2010-03-08
【慶応義塾大学 総合政策学部 1996】
今日において、価格競争と品質競争のいずれもが限界に達し、新たな競争の土俵が強く求められている。そうした時代において登場したのがモードによる競争であり、服装から始まり、その潮流が白物家電にまで及んだ。
耐久消費財の耐久年数がもはや買い替え需要を創出しえないレベルにまで伸びきった今日では、モードが「ダサく」なることによる需要に依存するしかない。資本主義とはそうしたシステムなのである。
コミュニケートの問題があらゆる問題の行き着く先だとした広告も昔からあったようだ。
消費によってしか人々は絆を維持し得ないという一種の強迫観念を煽り立てるような抗告展開が特徴的だ。
近年の日本にも類似例はある。ソフトバンクのただ友CMでは、ソフトバンクを持っていない友人が仲間はずれにされるシーンがあるが、あれは象徴的な場面である。消費が人々のアイデンティティを支えるようになったのだ。
今日の広告戦略は消費者が自分が何を望んでいるかを知っている存在であるという自明の理を疑い、あまつさえ否定するところから論を展開しなくてはならない。広告は、選択を説得により押し付ける行為なのだ。
私たちは広告によってバフロフの犬のように飼いならされることのできる存在である。スポーツの後のアクエリアスなどは良い例で潜在的認知が働き、他の飲料よりも真っ先にアクエリアスに手が伸びるのである。
そして、しだいにそれぞれの広告のあいだの差異を生み出すのにも苦労する今日になった。
違いを生み出すための努力はすさまじく、世界中で撮影されなかった場所はないと言ってもよいほどである。
「タフでなければ生きてゆけない。ジェントルてなければ云々」という小説の名文句でさえ似たようなキャッチコピーがあまりにも広がりすぎたために今日ではかつてのような新鮮な感動を人々に与えることはない。
第二問
ディズニーランドにも反映されたように今日の人々は非日常を求め消費する。
そうしたニーズがはっきりと反映されているのがこの広告であり、非日常を消費したい非日常を学生運動で経験したドム世代(汚くて古い男という意)の欲求を象徴している。
またランボーのような男たちがかつて学生時代に愛読したような作家を提示するのが、これはあなた方世代向けの作品ですよというメタメッセージとして機能する。
【慶応義塾大学 総合政策学部 1995】
「人は状況に応じて行動し、状況に働きかけ、その結果をフィードバックさせてまた作動する。」という行動原理はジョージ・ソロスの言葉を借りれば「再帰性理論」とでもいうべきものである。
ユダヤ人は歴史的に意味づける能力に秀でた民族であり、たとえば新約で紹介されているエルサレムの崩壊でさえも彼らはタムルードの中で意味づけをしているのである。
しかし、そんな彼らでさえも苦しみに意味づけられなかった悲劇がナチスのホロコーストであり、ソロスはその時代を偽りの証明書とナチスの役人の息子だとウソをつくことで、さらにはユダヤ人の財産を没収する仕事を手伝うことで乗り切った。再帰性理論とはその賜物なのである。
意味づけるという知的特権はユダヤ人がそのリソースの多くを所有している。なぜならば、ユダヤの歴史とはまさしく苦しみの歴史であったためである。
苦しみにはいつだって、その苦しみにふさわしいだけの意味を必要とする。
それが苦しみのせつなさを和らげることを彼らは長きに渡る民族迫害の歴史の中で学んだためである。ここにユダヤ人の知的優秀さの原点がある。
意味づけはすべての学問の入り口にある。疑問は生半可な理解のうちにいえるかもしれないが、意味づけは残り続ける。苦しみの体系化こそが文系学問の出発点であり、それが人間社会の客体化につながるのである。
このことが多くの人々が本来持っている神性を守ることにつながる。多くの場名において人間のそうした神性は傷付けられてきたが、近代的憲法が掲げる権利条項は彼らが人間であるため必要な尊厳を取り戻させたのだ。これらを学問の勝利といわずしてなんというのだろう。
今日の科学はもはや人間が持っている倫理観を崩壊させる方向にまで発展してしまった。デザイナーズ・ベイビーの可能性が取りざたされることはその一部にすぎない。
小説の「すばらしき新世界」に描かれた逆ユートピアの悲惨が現実のものになりつつある。
優生学や社会ダーヴィズムといった前世紀に人類の良心が葬り去ったはずの異物が再び人々の頭をもたげ始めている。
