2012-04-15
■[道具]iの世界における魂の不滅について。
iPadをゲットして2年ばかり経つのだけれど、16Gの体に自炊したPDFなんかを山ほど詰め込んでいたら、近頃さすがに各種動作がとろくなって安定性も微妙な感じになってきた。父が以前からiPadには多大なる興味を示していて、新しいの買うなら古いのを貰うよと言っていたので、新しいiPadが発売されたのを機に、二号機を買うことにした。
ところで、私の職場には職場旅行という昭和時代の遺風が残っていて、4月に旧年度のメンバーうちそろって某温泉地に繰り出し、夜更けまで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをやるのである。
と書くうちに慧眼のみなさまはお判りかと思うのだが、旅行のハイライトはビンゴ大会であって、景品のiPadを当てた人が気前良く譲って下さったので(感涙)、今、私の手元には新しいiPadが鎮座している。
*
新しいiPadを手に入れたら、新しい方にこれまでのデータを移行しなければならない。初代の時は私のパソコンが古すぎて母艦にならず、あわててパソコンまで買い直した経緯があっただけにおっかなびっくりだったが、何と画面にあらわれる選択肢を選択していくだけで、母艦に繋ぐ必要さえなくデータ移行30分込みで1時間もかからずに作業は終わってしまった。驚異のITシロートフレンドリーぶり。新しい方の風呂の蓋を開ければ、元のと同じ壁紙、元のままのカレンダーやブックマーク、元のままのアプリが当然顔で並んでいる。確かに画面が細密になってネット利用時の速度が戻ってきたけど、機能の向上を除けば、新旧の違いは意識する必要もない。けれど、これって私にとっては世界の原理が転覆したくらいに恐ろしいことではないか、と突然気がついた。
*
私はずっと魂という概念は肉体と不可分のものだと考えていて、むしろ概念でさえなくて、諸々の感覚やら機能やらの関係性の成り立つ場の別名くらいに理解していた(確か、アリストテレスが「魂について」でそんな見解も紹介していた筈)。そのような考え方に立つと、人間はいつか必ず死ぬ以上、魂が不滅ということはあり得ない理屈になる。ただし、このように考えると、そのような個別の肉体に根ざした魂、さらに意識などに敷衍してもいいと思うけれども、というバラバラのもの同士でどうやってお互いにコミュニケーションを取れたり、普遍的な認識に達したりできるのだろうか、という疑問が生じる訳で、そこんところは正直よく判らないのだが、例えばピナ・バウシュの作品において、個々の肉体に根ざした自閉的な動きがふと、偶然のように他者とコミュニケートできているように見える瞬間を持つことあたりを補助線にすれば、そのうち何か見えてくることもあるのではなかろうかと、やや楽観的に考えている。
換言すれば私は帰納的で経験主義的で個別から普遍に向かう思考回路を持っている訳であり、iCloudのデータがまずあってそれを個別の機器に落としてくるクラウドを用いた移行作業というのは、普遍が先にあるという点で私にとっては異質な世界認識なのだ。だから、何だかエイリアンの知的世界を覗き見るような面白さがあったことは認める。しかし。
*
魂が肉体と不可分で滅ぶべきものだとする認識の帰結は、ものが捨てられず異様に物持ちが良くなることで(物を機能ではなく関係性の束として見ればそういうことにもなる。魂を人間の物理的・生物的側面と結びつければ、人間以外が魂を持ってはいかんという理屈も成り立ちにくいし)、初代のiPadもかなり機能低下していたにもかかわらず、さよならのつらさを思うにつけ、「ビンゴで外れたら買おう」と買い替えを先送りにしていた訳だったのに、全く面倒なこともなく移行作業が終了した後は、そりゃ確かに心情的には寂しさがあるけれども、使う時には新旧の違和感というのは実感的に全く存在しない。使い勝手において新旧の体の相違が存在しないのなら(使い勝手の向上はOSのバージョンアップでも起こりうることだから)、個々の機器、個別の体って何なのだろう。おそらく、あの移行作業は、「肉体は滅びるが魂は不滅」という言説が私の目の前で実体化した瞬間、だった。それは単に演繹的な思考回路を体感しました、というのとは違う。だって現に便利なんだもの。便利の体験は時に暴力的なまでに圧倒的だ。それは思考実験にとどまらず、現実を、現実の享受の仕方を変えてしまう。肉体(あるいはある道具)という制約の多い物理的存在から生まれる個別的な経験は、遠からず(今でもSNSのある部分ではすでにそうなっているような気もするが)、いつでもどこでも誰にも共有されるかたちに変換されない限り、個人にとってさえ従的なものにとどまるか、あるいはそもそも「存在しない」ものとされるのではないか。そのような世界において、人々の魂というのは、一体どのようなかたちをするものだろうか。
