアン・アメリカンとの確執については知らないわけでもなかったので、イシュメールがそう言うのも理解できないわけではなかった。実際、その後に起こったロス暴動(1992)でとりわけ大きな被害を受けたのはコリアタウンであり、コリアン系商店の被害総額は暴動全体の被害総額の半分近くにのぼるという。また、スパイク・リー監督映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)でも、その確執のさまが生き生きと(?)描かれている。

そういう事情を知らないわけではなかったので、それはいい。問題は、わたし本人がコリアンだということだ。わたしは困ってしまった。たしかに「話は話として」聞くことはできた。しかし、先の「Are you Japanese?」問題の余燼がまだ若干くすぶっていただけに、気持ちは「千々に乱れ」、さまざまな思いが「胸中を去来」した。

どうしたらよいものか。ここで思い切って「カミング・アウト」するべきか。「ほんとうはコリアンなのだよ」と。結果を先に言えば、わたしは黙っていた。「uh-huh」と相槌をうったきり、さもそのことについて深く考えているといった風に沈黙した(実際、考えていたのだが、どう答えてよいものやらわからなかったのである)。

コリアンの同胞のために、同じ弱者であるアフリカン・アメリカンとコリアン・アメリカンが争わなければならないアメリカ社会の「歪み」をこそ指弾するべきだったのか。「弱い者たちが夕暮れにさらに弱い者を叩き、その音が響きわたることでブルースが加速していく」この「すばらしい世界」の成り立ちを説くべきだったのか。そして/あるいはイシュメールのために、彼の「偏見」を正そうと努めるべきだったのか。または端的に、怒りと憤りを彼にぶつけなければならなかったのかもしれない。さまざまな意見があるだろう。しかし、わたしは実際にはそこでなにも言わないことを選んだし、あの時あの場でなにも言わなかったことをいま後悔しているわけでもない。「意識の高い」人からは怒られるかもしれないが(「このディプレッシヴなコンニャク野郎め!」)、あの時あの場でのイシュメールとわたしの交流において、そういうプチ代理戦争をおっぱじめる気にはどうしてもなれなかったのである(戦争好きの人はおっぱじめるがよい)。もちろん、わたしの選択がこそが正しかったのだと主張する気もさらさらない。実際、いまでも答えはわからない。いまでも残っているのは、そのときに突きつけられた問いだけである。

マンハッタンが近づいてきた。そのとき、まったくうかつなことに、わたしは現金を30ドルしかもっていないことに気がついた。当時マンハッタンに行くには40ドルくらいかかるはずだったからである。これではいかにもまずい。すでにタクシーのメーターは28ドルの数字を指していた。

シュメールの話の腰を折るのを申し訳ないと思いながら、わたしは正直に彼に言った。ごめん、30ドルしかもっていない、と。

彼は、

オーケー! (※原文は英語

と大声で叫び、メーターを28ドルのところで切ってしまった。そして「心配するな。連れてってあげるから」と付け加えた。はじめての海外旅行で、それまでにも何度か「失敗」はしでかしてきのたが、今回の失敗でもかなりの不安を感じていただけに、わたしはイシュメールの「サーヴィス残業」に感謝した。

マンハッタンに着いてタクシーを降りるとき(途中に渋滞があったのでたぶん40ドル以上かかっていたのではないかと思う)、わたしはあらためてイシュメール感謝の意を述べた。彼はそれには応えず、笑いながら一片の紙片をわたしに差し出した。そこには彼の名前と住所が記されていた。

原さんもいるし、また日本に行きたくなったから、行ったときには今日のお返しをしてくれよ。 (※原文は英語

わたしも自分の連絡先を書いた紙片を彼に渡した。わたしたちは固い握手をし、再会を誓って別れた。

その後、わたしはニューヨークでの滞在をおおいに楽しんだ。Hが紹介してくれた学生のEは、彼のアパートメントに泊めてくれただけでなく、抜群のベーグル店を紹介してくれたり(彼はユダヤ人であった)、ロックの話に延々とつきあってくれたり(彼は大のロック好きであった)、アメリカの知識社会について教えてくれたり(彼のお父さんはニューヨーク大学教授であった)、数十セントの安コーヒーをいっしょに飲んだりした(みんなお金がなかったのである。その安コーヒーはEの友人と3人で飲んだのだが、別々に金を出そうとしたら(今風にいえば個別会計)、「こんなに安くしてるのに誰もおごろうとしないのか!」と店主に怒鳴られた)。