学問はそれぞれの人間が持つかけがえのなさを守るための営みである。システムに抑圧されず、人々の欲求に迎合せず、何者をも頼らない白樺派の文士のような誇りある孤高こそが学問をするうえで何よりも求められる。
【慶應義塾大学 環境情報学部 2002】
かつてバブル期に「東京バベルタワー」というハイパービルディングの計画が持ち上がったことがある。山手線内部を一万メートル級の高度を持つ巨大なビルに仕立てようという恐れをしらない計画である。
この環境の世紀においてエネルギー効率のよさは魅力的だ。高度のある部分を太陽光プラントとし電気抵抗の少ない導線で結べば、完全な自家発電も可能になる。そればかりか、すべてを一つにすることで廃熱さえ資源になる。土地の有効利用という観点から見てもかつてゲゼルが「自然的経済秩序」の中で述べたように、建築物の高層化は多くの土地を自由にし、そこから若者中心の新しいイノベーションが起こるかもしれない。
しかし、こうした超摩天楼化は反面課題も多い。まず半永久的な補修を要するので予算の捻出に早晩苦労することになる。そもそもこれでは解体すらおぼつかないのではないか。
山手線内部住民の退去も深刻な問題だ。類似例として阪神淡路大震災の神戸市や長田苦の再開発がある。被差別部落の伝統的な靴産業を全て潰しきり、近代的なビルに仕立てた結果多くの空きテナントと、差別と貧困に苦しむ多くの生活保護受給者を生んでしまったのである。
技術的な問題点も多い。アラブでは地震もなく、奴隷的に使える労働者も多いが、日本では労働法規も厳しく、首都圏近郊は地震の多発地帯である。こうした問題を解決するには耐震強度を上げるために窓を減らすほかない。
耐震強度偽装問題では日本の許認可における入り口規制の甘さが問われた。出口規制は総工費の一パーセントで可能なのだから、役所の人件費のみがかさむ入り口規制をCADオペレーターにまかせ、出口規制を強化すべきだ。
それでもテロの危機は残る。衝突はマイナス七十度の外気との闘いを意味し、国家間戦争ではないので報復にも効果はない。あのテロ事件はそうした意味において、バベルの塔崩壊の象徴的な出来事でもあった。
【慶応義塾大学 環境情報学部 2001】
私の提案する新しいサービスは関心分野のニュースカテゴリを自動学習し、携帯電話の待ちうけ画面に配信するものである。従来と異なるのは能動的目ディアであるという点だ。
携帯電話の待ちうけにニュースを配信するシステムは今日でも存在する。しかし、スポーツから政治までありとあらるトピックを扱っているのが現状だ。
関心分野の自動学習システムは文字変換予測のそれに良く似ている。過去のユーザーの選択したものとカスタマー全体のニーズの組み合わせにより興味のあるものを探る。
コメントのやり取りを通じてニュースから同好のコミュニティーを作ることも可能だ。これは価値観が多様化した現代社会の中では特に大切な機能といえる。
従来型メディアは総じて受動的であった。しかし、この仕組みはニコニコ動画に代表される能動的メディアづくるのさきがけになるものだ。
購読者にとっては自らの関心分野だから食い入るようにみるはずだ。このことは当然テレビや新聞などと比較して相対的に単位ユーザーあたりの広告費を上げることになる。
また興味にあわせて広告を変えることで効果的な展開が図れるはずだ。成約率が上昇すれば広告主は誰もテレビや新聞には見向きもしなくなり、経営はますます厳しいものになる。
メディアに取り上げられる話題はかつてはエリートの取捨選択にゆだねられていた。しかし、今日でははてなブックマークのような集合知の可能性が脚光を浴びている。
エリートは必ずしもニーズを反映するわけではないが、集合知は違う。ここに新しい選択と集中が生まれ、既成メディアも取材の方向性を大きく変えざるをえなくなる。
新聞は社会の木鐸から大衆の広場になるだろう。好むと好まざるとに関わらずバラバラで気まぐれな大衆のささいな気付きが世界を変える時代がまもなく到来する。
【慶応義塾大学 環境情報学部 2000】
科学技術の発展は、人々を因習から自由にした。自動車の発達はより広い視野を人々に身に付けさせたし、人々は映画を通じてアメリカの豊かな暮らしに思いを馳せることで驚異的な経済成長を実現させてきた。
