百珈苑BLOG

2013-01-04

[]はじまりの物語 (1) 10:17

(「モカの通った道」 http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100527 の、いわば前章。非定期にぼちぼち続ける)

コーヒーの「はじまり」については、いくつかの仮説が広まっている。例えば、有名なヤギ飼いカルディの伝説やシェーク・オマールの伝説、シェーク・ゲマルディンの伝説の三つは、その中でも古くから広まっていたものである。これらの仮説の考証については、山内秀文先生の「解析:コーヒー発見/仮説と伝説(2)三大伝説」(辻調おいしいネット/カフェマニアックス)に譲りたい。ここで言う「三大伝説」の一つ、「シェーク・ゲマルディンの伝説」は、その記述から見てもいちばんもっともらしい、という山内氏の意見に私も同意である。


我々人類が実際にコーヒーを利用するようになった、「本当のはじまりの地」がエチオピア西南部であろうことは、植物分類学的、分子生物学的考察と言語文化的考察から、ほぼ間違いがないと言える。しかし、ゲマルディン以前の、エチオピアでの利用についての考証は少ない。結論から言うと、おそらくきちんとした答えは出ない類いの問題であろうことも、山内氏の意見に同意する


ただまぁそれだけだとなんなので、できる範囲でもう少し考察していってみよう。

エチオピア独自のコーヒー文化 10:17

コーヒーはじまりの地、エチオピア」には、その肩書きに恥じない独特なコーヒーの飲み方、利用方法がある/あったことでも知られている。特に有名なのは、エチオピアの「コーヒーセレモニー」であろうか( http://www.mocha-club.net/wataru/next/ethiopia/eceremony/cofcerem.htm などを参照)。まずは、この辺りから解題していってみよう。


エチオピアの「コーヒーセレモニー

近年、「エチオピアの伝統的なコーヒーの飲み方」というふれこみで、エチオピアの「コーヒーセレモニー(カリオモン)」が、日本でもさまざまなメディアに取り上げられ、紹介されるようになった。コーヒーの生豆を金属製の浅い鍋で焙煎するところから始めて、砕いて煮出すまで、長い時間をかけてコーヒーを楽しむ儀式には、どこか日本の茶道と通じる部分も感じられ、いかにも長い伝統のある風習のように思われるかもしれない。


しかし実際には、その歴史はそれほど長くはない。現在のエチオピアは、元々キリスト教国であったエチオピア帝国の流れをくむ多民族国家であり、エチオピア北部高地のアムハラ族やティグレ族など、いわゆる「セム」系の人々が(後述するオロモ族との混合が進みながら)国家の中心を担ってきた。キリスト教の中でも独特な発展を遂げた「エチオピア正教」を国教とする、彼らエチオピア北部人は、早くからコーヒーを飲むようになったイスラム教徒とは異なり、元々はコーヒーを飲む風習がなかった。むしろ、彼らにとってコーヒーを飲むことは「イスラムの異教徒たちの風習」「エチオピア西南部部族の(泥臭い)風習」と受け止められていた。東部のハラー(ハラール)などではコーヒー栽培を行っていたものの、それは輸出用の商業作物であり、エチオピアキリスト教徒らが自分たちで飲むものではなかった。


その状況が変化したのは、1880年頃からメネリク2世が国民にコーヒーを推奨したことが始まりと言われている。実際に民衆にコーヒーが普及したのは1930年代になってからだと言われており*1、日本で普及した時期と大差ない--むしろ日本よりも若干遅いくらいだ。このコーヒーの受容には、メネリク2世が、当時まだカファ王国を始めとする諸部族が独立していたエチオピア西南部を、初めて支配したことも大きく関係していると言えるだろう。コーヒーセレモニーの別名である「カリオモン」とは、エチオピア西南部の一部族であるマジャンギル族の言葉であり、この部族の言葉が「コーヒーを飲む儀式」と結びついて、キリスト教系北部エチオピアの人々に受容されたことが見て取れる。とはいえ、マジャンギル族のカリオモンは、コーヒーの葉を煮出して飲む、一種の茶会のような儀式であり、現在のエチオピアで広く見られるものとは全くの別物である*2。現在普及しているスタイルは、コーヒーの生豆を、それも比較的深煎りで用いる特徴から考えて、イスラムアラブ人たちの(アラビア式の)飲み方を取り入れたものであろう。