*
だから、ひょっとすると、電子書籍のことももう少し突っ込んで考える必要があるのかもしれない。私は便利かつ普遍的な(つまり、アプリとか機器とかに依存しない)電子書籍の大量出現を待ち望み、それまでは積極的に自炊に励む人間であるけれど、それは何故かと言えば、電子書籍ならば、蔵書として持っていたくはないけれども仕事の都合上その他の理由によりやむを得ず読んでおかなければならない情報を目に見えない場所に追いやることができるからなのだった。蔵書は物理的なモノである以上、そこにあれば必然的に魂の交わりが生じてしまう。しかし私としても魂の交わりをする相手を選びたい気持ちはある訳である。特に自宅においては。電子書籍が普及すれば(かつ物理的な本として情報を持つというオプションが引き続き確保されるならば)、私は私の関心の関係性に従って配架された本棚の前で心静かに自分自身の問題関心と先人たちのそれの蓄積との対話を楽しむことができるであろう。人文学の黄金時代再び。
――だが多分、私の昨日の体験から(やや飛躍的に)考えるならば、そのような理想郷は来ない。その世界では、人文科学はそれなりの活況を見せるのだろう。けれどもその世界に人文的知の存在する余地は多分あまりない。だから、出版界が電子書籍を警戒するのは一面では正しいかもしれない。ただし、紙の本に依存した収益モデルを破壊するとかいう既得権益墨守のレベルで済まさなければ、だ。でもさ、だからといって、何と言って反対できるだろう? 人文的知は守られるべきイデオロギー、スローガンとして絶叫されることは似合わない。というか、イデオロギーや錦の御旗になった人文的知はもはや人文的知ではない。そしてまた、人文科学の知見はそれとして有用だし、興味深いものに違いなく、現代の我々の世界に(人文的知にはなし得ない)なにがしかの貢献をすることもまた確かなのだ。
2011-12-15
■[歩く]2011冬大阪京都ドタバタ行(1)
01:タイトルの由来あるいは御堂筋公衆無線LAN捜索ミッション。
ここ最近でドタバタでない旅行があったら言ってみろ、と自分の首を絞め上げて問いつめたい気もしますが、今回はいつもに輪をかけてドタバタでした。そもそも東京脱出をはかったのは、わしわしと飛んで来る雑事を離れ、旅先で静かに修論の構想について沈思黙考したいという趣旨だったのに、大学院のゼミの課題が前夜のうちに終わらず、当日三時間出発を遅らせたもののまだ片付かず、極度のストレスに下り気味の腹と未完の課題を抱えて新幹線に飛び乗ることに。車掌さんが「みなさまご覧ください。右手に富士山が見えます」みなさま「おおー」などの微笑ましいやり取りのころには、何か必死にメモを書き殴り、その後は力尽きて爆睡して、新大阪についた時にもノートは依然として白いまま。最寄のカフェで無線LANつないでとっととおさらばしようと思ったのに。
ということで、「何で大阪駅と梅田駅が向かい合わせに立ってるの」といった大阪初心者的感慨に浸る間もなく、無線LANにつながるカフェを求めて御堂筋をひたすら前進。中之島に渡り、ああこれが噂の大阪市庁舎かなどと思う間もなく対岸にたどり着き、タリーズはいねがースタバはいねがーとそれらしき看板を探す日々。結局タリーズを見つけて這入りこみ、三時間ばかり居座る羽目に。一体何のために大阪にきたのか判らん、と神か悪魔を呪いつつ、就職面接待ちの女子大生に囲まれて何とか課題をやっつける。「筆記試験で日本の政党の名前を3つ書けと言われたけど、二つしか判らんかったー」「うん。自民党と民主党」「あと野党って書いた」「あ、野党野党」――だそうですよ。彼女らが面接会場に向かってほどなく私も任務完了。メモをゼミのメーリングリストに送りつけて、あとは野となれ山となれ。この時点ですでに午後三時。うかうかしていると美術館が閉まってしまう。走れはぐるま。
02:中之島文化のかほり的再開発地帯。
大阪には数年前、兵庫県へ日帰りした帰途に立ち寄って、当時大阪在住だった弟にお好み焼か何かおごってもらったことがある程度の縁。しかし、前大阪府知事vs前大阪市長による選挙対決も記憶に新しいところであり、選挙報道を見る限りえらく衰退荒廃しているとの話だが、実際はどうなのか自分で確認してみようと思い立つ。弟には、中之島あたりは再開発中の東京と一緒、ディープな大阪がその辺にごろごろしている訳ではない、と釘を刺されたものの、キタとかミナミとか聞いても地図が浮かばないというのも貧しい人生だと思ったりもして。食べ物情報しか載っていない使えないガイドブックで何とか地図を覚え、大阪城はじめ観光名所を踏破する計画を立てていたのに、現実には次第に夕方じみて来る曇り空の下を芸もなく、駅に向かって引き返すばかり。大通りの角のビルの地下に私鉄の駅が入っているのを見てたまげ、大きなビルが軒並み「住友ビル」であることにそこはかとない異国情緒を感じ、とは言うものの川縁を走る高速道路は首都高の眺めと変わらんとも思う。そして言われた通り再開発中の中之島では、建物があっちこっちに顔をばらばらに向けて立っているようで、どうにも落ち着かない。そして地上げ屋の横暴に抗しているのか、現代建築ーな国立国際美術館の前にはこんなぼろい(失礼)薬屋が頑張っていた。続く。