女性や社会的弱者が隷属的労働から解放されたという意味において科学技術の発展が果たした役割は大きい。選択から炊飯にいたるまでがかつては一日中の仕事であったものが、今日では数分足らず。女性の参画も広がった。
奴隷たちにとって科学技術の発展は身分からの解放を意味した。苦役から解放され、彼らの文化的所産は全世界に広がった。科学技術の発展が、文化の多様性を多くの人々に広げたという側面もある。
一方で問題もある。環境汚染はその最たるものだろう。永遠の発展を求める資本主義システムの中に全ての人々にとって利益になるような形で負担を内部化するべきだ。排出権ベーシックインカムが良いと私は考えている。
自由の不自由という問題もある。これは、たとえばT型フォード以降人々が手軽に自動車を所有できるようになったことが挙げられる。
また、近年、特に顕著なのは便利の不便という問題である。多くの機能が搭載されたことは一方で分かりにくさを生む高齢者を中心に使い方を覚えるのが不便であるというパラドックスを生んだのは皮肉としかいいようがない。
こうした問題を解決するためには、マンションの五十階でレタスを栽培し、手作りのハンバーグにはさんで食べるというような新しい豊かさの目標を定め、その実現に向けて歩みだすことが大切だと考える。
またユニバーサルデザインを意識したインターフェース作りや、買い替え需要を喚起しつづけるためのモードの移り変わりを起こす持続可能な発展のためにはこうした目標は不可欠だと私は考えている。
そして、何よりも元来自然とは循環系なのだから、技術は自然を模倣すべきなのだ。廃熱なども新たなエネルギー資源として有効に活用し、より効率的に限り在る資源を生かすことこそが今日の人々に求められることである。
最後に私たちは科学技術に課題がある限り、進歩は退歩につながっているということを忘れてはならない。マルクスが想定したような歴史の直線的な進歩などこの世にはありえないのである。
【慶應義塾大学 環境情報学部 1999】
私が関心を抱いた問題は、発展途上国における識字率の問題である。祖母が日本語が読めなかった私にとって、機会の欠如による無学がもたらす貧困を撲滅することは非常にな大事なことのように思えるのだ。
調べてみると意外な事実が分かる。学校などの箱物は十分に整備されていても教員としてふさわしい人材が著しく不足していたり、学生の両親からの理解が得られなかったり、教材が不足していたりという例が多いと聞く。
教育指導者の育成が今日では急務だ。しかし十分な資質を兼ね備えた母国語話者がいない。宗主国の言語か、あるいは英語を学ばせることは、彼らか元来持っていた精神的文化遺産を放棄させることになり、彼ら固有の思考回路を奪うことになる。
かといって、教育が受けられないという負の連鎖は非常に看過しがたい。ここに葛藤が生まれる。機会の平等という普遍的な原理が疑わしく思える。
【第二問】
近年、発展途上国に百ドル以下の原材料で作ったパソコンを寄付する動きが脚光を浴びている。文字も読めない人々になぜ?と思うことも少なくなかったが、これは教育の新しい可能性なのだと考えを改めた。
配線などの社会資本の整備が海外開発援助で十分に進めばの話であるが、科学技術を利用した何か新しい可能性を切り拓くことができるようになったのではないかと私は考えるに至ったのである。
日本の予備校でも行われている試みではあるのだが、たとえば衛星によって授業を放映し、それを生徒が受信することにより、かなり低いコストで居遺訓の受益者になることができるという構造がある。
これを発展途上国における識字率向上プロジェクトにも生かせないだろうか。たとえば、ごくごくわずかしかいない母国語話者が一人あれど、この仕組みであれば数百万人の子供たちが母国語を失わずに済む。
【慶應義塾大学 環境情報学部 1998】
表現はメディアを抜きにしては成立しえないものである。なぜならば表現は人の目の触れて初めて表現になるためであり、人の目に触れなければ何らの意味をも生まない存在だからである。
その点において、メディアは表現がなくとも成立する。ただ単に客観的な事実のみを配信していけば私たちはそれすらもメディアだと言わざるをえなくなるだろう。
メディアは表現を制約する。限界を与えることでコンテンツをつまらなくしているようにも思える。
文字の限界についてはよく語られる。あまりにも限られた表現方法なので、その完成形の出来栄えは読み手の読解力と想像力に依る他ないのが残念きわまりない。