ニューヨーク滞在の後につづいたのは前述したジャマイカ事件であるが、この話はまた別の機会にするとしよう。

 *-*

シュメールの話には、(多くの話がそうであるように)後日談がある。

わたしが帰国してしばらくしたのち(たぶんひと月後くらいだったと思う)、アメリカから一通の手紙が届いた。見ると、あのイシュメールからのものである。急いで封を切ると、一葉の写真と一枚の便箋が出てきた。写真は、どでかいアメ車(イシュメールのものなのか、はたまた他人のものなのか)のボンネットに右足を乗せ、右手に持ったビール瓶を右ふとももに置いてポーズをとるイシュメールの、ある種ユーモラスな写真であった(本人はすこぶる本気であろうが)。便箋には、秋までに日本に行くからそのときには連絡する、と書いてあった。

わたしはイシュメールからの連絡を待った。もし彼が日本にやってきたら、タクシーのなかでは話せなかったこと(ブラック‐コリアン問題)についても語り合いたいものだと思った。なにかいいお土産でも渡せないものかと考えたすえ、――彼の宗教観などまったく知らないくせにいい気なものだが――鎌倉まで行って奈良の大仏のミニチュア置物(2〜3センチの小さなもの)と日本のお香(好みに合うか知らないが)を用意しておいた。いまだったらそんなものは選ばないと思うが、まぁ、いわゆる若気の至りである。

しかし、待てど暮らせどイシュメールからの連絡はこなかった。気が変わったのかもしれないし、都合がわるくなったのかもしれない。これはいまでも少し悔やんでいることなのだが、わたしも気を利かせて、とりあえずの返事(「待ってるよ」)を出すべきだったと思う。わたしには、手紙のやりとりとか、メールのやりとりとか、時候の挨拶といった日常的な交流がまったく不可能になる期間が定期的にやってくる(まぁ、いわゆるUTU期というやつである)のだが、そのころちょうどその病気が発症していたのだった。そのせいで、わたしが彼に手紙を出せたのはようやく半年後のことであった。ひと月ちかくも経ってから、宛先不明のスタンプが押された手紙がわたしの手元に戻ってきた。なんらかの事情から引っ越してしまったのだろう。考えてみたら、このようなかたちでわたしはさまざまな人びととの交流を絶ってしまってきた。前述のHともEとも連絡がとれない。彼らはわたしに定期的に手紙や葉書を送りつづけてくれていたにもかかわらず、である(このことを思い出すたびに自己嫌悪に襲われる)。ともかく、わたしもあれから何度も引越しを繰り返したわけで、これでイシュメールとの交流の望みはほぼ絶たれてしまったといっていい。

もちろん可能性はなくはない。いつかまたニューヨークに行ったとき(その予定はないが)、まったく同じこと――同じドライバーに同じ客――が繰り返されないともかぎらない。または、ソニーホンダの大幹部となったわたしがアメリカの部下たちに指示を下すためニューヨーク出張したとき、わたしを待って空港に横付けされた高級リムジーンの運転手が出世した――タクシードライバーからリムジンドライバーへ――彼だった、なんてこともあるかもしれない。はたまた、彼のほうがからくりボビーなみの人気者になって、夕食をつつきながらテレビを見ていたわたしとお茶の間で驚きの再会とか、一念発起して勉学にいそしんだ彼が大哲学者となり、その作品をわたしが翻訳することになる、等々。しかしこれはもはや妄想の世界である。

 *-*

シュメールの話には、(多くの話がそうであるのかは知らないが)さらなる後日談がある。しかしこれはもはやイシュメール本人とは直接には関係がない。

学生時代に親しくなった友人に、Fという人物がいた。過去形で書かなければならないのは、彼が数年後に自ら命を絶ってしまったからである。彼についても書かなければならないことがたくさんあるが、またの機会にゆずろう。

