ふるへっへんど(7)

Erpsig

訳:「ジャガイモのような」

Erpsigは、SCAAフレイバーホイールで、香味上の欠点(Faults/Taint)のホイールに現れる、「謎の単語」です。

というのは、この言葉は英語の辞書を探しても出てきません。SCAAのTed Lingleが言うには「ドイツのカッピング用語から取り入れたものだ」ということですが、実はドイツ語にもこんな単語は存在しません。ドイツ語でも、正しくは"erbsig"と綴られ*1、これは「豆」を意味する"Erbse"に、「〜のような」を意味する接尾辞の"-ig"が付いた言葉です。ドイツ語で発音する際には、"s"の前の"b"が"p"に聞こえますので、それを聞いたアメリカ人が"Erpsig"という綴りにして取り入れたのだと考えられます。


ですので、"erbsig"をドイツ語で訳すると「豆のような」になるのですが、これが「ジャガイモのような Potato-like」とされるのには、ちょっとした事情があります。この匂いは、ルワンダブルンジなど中央アフリカ産のコーヒーに時折見られる、俗に「ポテト」と呼ばれているオフ・フレイバー(異臭)を表す語として用いられる表現です。


"erbsig"が最初に文献上の記録に現れるのは1950年代のことです。当時、この地域(ルアンダ=ウルンディ)はベルギーの委任統治領として、ドイツ植民地時代に伝えられたコーヒー栽培が行われていましたが、ここで生産されたコーヒーで、ジャガイモや豆類を思わせるような土臭さ、野菜臭さが顕著なものが報告されました。この異臭は、ベルギーの言葉*2で「ジャガイモ」「イモ」を表す"Potate"、フランス語で「ジャガイモの臭い」を意味する"gôut de pomme de terre"*3、ドイツ語と英語では「豆のような」を意味する"erbsig"と"peasy"という言葉で、それぞれ表現されてきました。


さて、この"Erbsig"、あるいは「ポテト」は、いわゆる「欠点豆 defected bean」の一種に由来するものだと考えられています。つまり、同じロットの生豆すべてがこのオフフレイバーを持つ、という性質のものではなく、一つのロットの中にこの臭いを持つ豆がいくつか混入して、全体の香りを損なうのだと言われています。

この臭いの正体は「メトキシピラジン類」と呼ばれる匂い物質グループによるものだと考えられています。メトキシピラジン類はさまざまな野菜の「土臭さ」の元になる匂い物質です*4。コーヒーの生豆にも通常、2-イソブチル-3-メトキシピラジン*5や2-イソプロピル-3-メトキシピラジンなどのメトキシピラジン類が含まれていることが知られていますが、「ポテト」が出た焙煎豆では、通常の豆と比べて、これらのメトキシピラジン類、特に2-イソプロピル-3-メトキシピラジンの量が多くなっていることが報告されています*6。メトキシピラジン類は、コーヒー生豆の持つ青臭さや土臭さの元となる主要な匂い物質でもあり、焙煎してもその量はほとんど変わりません*7。元々、コーヒーが持っている匂いの一部が、通常よりも多くなりバランスが崩れることによって生まれるオフ・フレイバーの一つ*8だと考えられます。


メトキシピラジン類が増える原因については、発見当初からAntestiopsis orbitalisと呼ばれるカメムシの一種による、コーヒーの実の食害*9との関連が示唆されてきました*10。このカメムシ虫害が問題となる地域と、「ポテト」の発生が問題になる産地は、共に中央アフリカでほぼ一致していることと、農薬処理などによってカメムシ防除を行うことで、「ポテト」の発生が減ることなどから、直接か間接かはともかく、このカメムシが何らかの形で関わっていることはおそらく間違いないと言えるでしょう。

近年では、食害そのものが原因になることよりも、汁を吸う際に差し込んだ口吻を介して、カメムシに寄生している細菌の一種*11が種子の表面に付着して感染することが原因だという説も唱えられています。感染した細菌が行う代謝によってメトキシピラジン類が増えるのではないか、というわけです。ただしこの他にも、食害や感染に対して宿主(コーヒーノキ)側が行う一種の防御応答として作り出すのではないかという説や、あるいはメトキシピラジンの増加以外にも原因があるのではないか*12など、他にも考えられる可能性はまだ残っており、はっきりとした答えが出せないのが現状です。また、実際にこのタイプの欠点豆を事前に見分けることは非常に難しいのが問題で、実際に煎り上がってみて初めて「ポテトが出た!」となってしまうケースがしばしばです。このこともあって、実際にどのくらいの数が混入することで全体に影響するのかなどについては、不明な部分が残っています。

*1:例えば、http://publications.cirad.fr/une_notice.php?dk=392315 にあるPDF(仏語+英語)の中に"erbsig in German"という記述が見られる。

*2:厳密にはベルガエ地方よりのフランス語であるらしい。「ベルギー語」という言語があるわけではなく、ベルギーではオランダ語やフランス語が用いられている。フランス語でも"Patate"でもジャガイモなどの広いイモ類を意味し、例えば"Patate douce"でサツマイモを意味する。

*3:"pomme de terre"は文字通りに訳せば「土のリンゴ」で、「ジャガイモ」を意味する

*4:アミノ酸であるバリンやロイシンとグリシンが脱水縮合することによって生合成される→ 参考:http://park12.wakwak.com/~alchemist/aromabio.html

*5:2-イソブチル-3-メトキシピラジンは極めて臭い閾値が低い(=ごく微量でも感じられる)物質であり、悪臭の指標物質としても扱われる。その匂いは生のピーマンやシシトウ、エンドウマメなどを思わせる特有の青臭さを持つ。欧米では"Pea-like"、"Bell pepper"の臭いと表現されることも多い。"Bell pepper"は、緑色で甘みのある(=辛くない)大型の(釣り鐘のような形の)トウガラシ類で、やはりピーマンやシシトウに近い野菜。その名前から欧米でも"green pepper"(グリーンペッパー。未熟で緑色のコショウの実)と混同されることがあるが、まったくの別物である。

*6:Becker et al. 1987

*7:スペシャルティコーヒー大全』の香りチャートでは、下の方に「生豆由来の匂い成分」としてその挙動を示している。焙煎した豆では、焙煎によって生じた他の匂い成分によって、生豆の持つ青臭さがマスクされて感じとりにくくなるのであり、メトキシピラジンそのものは生豆と同じように存在していると考えられている。このことは、石脇氏の「コーヒーこつの科学」でも少し触れられている。

*8:これに対して、「カビ臭」のジオスミンやイソボルネオールなどは、コーヒーが元々持たないオフ・フレイバーである。

*9:実際には実を食べるのではなく、実の汁を吸う。

*10:なお1959、1960年には、カメムシではなく、Trirhithrum coffeaeというミバエ(fruit fly)が原因であるという説も唱えられたが、現在はおそらく誤りだったと考えられている。

*11:Erwinia属の細菌がその候補に挙げられている。Erwinia属は、大腸菌サルモネラなどと同じ腸内細菌科と呼ばれるグループに属している。

*12:例えば、Groschらが行ったコーヒー焙煎豆の香りの再構成実験では、ショ糖焙煎に由来する香り成分を除いて再構成するとイモ類のような香りになることも報告されている。