2011-11-26
2011-11-04
■[歩く]ヴェーセン名古屋公演あるいは愛知県日帰り紀行(2)
ヴェーセン@カフェ・カレドニア(愛知県春日井市)
承前。スウェーデンのトラッド・バンド、ヴェーセンを追っかけて愛知県にやって来たところ。寄り道も済んだので、一路、公演会場のある春日井市に向かう。
会場のホームページには「駅から車で5分」という徒歩移動者にはいささかの不安を誘う情報しか載っておらず、しかし地図を見れば曲がるところさえ間違えなければ大通りを直進すればよい感じだったので心を強くして行ったものの、最寄駅の高蔵寺駅前のバスターミナルが巨大すぎてさっそく方向を失う。誰かに聞こうにも、人の子ひとり見当たらない。午前中に行った田原市でも町中でほとんど誰にも行き会わなかったのだけれど、世の中はそれほどまでにシャッター商店街化しているのだろうか。ともあれ目当ての国道に出て歩き始めて気づいたことは、制限速度50kmと書いてあるということで、仮に時速50kmで5分走るとしたら、それなりの距離になる筈なのである。自分が無意識のうちに東京の路地裏速度(時速30kmと言いつつ自転車を追い越せればいい方)で計算していたことに気づいて内心青ざめる。しかし30分ばかり歩いたところで無事会場に着き、しかも私は何を勘違いしていたのか、開場時間を1時間早く思い込んでいたので、到着第一号になってしまったのだった。ヴェーセンの三人すらまだ来ていない。仕方ないので周囲をぶらぶら散策する。何の変哲もない住宅地だが、やたらと喫茶店率が高いような気がする。戻って来ると丁度ヴェーセン一行が到着したところで、会場も開いていた。
40席限定と言う話だが果たして40人入れるかというほど小さな会場。今回は開店20周年記念のコンサートなのだそう。最前列の丸椅子をゲットし、美味しいケーキを食べつつ、チューニングするメンバーを眺めつつ、開演を待つ。メンバーは換気扇の音が気になるらしく、紐を引っ張って切ってしまったが、空調も入っていたので残念ながら小さな唸りは完全には消えなかった。
よって、完全な沈黙の中からという訳にはいかなかったけれど、オープニングはこの曲でしっとりと始まる。ミッケのヴィオラが主旋律を離れてふっと上昇する瞬間や、ローゲルのギターの一つ一つの音がくっきりと立ち上がって聞こえ、三人の演奏者の音が対等に絡み合うのがはっきりと見えて、あっという間に演奏に引き込まれた。それらの音が生まれる場所からほんの1メートルばかりのところで全身浸っていられるこの至福。
彼らの演奏は勿論CDで聴いても滅法かっこいいのだが、しかし音痴の私の耳には、どうしてもウーロフの弾くニッケルハルパの主旋律がメインに聞こえて、ミッケとローゲルが伴奏というか、間の手を入れている印象になってしまう。けれども、ライブで、至近距離で、彼らがリズムを取るために足を踏み鳴らしたり、バチバチと(というかニヤリと)アイコンタクト取ったり、同じ弓使いだったり別々の所作だったりするそれぞれの動作に従ってそれぞれの場所で音が生じるさまを見ると、どれが主旋律だといった聞き方は全く無意味になることが判る。いつもライブで思い知らされて、記録された音を聴きながらその印象をなぞっているうちに身体感覚が薄れてしまい、いつしかかっこいいの意味を取り違えてしまって――この旋律がかっこいい、とか、疾走感がたまらない、とかいう風に――、またライブで思い知らされる。私がヴェーセンの音楽を好きなのは、曲としてのかっこよさもさることながら、ライブにおける互いの応答の鋭さ、的確さなのだ、と。しかもそれは定められた答えをなぞるようなものではなくて、確かに一定の型、いやむしろゲームのルールはあるのだけれど、その中で、今この瞬間にどの解が一番かっこよくて面白いかをその都度選び取っていくようなものなのだ。
そして、そのような音楽を聴くためには――あるいは、そのように音楽を聴くためには――、聴衆もただ享受者として受け身でいる訳にはいかず、演奏者達が最もクールな解を提示できるように、反応によって彼らの(つまらなさへの)逃げ道を塞いでいかなければならない。そういう意味では聴衆もまたプレイヤーなのであって、この日の公演は、とても親密な、よく聴く聴衆に恵まれた素晴らしい時間だったと思う。最初、聴衆は聴くことにややせっかちだった(拍手のタイミングが少し早かった)が、公演が進むにつれて必ず一息分、空白の時間が生まれるようになっていった。多分、没入から賞賛へ、皆が意識を切り替える時間を必要としたからだと思う。カフェの開店二十周年(今年結成二十二周年とかのヴェーセンは、俺たちより若いねとか言って笑っていたが)の記念にふさわしい祝祭的なコンサートだった。ありがとう。