オロモ族の「エナジーボール

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また近年、特に英語圏では、エチオピアで使われていたコーヒーの起源として「オロモ族のエナジーボール energy ball」というものが挙げられることがある。ユーカース『オール・アバウト・コーヒー』にも見られる記述であるが、おそらくはマーク・ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』(原題:Uncommon Grounds)やベネット・ワインバーグカフェイン大全』(原題:The World of Caffeine)などでも紹介されたことで、さらに有名になったものだろう。オロモ族はエチオピア部族の一つで、かつては「ガラ族/ガッラ族」とも呼ばれた*3。元々はソマリアとの国境付近の高地をホームグラウンドとして紀元前から生活していた半農半牧の部族である。彼らはまた戦闘的な部族であり、しばしば他の部族の土地に侵攻した。特に16世紀から17世紀にかけて、エチオピア南部の高地から、北に位置するキリスト教国であるエチオピア王国や、イスラム教徒ムスリム)の居住地に大規模な侵攻を行っている*4。この際、彼らはコーヒー豆を煎って粉砕し、バター(動物の脂)を混ぜて団子にしたものを携帯食にしていた。これが、俗に「エナジーボール」と呼ばれているものである。彼らは、侵攻した先々に自生するコーヒーノキからこのエナジーボールを作り、そのおかげで疲れを知らぬように戦い続けることができたと言われている。 これは薬理的/栄養学的には、カフェインによる興奮作用と栄養に富んだ動物脂の相乗作用とも言える -- ある意味では、チョコレート(煎ったカカオカカオバター)のようなものだったのかもしれない。これをエチオピアにおけるコーヒーの始原的な利用法の一つと位置づけ、このオロモ族の侵攻によってイスラム圏や、後にキリスト教圏にコーヒーが知られるようになったという仮説が唱られている。


……しかし正直言って、これをコーヒーの起源と位置づける仮説は疑わしい。オロモ族が「エナジーボール」を砂漠を横断するときの携帯食として利用していたことは確かに18世紀の記録*5に残っており、これが上述の文献でも典拠にされているのだが、オロモ族が北部に侵攻したのは16-17世紀のことであり、本当にオロモ侵攻のときから使われていたのかどうかはわからない。またその時期に使っていたとしても、すでにそれより前の15世紀には、イエメンでゲマルディンがコーヒーの利用を合法的に認めており、オロモ族の利用がそれ以前からあったのかどうかもわからない。そして何よりも、オロモ族のホームグラウンドであるソマリアとの国境付近の高地は、コーヒーの自生するエリアからは外れているのである。このことから彼らが元々そのホームグラウンドにいた時代から、コーヒーを利用する風習を持っていたとは考えにくい。


では、どのようにしてオロモ族は「エナジーボール」を利用するようになったのか。それは恐らく、オロモ族が他部族を侵攻する際の特徴に関わっていると思われる。彼らは他部族を征服すると、彼らを「オロモ化」する…オロモ族の父長の下に、新たに加わった子どもみたいな形で取り入れる…という特徴を持っている。この結果として、侵略が進むと元々は別の部族であったものが、すべて「オロモ族」となるとみなされる。またこれに伴い、侵略された部族が持っていた知識や文化もまた「オロモ族のもの」として同化されるのである。実際はオロモ族は15世紀頃、エチオピア王国侵攻に先立って、そのホームグラウンドから山地の尾根を伝ってシダモの高地に侵攻し*6、そこを「オロモ化」した後、北方への侵攻の前衛基地にしていた。おそらく、当時のエチオピア王国から見ると、自分たちの領土の南方はみな同じような「蛮族の地」だという程度の区別しかなく、オロモ族がいきなり攻め込んできたように見えたことだろう。シダモには現在も野生(または半野生)のコーヒーノキが自生しているので、オロモ族はこの地に侵攻したとき初めてコーヒーに出会ったのではないだろうか。彼らの「エナジーボール」が、シダモにいた部族…あるいはこの当時すでにシダモを含めた広い地域に遍在していた、イスラムアラブ人の風習から取り入れたものである可能性は十分考えられる。実際、先述の18世紀の文献には「粉々に出来るようになるまで煎ったコーヒー」を使うことが書かれており、比較的深煎りの、アラブ系の利用形態に近いようにも思われる。ひょっとしたら半農半牧民である彼らが携帯食としていたバターに、シダモの人々やイスラムアラブ人が使っていたコーヒーを混ぜることで、シダモあたりで新たに「エナジーボール」が生み出されたのかもしれない。ただ何にせよ、年代的に見て、これをコーヒー利用の「起源」とするのはいささか無理がありそうに思われる。