平面の限界についても今日ではよく語られている。いかに美しいフォルムが出来ようとも、それは何らの手触りをも人々にあたえるものではないのだ。
立体にも限界は存在する。
それは確かに立体である以上手触りはある。しかし、それがメディアを介して伝えられる以上実用品ではないのだから、立体のコンテンツは多くの場合において巧みな模像にすぎないのである。
コンテンツを評価することは難しい。芸術では、コンテンツへの評価そのものがコンテンツとなるが、たいていにおいてひょうんは評論されたコンテンツよりも出来栄えが良くない。メディアは水平的に評価できるが、コンテンツに関して言えば、それは難しい。
表現が限界によって縛り付けられている以上、表現は抑圧への抑えがたい怒りが根底になければ迫力に欠けることだろう。
表現は抑圧された人々の怒りを代弁する。メディアは時として強いものの片棒を担ぐことがある。しかし、表現はいつまでも弱いのに寄り添う。これが私の考えるメディアとコンテンツの役割の違いである。そして、コンテンツはメディアなくしては人々に伝えられないという矛盾を孕んでいるため、時折権力に寄り添おうとするメディアを不安げに眺めながら、いつまでもコンテンツはコンテンツでありつづけようとする。
そうした点から、コンテンツは不用無頼の存在でなければならない。もしもコンテンツが有用有頼の存在であれば、それは広告以外のなんらの意味をも持たないだろう。
コンテンツはメディアという性格が異なる親に連れられた無邪気の子供である。
【慶應義塾大学 環境情報学部 1997】
十九世紀以前の問屋制手工業の社会は、情報よりも智恵の求められた時代である。第一に情報の絶対量が乏しく、第二にこの時代の企業は高度な情報よりもむしろ作業を手際よく進めることを人々に求めた。
二十世紀に入ると工場制機械工業の時代が到来し、後半からは先進国の中に脱工業化を図る国も出てきた。情報があふれた社会となり、人々は情報を生産に取り入れることが死活問題であることを認識し始めた。
二十一世紀に入ると、情報は人々が処理しえないほどに増大し、インターネットの出現で行き着くところまで行き着いてしまった。ここで初めて先人の智恵を大切にする暮らしぶりが見直されはじめている。
これは資料一にもあるように人々が情報の危険性に気づき始めたことに端を発する。二十世紀は戦争の世紀でもあり、その渦中で人々はだまされ続けた。正邪を判断する智恵こそが情報に呑み込まれないためには必要なのだ。
リテラシーとしての資料三の叡智がこうして見直され始めたことは喜ぶべきことだろう。しかし、人々が原点回帰をすれば問題が解決するわけではない。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、情報化社会に生きているのだ。
その最も大きな理由としては、もはや資料二のようなネットワークのなかでは生活が完結しえないことにある。高度に分業が進んだ社会では人々が多くの認識を共有せざるをえなくなるためである。
かつてと異なるのは情報が膨大にある中で叡智をどのように発揮するのかという課題が人々に課されている点である。ポスト工業化社会では今まで以上に情報を使いこなす能力が求められるのは明白なことだ。
情報は取捨選択され知識となり、受け取り人の素養如何では知性になり、経験を経て叡智になる。この三つの変換が上手にできる人がこれからの情報化社会をうまく乗り切れる。
大切なのはあらゆる出来事から学ぶスタンスを崩さないことにある。我以外皆師也という古来からの金言は今日でもその輝きを保ち続けている。高度な情報化社会のなかで人々が学んだ教訓は、かつて人々が孔子から学んだ教訓となんら変わらないものだった。
とはいえ今日では扱う情報量はけた違いだ。振り回されないためには、中庸の精神を根底に持ち続けなけれる事が大切だ。
「情報」を思いのままにする「知識」は古来から学ぶしかない。
【慶應義塾大学 環境情報学部 1996】
高度産業社会で日本が果たすべき役割は、研究所国家として世界に技術を供与し、投資を通じて(特許を通じてではなく!)利益を得るシステムをつくることにあると考える。つまりかつて受けた恩を他人に返すのだ。