(ウーロフのニッケルハルパ二種。右の方が古くて、捩れかかった音が何とも美しい)
2011年11月3日の旅程
2011-11-03
■[歩く]ヴェーセン名古屋公演あるいは愛知県日帰り紀行(1)
我がワナオブ最愛のバンド、ヴェーセンが二年以上ぶりに来日したので、雨が降ろうが槍が降ろうがの追っかけモードに突入した。愛知県は春日井市のカフェで40席限定の公演があるというので、腹痛週間も何のその、運動不足の足腰でよろよろしながら出掛けていったのである。
渡辺華山の威光に打たれる@愛知県田原市
名古屋近辺に行くのは今回が三度目なのだが、これまでの二回は目的地ピンポイントの訪問で、下手すると新幹線と地下鉄で用を済ませてしまって地上に出ていない位だった。これではいかんと反省して、今回は近辺の面白そうな博物館展示でも見ようと思い立つ。で、見つけたのがこれ。渡辺華山は私の地元の絵を描いていて「市の歴史」みたいな冊子にその作品が載っていたので、この機会に見てみようかと。
豊橋駅で新幹線を降りたら、空気の匂いが違った。湿った、肥えた土の匂いと古い木や書物の乾いて少し黴臭いようなのが混じった匂い。田畑が近いんだなと思う。確か四両編成の豊橋鉄道渥美線に三十分ほどのんびり揺られて三河田原駅へ。
オブジェめいたものどもとともにはかりを展示するはかり屋さんとか(写真中)、突然いわくあり気に姿を現す古風な時計台とか(写真右)。ここが博物館への入口で、坂を上るといい雰囲気の城跡が。
田原市博物館は城の中にあった。
中に入るとロビーのところに映像コーナーがあって、何だか渡辺華山の生涯をえんえんと物語っている。適当に聞き流して、順路に従って常設展示室に入ると、そこも渡辺華山一色だった。いつ、どこで生まれたかから始まって、少年時代、学問で身を立てようと思ったきっかけとなったエピソード、飢饉対応を成功させたこと、学者としての側面、画家としての側面、蘭学との関わり、処罰から自害まで(遺言状ぐらいはあっても驚かないが、自害した時に使った脇差まで展示してあって鼻白む)、子々孫々が見習うべき郷土の大偉人といった風である。それはそれで結構だけれども、「田原市のあけぼの」から始まるような展示は無いのかと奥へ行くとそこはもう特別展で、名所図会の類やスケッチの類や江戸時代の銅版画や油絵みたいのがうす暗い室内のガラスの奥に並んでいるばかり。以上。いやその。
仕方が無いので地元で出している渡辺華山の伝記冊子を購入し、ついでに博物館の展示内容を記したパンフレットをもらう。それによると、別の場所に考古資料の展示室みたいなものもあるようだが、博物館のメインが渡辺華山であることは揺るぎないらしい。なにしろパンフレットのキャッチが「一つひとつの作品が、華山*1のこころを語りかける。」「渡辺華山、その光と影がここにある。」だったりするのだ。その、歴女たちに何か妄想でもさせたいのだろうか。ちなみに伝記冊子の年表によると、渡辺華山先生は宝塚のミュージカルにも登場しているらしい*2。
さて、博物館では判らなかったまちの地形を確認してみようと周囲を回ると、博物館のすぐ隣に、
「華山神社」「祭神 華山渡辺登命」
……華山先生は神サマだったのか。そうだとすれば、あの博物館が聖人伝と聖遺物に満ち満ちていたところで、何ら奇異な点は無い。
続く(前菜が思いのほかディープだったので、メインディッシュのヴェーセン公演にたどり着く前に力尽きた)。
2011-10-19
■[創作&研究]ネビル・シュート「渚にて」を中心とした問題系
ここしばらく、ネビル・シュートの「渚にて」を中心に据えて、論考めいた短文を書いていた。そこで扱った問題系への補助線となる文献を備忘としてあげておく。
ネビル・シュート「渚にて」とその関連
- 作者: ネビル・シュート,井上勇
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1965/09
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日本語訳は数種類出ているようだが、使用したのは井上勇氏による創元SF文庫の旧訳版。よくも悪くも「いかにも昔の翻訳調」な訥々とした訳文が作品世界とマッチして味わいがある。
- 作者: ネヴィル・シュート,佐藤龍雄
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2009/04/28
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新訳版はこちら。書店でぱらぱら見ただけだが、旧訳より訳文がとんがった印象を受けた。創元SF文庫版は新旧ともに原作にない「人類最後の日」という副題があったり、小松左京による核の恐怖に引き寄せる帯がついていたりして、特定の枠組みを示してくるのが玉に傷。