エチオピア西南部でのコーヒーの利用

エチオピア西南部におけるコーヒーの利用と文化に関しては、京大福井勝義教授が行った貴重な現地調査があり、淡交社『茶の文化・第二部』、中公文庫『世界の歴史(24)』などに、その記録がまとめられている。珈琲美美の森光宗男氏の『モカに始まり』(http://cafebimi-cafebimi.blogspot.jp/2010/07/blog-post_30.html)も参照されたい。


エチオピアにはさまざまな言語(語族)があるが、ほとんどの地域では、コーヒーを「ブンナ buna/ブン bun/ボノ bono」と呼ぶ。これは「豆」を意味するアラビア語の"bunn"に由来する言葉と言われており、コーヒー豆やコーヒーノキを意味する言葉として用いられる。また一部の地域(ハラールや、カファ北部のグラゲ地区)ではこれに加えて「カフワ qahwa」という呼び方も存在する。これはアラビア語で元々「ワイン」を意味した"qahwa"に由来する言葉で、コーヒー飲料を意味する言葉になっている。ハラールにおいても、"qahwa"はコーヒー豆だけでなく葉や殻などを利用した飲料全般を指す言葉として用いられ、葉から作ったものは"qutti qahwa"、豆から作ったものは"bun qahwa"、殻から作った物は"hasar qahwa"と呼ばれる。一方西南部では、上述したマジャンギル族の「カリ kari」、ボディ族の「ティカ tika」、ギミラ族の「ギア gia」など、この"buna型"とも"qahwa型"とも異なる、いくつかの名称が部族ごとに多様に用いられている。


名称だけでなく、利用法もまた多様である。コーヒー豆はもちろん、殻や葉を飲料にしたり、香辛料とともに薬として用いたり、コーヒーの実をそのまま、あるいは調理して食用にしたり、さまざまな形で利用している。豆を利用して飲み物にする際も、軽く煎ったものを非常に薄くして飲むところが多く、アラビア式のコーヒーとは異なる飲用方法だと考えられる。また、食用/飲用として使うだけでなく、ボディ族、バナ族、マレ族、アルボレ族といったさまざまな部族において、移住儀礼や農耕儀礼、結婚儀礼といったさまざまな場面において、コーヒー儀礼的に用いられていることも特徴的だ。


このような言語と利用法の多様性独自性から考えても、エチオピア西南部においては、そこに自生するコーヒーが人々の生活の中に、自然にとけ込んできただろうことは、想像に難くない。また、この地域で「薬」として用いられているという事実は、コーヒーに関する最も古い記録と言われるアッ・ラーズィー(ラーゼス)の『医学集成』やイブン・スィーナー(アビセンナ)の『医学典範』において薬として扱われたことや、シェーク・ゲマルディンの伝説においても最初は「薬」としてエチオピアから取り寄せられたことに合致すると言える。恐らくはラーズィーが活躍した9-10世紀より前から、エチオピア西南部において、現地の部族コーヒーを利用していたと考えられる。9-10世紀頃には、エチオピア北部のキリスト教徒によって、ダフラク(ダーラク)諸島を中継地として、エチオピア内陸部の人々が奴隷としてイスラム諸国に売られていたことが知られている。ひょっとしたら、このような奴隷の中にエチオピア西南部もしくはその周辺出身の者がいて、彼らを介してラーズィーのようなペルシャの学者の耳に、コーヒーの話が伝わったのかもしれない。

*1福井勝義『茶の文化・第2部』淡交社において、Richard Pankhurst "Economic history of Ethiopia 1800-1935" (1968)が引用されている

*2:Uti Kaari! (九大・佐藤廉也准教授) - http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~yt1/staff/sato/kaari.html

*3:「ガラ/ガッラ」という言葉は「蛮族」という意味があるため、1970年代以降は差別的な言葉として用いられなくなっている

*4:石川博樹『オロモ進出期に於けるエチオピア北部の牛税ケイマ』アフリカ研究 69:45-57(2006)

*5: Bruce James "Travels to discover the source of the Nile" Vol.2, p.111 (1790) http://archive.org/details/travelstodiscove002bruc

*6:オロモ族の移動は、15世紀頃の気候変動やオロモの人口増加などが原因で始まったと言われている。その後、エチオピア王国とアダルスルタン国両国が戦争で疲弊したところに付け入る形で、さらに北進を遂げた。