2人乗りヨット、A級ディンギーのレースに参加

 この土日の9月4、5日に、A級ディンギーというクラシックな2人乗りヨットの東日本大会が三浦半島のサニーサイド・マリーナであり、私は所属するチームの一員としてレースに参加しました。
 このA級ディンギーという、細長い板を重ね張りして造る旧式のボートにマストを立て竹竿でセールを張り出すタイプの艇種はかつて大学のヨット部で採用されていて、私がヨット部現役のときこれに乗っていましたが、卒業するころに廃止となり別の新しい艇種が採用されました。しかし、このいかにもクラシックなA級ディンギーには熱烈な愛好家が多く、その後復活して20年前に第1回の全国大会が開かれ、今年は6月に第20回大会が博多で開かれました。
 実は、私、A級ディンギーが復活していたことを何十年も知らずにいたのですが、昨年の全国大会が横浜のみなとみらいで開催されたとき、臨海パークをココと散歩していて偶然70艇以上のA級ディンギーが海岸に並べられているのを見て、先ず、驚きましたが、いったい何が起こったのか自分の眼を疑う想いでした。そして、「これはなんですか」、と声をかけたのがたまたま今のチームが属する団体の会長夫人で、すぐに会長さんから直接説明をいただくと同時に私も仲間に入れていただけることを知りました。たいていのチームは全国各地の大学ヨット部OBメンバーで設立されたもので、もし、隣のチームに声をかけていたら私がヨットを再開できることにはならなかったのです。何というありがたい偶然でしょう。私は滅多に臨海パークまで足を伸ばして散歩に行かないことも運命的なものを感じさせました。
 うちの会長、今年米寿を迎えられたのですが、元気に現役としてヨットレースに出場されています。20年前の第1回全国大会から参加されていますが、夫人も年をとられてからヨットを始められ、最近は大会でも会長のクルーとして毎回出場されています。2人乗りヨットで舵を持つのがスキッパー、アシスタント役がクルーです。会長夫妻が浜辺から近い自宅の庭に所有艇を置くとともに団体のヨット置き場に提供され、会長宅が活動の中心基地になっています。会長自身が大学ヨット部のA級ディンギー経験者で木製のA級ディンギー2艇の所有者ですが、その他のA級ディンギーチームメンバーは会長の艇と施設に全面的にお世話になっている状態です。チームのメンバーには私より5歳年上で東京の大学ヨット部でA級ディンギーに乗っていた先輩、H氏がいます。H氏は昨年の全国大会前にメンバーとなりましたが、大西洋にあるスペインの漁業基地ラス・パルマスに駐在経験があり、大のスペイン通でスペイン料理にも詳しく、私が参加したことでチームではいっそうスペインムードが勢力を増し、先日の会長宅でのスペイン風フルコース料理となったわけです。

 東日本大会はまだ歴史が浅く今回が第3回目で、いつもサニーサイド・マリーナで開催されますが、わがチームは今回が初参加。大会1週間前にわが艇を大会会場までトラック輸送した後、一部の大会参加者で練習試合となり、12艇参加して5レースあり、H氏と私はスキッパーとクルーを交代でやり初めての海域でしたがすべてトップ争いに絡む予想外の素晴らしい結果となりました。
 さて、本番ですが、 私自身の戦績は先週の華々しかった練習試合と違い、21艇(木艇14艇)出場で2度スキッパーをして第2レース11位(木艇9位)と第6レース7位(木艇3位)という不満足な結果でした。しかし、チームとしては団体の歴史に残るような快挙で、総合、木艇ともに準優勝でした。特に、木艇では優勝チームと1点差、何ということか、私がチームの足を引っ張り優勝を逃したのでした。方式は艇別のチーム戦で、高性能なFRP艇と従来型の木艇が同時スタートするも総合順位と木艇だけの順位両方つけ両順位とも表彰があるというもの。 H氏が最終第8レースでFRP艇を抑え念願のトップになるなど練習試合のペースを守り好成績。もう一人の若い仲間、彼は日露戦争日本海海戦で当時世界最強といわれたバルチック艦隊を破った総司令官のひ孫でナイスガイ、しかし、A級は経験浅く、クルー、スキッパーともまだまだ教えていかなければと思っていたところ、やはり血筋か、いきなり名将の再来を思わせるような判断と落ち着きで、今回は2度スキッパーをしてどちらも総合3位、木艇1位という大躍進を見せてくれました。
 言い訳をいわせてください。弁解がましいのはダメなんですが。第2レース、最初の(風)上マークを2位回航目前、「またトップ争いに絡んだ」、と思った瞬間、1位艇が回航するタイミングで突然風が凪ぎわが艇はそのままでは上マークを通過できず一旦タックして方向転換。しかし、殆ど無風状態で風見の赤糸が垂れ下がり艇は停止状態。気がつくと、後から来ていた3艇が猛烈にラダリング(舵で漕ぐこと)して上マークを回航するところ。これを見て私もラダリング気味でなんとかそれらに続き5位で回航、そして次のフリーマークまでに内側に入り込み2位位置での回航に挽回するも、下マーク手前で、微風追手だった風が急変し順風のアビーム(横風)に、あっという間に(風)上側にいた3艇がスピードを得て下マークとわが艇の間に入り込み、上側3艇のブランケット(裏風を受ける位置)に入りながら下マークを5位回航。早朝の風向変化の予報からそのままの左舷開き(ポート・タック)で突っ込みたい気持ちを抑えきれず裏風を受けながらもポート・タックを継続し減速して結果11位に後退。このときブランケットを回避するためとりあえずタックして右舷開き(スターボード・タック)でしばらく走るべきだったとあとで反省。完全な判断ミスでした。このように上マーク回航直前と下マーク回航前に二度も続けて風がマイナスに急変、つきをなくしたショックが最後まで尾を引いた結果になりました。心理的な弱さですね。
 土曜日、大会初日の夜のレセプションはマリーナすぐ横の相模湾に面した眺めがいい高台にある企業の保養施設のガーデンを借りてのバーべキュウ・パーティで、焼きたての鰹のたたきやサザエの壺焼き、焼きじゃがいも、浜上げしらすの中華がゆなど美味しい料理と生ビールで楽しいものでした。パーティ出席者の婦人による素人離れした素晴らしい歌声に続き、横浜のメキシコ料理店のオーナーがsombrero(ソンブレロ、メキシコ風円盤帽子)とポンチョ姿で舞台に登場、ギターとラテンの歌声が流れる雰囲気の中、愉快だったのは大学ヨット部OBチームの人たちの会話で、年は取っても年齢差は変わらず、現役時代運動部の上下関係が執拗に続いている特殊な関係でした。このようなプライベートなA級狂いの高齢者中心の集まりに地元横須賀市の若い34歳の市長がきて挨拶するのには驚きましたが。