On the Beach (Vintage Classics)
- 作者: Nevil Shute
- 出版社/メーカー: Vintage Classics
- 発売日: 2009/10/19
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英語版。ちなみに電子書籍としても出ている。電子書籍だとある単語がどこに何回使われたかすぐにわかるので重宝した。
- 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
- 発売日: 2011/06/22
- メディア: DVD
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映画にもなっている(未見)。
- 作者: 丹生谷貴志
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2011/09/21
- メディア: 単行本
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「渚にて」について論じた文章はweb上にも幾つか(たくさん)あるのだけれど、「人類ラストの一年なのに、人々は淡々とおだやかに暮らす」→「美しい」or「実際に直面するとそうなってしまうのかもしれないなあ」or「かえって戦争(核)の恐ろしさを感じた」という構成の感想が大半。吉田健一を論じる枕として「渚にて」への言及がある丹生谷貴志「スカー・フェイスの眼光ー吉田健一に於ける詩と批評と非物質的なるもの」でも、「淡々と美しい」部分に着目している。
歴史と物語と継承について(1)
ヘロドトスとトゥキュディデス―歴史学の始まり (historia)
- 作者: 桜井万里子
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2006/06
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「トゥキュディデスは先輩ヘロドトスを批判してたのでは?」という問いから「いや、必ずしもそうとは言えない。むしろトゥキュディデスは先輩にオマージュを捧げていたのだ」という表向きのストーリーラインはやや取って付けたようながら、ランケに始まる近代の実証主義歴史学を墨守しているだけではいけない現代の歴史学の問題意識において、ヘロドトスの叙述が見直されつつあること、トゥキュディデスの厳密な分析が厳密であるがゆえに語り落としている社会の一面があり得るという指摘は鋭い。
(祝!文庫化)
著作からうかがえるアリストテレスの頭脳の冴えと不機嫌な教師ぶりはそれだけでも興味ぶかいが、ここではアリストテレスの「詩学」とホラティウスの「詩論」という主張も体裁も異なる二つの論文が一冊にカップリングされている点に注目したい。ルネサンス期には、ラテン語のホラティウスの方が取り付きやすかったため、アリストテレスをホラティウス的に解釈するという一大誤解が行われていたという。
- 作者: 佐藤彰一
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2004/03
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トゥールのグレゴリウスの「歴史十書」を題材とする。数年前に買ったきり積読のままだが、こちらの方にも補助線を延ばせないかしら、と思う。
歴史と物語と継承について(2)
- 作者: マルグリットユルスナール,岩崎力
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2011/05/25
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残された記録・痕跡から、過去の一族の歴史に関して、厳密にどのような記述を導き出すか。特にオクターヴ・ピルメの著作から彼と弟レモとの交流を読み解く「万古不易の領域をめざす二人の旅人」の章の精緻・肉薄と、その他の章のやや大味な筆づかいとの差に注目。
- 作者: イスマイルカダレ,Ismail Kadare,井浦伊知郎
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 2009/10