大学4年生のころ、Fとわたしは毎日のように朝まで飲み明かしていた。話題はおもに文学であった。彼は該博な知識と鋭い批評精神に恵まれた優秀な学徒であっただけでなく、しばしば思いもよらないような不可思議な発想や行動を起こすことで有名だった。わたしはそうした彼の意外性につねに惹かれていた。ちなみに、わたしが初めて道端にゲロを吐いたのもFとの痛飲の際であった。さらにちなみに、それ以降わたしは一度も外でゲロを吐いたことはない。吐くのはもっぱら自宅においてである。どうでもいいことだが。

Fと飲んでいたときに――彼は必ずフォア・ローゼズのダブルロックで飲んだ――、わたしのアメリカ滞在の話題になった。わたしは、イシュメールとの交流について語った。話がちょうどイシュメールの主張――「アメリカ黒人はつらい」――にさしかかったとき、Fが突然に叫んだ。

インチキくせえ!

わたしは軽いショックを受けた。このショックは――イシュメールからコリアンへの痛罵を聞いたときのショックと同様に――悲しみでもなければ怒りでもなく、後ろから「コン」と突つかれたような無色透明のショックであった。

念のために付け加えると、Fは(わたしの話についてではなく)イシュメールの語りについて「インチキくせえ!」という判定を下したのである。イシュメール自身がどれだけ自覚的であるかわからないし、彼がそれに自覚的であるかどうかが問題なのかどうかもわからないが、彼の「自分語り」は、たしかにかなりステレオタイプなものであった。わたしもあの時あの場でそうしたことに気づかないわけではなかった。しかし、Fと飲んでいたころ――イシュメールとのことがあってから長い時間が経ったころ――には、それはわたしにとって都合のよい、単なる「初めての海外旅行における甘美な(だけの)思い出」となっていたことは事実だ。その思い出を、つまりわたしの都合のよいように固定されたイメージを、Fの言葉は揺り動かしたのである。

Fの言葉はわたしにはよく理解できる。梁石日原作、崔洋一監督映画化された『月はどっちに出ている』(1993)のタクシードライバー姜忠男(岸谷五郎/くしくも三たびタクシードライバーである)がファミレスの席でコニー(ルビー・モレノ)を相手に熱弁をふるう。在日である自分がいかに苦労しているか、自分の父母祖父祖母が日本のせいでいかに苦労してきたかを「得々と」語るのである。しかもそれが自動的にコニーにたいする「口説き文句」になっている。このシチュエーションインチキくささを崔監督は十全に描き出している。

ともかく、Fの言葉によって、たちまちのうちに、あの時あの場での、甘美なだけではない、正確には、困惑させると同時に甘美でもあった複雑な交流、アンヴィバレンスを解消しようもない複雑な交流の記憶がよみがえってきた。それ以来、わたしにとってはFの言葉なしにイシュメールの記憶は完結しない。それ以来、問いはわたしの前に投げ出されたままだ。

そんなのはすべてくだらない、ささいなことだ。そう人は思うことだろう。むしろそう思わないほうがおかしい。わたしにとってさえそうなのだから。しかし、あの記憶はいまだにわたしの頭の片隅にしっかりととどまっている。なにかのきっかけによって、ときどきふいに脳裏をよぎり、あの時あの場での困惑と甘美が入り混じった不思議な感覚がよみがえってくる。

それでもなお、いまでもイシュメールへの感謝と親愛の情はやむことがない。いまでも再会できなかったことを、そしてわたしがあの時あの場で言えなかったことをイシュメールとふたりで語り合えなかったことを、悔やみつづけている。でも次はないのだ。いつだって。

 *-*

今日の話には笑いもないしオチもない(ふだんはあるのかと詰問されても困るが)。それに教訓もなければ有益な情報もない(それは毎度のことだ)。それにしても、ブログ記事にしてはずいぶんと長文になってしまった。最後までつきあってくれた人には感謝(と謝罪)のしようもない。

 *-*

ああ、イシュメールよ。ああ、人間とは。


◇哲劇メモ > [人さまざま]
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