2009-08-29
■[花・髪切と思考の浮游空間]朝日社説− あおった後で、何を今さら。。
何度かこのブログで書いてきましたが、選挙というのは最も激しい階級闘争だといわれてきました。なかにはこの階級という言葉をとらえて、これは階級史観という特定の立場からものを見ただけのことだとおっしゃる方がおられるのかもしれません。選挙戦の実際は、階級史観に立とうと立つまいと、今日の政治がいかに大企業・財界にゆがめられているのか、その奉仕のための政治がおこなわれてきたのかを照らし出しています。また、これまでの日米関係がいかに米国に追随するものであったのか、ですから今後、同国とどんな関係をもっていくのか、この点も問われているように思えます。つまり、今日までの自民党政治が財界や大企業という社会を支配する側の立場に軸足を置いてきたことが今回の選挙戦で問われていると考えてよいのではないでしょうか。
今日までほとんどの予想が政権交代の実現を指摘していますが、選挙の情勢は刻々とかわり、最終盤といわれる状況下で、メディアの論調にも以下のようなものがみられるようになりました。
朝日の前回の世論調査にもとづく論調です。この社説は、吉野作造の言葉で、こう結んでいます。
総選挙だからとて俄(にわ)かに馬鹿騒ぎをするのは不必要のことだ。本当の憲政の要求するところは選挙だからとて少しも騒がず、国民が平常と変らず各々(おのおの)その業にいそしむということである。……憲政の道徳的の重みは決して騒々しいところからは生まれない。冷静であればある程、選挙民の政界に対する威力は増すものである
まあ、こんな吉野と同じように達観できればよいのでしょうが、これだけの情報過多のなかで外部から飛び込んでくる情報に左右されるのが普通で、そうでないというのは少数なのでしょう。
あえてつけくわえれば、社説はその情報社会の中で情報を発信する側にいて、その意味で重大な社会的責任を負ってきたし、負っているということを自らのべ、その立場から論じるべきではなかったか。
なぜか。
一月前、二月前、半年前、一年前という具合に現在から過去にさかのぼってみましょう。
当の朝日新聞の論調は、日本政治、こと解散・総選挙に関連する記事の多くは二大政党が中心であって、主張の基本的な道筋もそれを支持するのものではなかったでしょうか。
この指摘が仮にあたっているとすると、今回の社説の主張が当をえたものであっても、その輝きは鈍いものにならざるをえない。自民か民主かの二者択一を他社同様に朝日も国民にむかって発信してきたのであって、何をいまさらという実感をもたざるをえません。
たしかに、世論調査に国民の意識動向が映し出されているとすれば、記事も国民の意識をもとに書くことになるのでしょうから、その点で判断にまちがいは少ないのでしょう。しかし、その調査以前のメディアの態度が問われなくてはなりません。私の実感では、二者択一を迫る主張の洪水のようなものでした。
ジャーナリズムは、先の吉野のいうような意味で、国民が冷静に判断するための良質の材料を提供することがその社会的使命の一つだと私は考えるのですが、その点で、この朝日の社説の主張は共感できる部分をふくみながら、素直にうなずけない何かが残るのです。
何かが残ってしっくりこないのは、あの郵政選挙をへてジャーナリズムの反省が多々のべられてきながら、また同じ時点から出発し、二者択一を迫る、あのときは民営化推進か反対か、今度は自民か民主かという具合に、同じ誤りを繰り返しているからにちがいありません。
現状は肯定すべきか。否定して変えるべきか。変えることにすぐ飛びつくのではなく、変えた先のことにも考えをめぐらす
この主張は、私は、ただしいと思います。
それだけに、今こそ自問しないといけないのは、マスメディアではないでしょうか。メディア選挙からいかに脱却するのか、それは国民自身が考えないといけない課題ですが、同時に、そうした劇場をつくることの是非も、メディアに問われています。
以上のようにメディアのとってきた態度をふりかえると、社説の主張もしたがって、筋道をつくったあとで正論をのべてその場をとりつくろうようにみえて、輝きも半減しているのです。
(「世相を拾う」09171)