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カダレの小説は不思議で、アルバニアの公式見解万歳とも読める解釈の枠組みをあからさまに示しておきながら、何かもっと不穏なものをあらわにしている。それが何か、まだ掴めずにいるのだが。本作は戦時中の遺骨収集のためアルバニアを訪れたイタリアとおぼしき某国の将軍が体験する悪夢のような道行き。
歴史と記憶
- 作者: 関沢まゆみ
- 出版社/メーカー: 昭和堂
- 発売日: 2010/07
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戦争について何がどのように語られてきたか(あるいは語られなかったか)について。国立歴史民俗博物館における国際研究集会の記録。イスラエルの事例が豊富なのが興味ぶかい。「渚にて」との関連では、第二次大戦後の英国に広がっていたクリーン・ウォーのイメージの紹介など。
- 作者: ソールフリードランダー,Saul Friedlander,上村忠男,岩崎稔,小沢弘明
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1994/04
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ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグの討論が一つの焦点となっている。カルロ・ギンズブルグ「ジャスト・ワン・ウィットネス」所収。「一人だけの証人は法廷において証人とはみとめない」法的伝統への言及。
- 作者: ポールリクール,久米博
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2004/08/20
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補助線を延ばして、これを何とか撃破したいのだが……
ツェランの投壜通信
- 作者: インゲボルク・バッハマン,パウル・ツェラン,中村朝子
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2011/03/24
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バッハマンとツェランの往復書簡の中には、両者が近しい関係にあるにもかかわらず、明らかにみとめられる断絶が存在する。持続を前提とした社会に生きる者と周囲が全て敵である経験をした者との立ち位置の差? 見える世界が違うならば、善意は役に立たない。
- 作者: 関口裕昭
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2007/10
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ツェランの生涯を紹介した日本語の著作としてはもっとも詳細なもの。ただし、「彼女は…読み終わると、ふん、と鼻でせせら笑い、その新聞を乱暴に投げ出した」(p210)式の根拠のはっきりしない、見て来たような安易な物語化をしている点については評価できるものではない。
人類を遠くから見る視座
「私たち」との距離を叙述の中でどのように取るかの問題。「私たち」の違いさえ見分けられないほど遠方からの視座においては、「想像の共同体」ではない、単数形としての人類がプレイヤーとなるのか。
- 作者: 光瀬龍
- 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
- 発売日: 1998/08
- メディア: 文庫
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他にもいろいろあると思うが、読んだものの中から。謎のメッセージを受けて、あまりにも無力な人類が圧倒的に不利な負け戦を戦う話。人類の孤立無援断崖絶壁ぶりは、かえって腹がすわって元気になるほど(「渚にて」と異なり、まだ戦っている最中だからかもしれない)。
核廃棄物の貯蔵施設について、次の氷河期後の人類にどのように警告するかの検討。数カ国語のロゼッタ・ストーンか、ムンクの「叫び」か針山のオブジェか。意思疎通の限界をはかる思考として。
- 作者: アラン・ワイズマン,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/07/05
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文字通り、人類を消しゴムで消すように地球から消失させたらどうなるのか/どうなっていたのかを考えるシミュレーション。人類が滅びた後、だけでなく人類がもとからいなかった場合も検討の対象。深宇宙を旅している筈のパイオニアとボイジャーのメッセージに関する説明も。