アメリカでは特許を買い取り、不正に利用する人を訴えて利益を得る弁護士がいる。私はこうした動きは双方にとって著しい不利益になるのではないかと懸念する。なぜならば、それは良い技術の拡大を防ぐためである。例を挙げれば、たとえば日本の省エネ技術が全ての国に普及すれば67%の温室効果ガス削減効果が見込める。ここに日本からの投資を受け入れてくれたら技術を供与しますというパッケージをつくれば、特許料を求める従来のやり方よりも多くの利益を得ることができる。利率年率一割複利で、製造業の空洞化などによる円威信の低下を加味すると為替差益も含めて元本の三倍の利益を望めるのである。
ケンタッキーやコカ・コーラのように秘密を守るためにあえて特許をとらない会社もあるが、いずれ特許というシステムそのものがなくなると私は考えている。
ソフトウェアのオープンソース化は今日の情報技術産業では、最もほっとな話題である。マイクロソフトの提供するソフトのほとんど全てが苦労との間では無料のソフトにとってかわっている。
数年前に素人がこつこつ書く百科事典が有名なそれに正確さにおいて勝ることを予測した学者は誰もいないだろう。かつての全体主義とは違う「多数は少数よりも賢い」という理念は確実に世界を変えているのだ。
今日の人々は厳しい市場の競争に病んでいる。落伍者は結婚すらできず、かつてビル・ゲイツが大手を振っていた時代にはパソコンすらできなかった。フリーソフト化がパソコンを貧乏人の娯楽に変えたのだった。
ネットは空想的社会主義が支配する楽園である。ところどころに市場原理が垣間見えるが、ここでは資本主義と社会主義は対立していない。人々は他者のための無償の贈与を繰り返し、「神!」と褒められることで、自らが生きている意味を再確認する。自分を認めてもらえない人にとってこの仮想空間はモテない男にとってのキャバクラのようなものである。多くの価値を与えているのに、自分が受け取っているように思わせてくれるのだ。
日本は研究所国家としてネット空間の優れた衆知を生かすべきだ。パソコンをグリット化することで協力する人が多くなれば、世界一のスパコンは予算が少なくとも休眠中のパソコンだけで作れる。もっとネット住民を生かそう!
【慶應義塾大学 環境情報学部 1995】
絶対化された既存のメンタルモデルが相対化されることでより有効な問題解決に結びつく例が資料一で紹介されている。電線がはじめてできた時、小包をぶら下げた人がいたというが、これはその逆の例である。
誤解に基づく放置は危険な方法といえる。なぜならば、機会損失を生むためである。人間不信が代表的な例で本来避けるべきではない授業を忌諱したなかで、それが実際に相手との険悪さを生むことになる。
一方で適切な状態では放置は一つの手段である。アメリカの対日政策は、軍事大国化を防ぐことと軍事力をアメリカでも使える程度に持たせることの二つを両立させることであり、これは成功している。
改善は、改めるべき部分を間違えたときに悲惨である。アラブ諸国は社会主義から世俗主義までことごとく失敗した末に、同じ指導者でイスラム原理主義へと回帰したが、これは明らかな間違いである。
一方で財投の廃止など本質的な部分に迫る改善は有用である。問題解決に際してはボーリングの一番ピンを倒すことを常に意識することが大切である。
解決はその定義が双方で異なるときに果たされなくなる。たとえば在日コリアンの参政権問題について「それは日本人にとって何のメリットがあるのですか?」と問い、相手を論破することで議論の解決を宣言する人がいるが、それでは解決にならない。
解決の前提にあるのは、双方が解決に対して抱くメンタルモデルが一致していることにある。いまだかつて私はそのような例を見たことがないのだが、これは丸山真男が言うところの「無責任の体系」なのだろう。
解消についての失敗はさらに怖い。ナチスがユダヤ人問題の最終的な解消を掲げたとき、それはユダヤ人の消滅を意味した。どちらかが片方の消滅をもって解決とする考え方に私たちは与するべきではない。
解消とは、相互が問題に対して抱くメンタルモデルをすり合わせて、共通の認識にいたる過程のことである。残念ながらこれについても、こうした例はまれなので、例示することすらできないのは残念だ。
何はともあれ、問題解決における失敗はすべてメンタルモデルの違いをすり合わせられないことから生じることがわかった。問題解決に際して私たちには痛みを感じる繊細さと相手の強さを受け入れる胆力が必要になるだろう。

