Hatena::ブログ(Diary)

象の操作室 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-05-31

救済のためには何をしてもよいのか?

 NHKスペシャル 未解決事件「オウム真理教」が2夜連続で放送された。

NHKスペシャル 未解決事件「オウム真理教」番組概要

 番組では、NHKが独自に入手した教団内部の700本を超す音声テープと元幹部たちの証言をもとに、教団がどのように暴走していったのか、実録ドラマとドキュメンタリー手法で詳細に描き出そうとした作品だ。

 地下鉄サリン事件が起きてしまった背景には、ふたつのポイントは見逃せない。

組織を守るため

 バブル時代を背景に教団が拡大していく中、「日本の救済のために」という理念のもとに教団幹部らが組織を守ることを重視しはじめ、ついに信者の死を隠蔽する。

 組織に帰属すると、組織を守るために懸命になる。これは組織を重んじる日本人のメンタリティではあるが、まさに組織の思考停止状態に陥っていたと言えるのではなかろうか。

 これをオウム真理教だけの特殊な問題を片付けてはなるまい。どのような組織にもこれと同質の構造がみられることを、われわれは忘れてはならない。

 電気をつくるためには、・・・
 生活を豊かにするためには、・・・

 このような論理が日本人のメンタリティとして根付いてはいないだろうか。

 命の救済のためには、何をしてもいい。医療業界という組織には、そういった傾向はないだろうか。もう一度振り返ってみる価値はあるだろう。

経験していないことを想像できない

 県警や警視庁は、早期に宗教法人強制捜査に踏み切ることができなかった。宗教法人に見せかけてテロ行為を行うという前代未聞の組織に対して、関係者は「想像力が不足していた」と語っている。

 いまだ経験していないことに、どう立ち向かうか。今回の東日本大震災でも「想像力の不足」という欠点が改めて露呈した。

 これまでは「前例がない」ことを理由に拒否することで、古い伝統が維持されるというメリットが享受できたかもしれない。既得権益を守ってくることもできたのかもしれない。しかし、このような歴史が「想像力の不足」を育んできたのではないだろうか。

 経験していないことに立ち向かう医療現場も同じことだ。医療従事者は、病気や死というものを自ら経験することなしに、立ち向かっている。

 いまだ経験していないことにどう対峙していくのか。

 フィクションは可能性を秘めている。

2012-05-30

社会全体の思考停止

 今回紹介するのは、フィクションではなくドキュメンタリーである。

 ドキュメンタリーにはフィクションとの共通点があるのではないかと思う。普遍性とでも言ってよいかもしれない。その普遍性は、ひょっとして大きなテーマのひとつではないか、とにわかに確信している。

「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)



 オウム真理教の信者を追ったドキュメンタリーである。ここに描かれているのは、そしてとても印象に残ったのは、当時のオウム真理教の姿ではなく、1995年当時の日本の姿である。

ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。(p. 89)


事実と報道乖離するのは必然なのだ。今日のこの撮影だって、もし作品になったとしたら、事実とは違うと感じる人はたぶん何人も出てくる。表現とは本質的にそういうものだ。絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの嗜好や感受性が異なるように、事実も様々だ。(p.171)


 なにかひとつの客観的「真実」がどこかに存在するわけではない。ドキュメンタリーであっても、フィクションであっても、その「作品」の作成プロセスは異なっているとはいえ、ひとつの表現である。ニュースだってそうだ。それらの表現に、本質的な違いはない。

 一橋大学の学生のディスカッションの場面は象徴的だ。

「全員が同じ情報で同じ思考に陥るよりはましかもな」
「でもさ、けっこうやばい状況かもしれないぜ、それ」
「欧米では、メディアリテラシーの意識は確かに日本よりは数段進んでいるわよ。メディアの状況は同じようなものだけど」
「何かさあ、自分の言葉でものを考えられないメディアの構造って、オウムの構造に似ているよな」
メディアだけじゃなくて、社会全般じゃない?本質的には変わらないわよ」(p.172)


 社会全般の思考停止。このドキュメンタリーを読んで、2012年の日本は、1995年当時の日本と何ら変わっていないのではないかと感じる。

 あれから17年の歳月が過ぎ、いろいろな事件が起きた。日本人のメンタリティや社会構造に問題があるとしたら・・・そんなようにも思えてくる。

2011-11-04

レイモンド・カーヴァー

 作家は現象を巧みにコトバに変換して表現する。

 もちろん、フィクションでは、その現象が実際に起きたことかどうかは問わない。しかし、コトバの表現には、あたかもその現象が目の前で繰り広げられているかのような臨場感が必要だ。

 作家はそのような技術を兼ね備えている。

 フィクションは現象をコトバに変換する様式のひとつであるといえるだろう。

 レイモンド・カーヴァーの短篇集を読んだ。


大聖堂

 妻の知人の盲人が家に泊りにくることになるという場面が描かれている。

 「大聖堂がどういうものなのか、あなたにうまく伝えることができないんです。」

 関心のないこと、見ていると思っていて実はよく見えていないことがどれだけ多いことか。

 現象をとらえてコトバにして伝えることの難しさが伝わってくる傑作だ。

ささやかだけれど、役に立つこと

 子供を亡くした両親と、毎日ただひたすらパンを焼き続ける子供がいないパン屋。二つの物語がどのような結末を迎えるのか。

「あたしは忙しいんだよ。仕事がいっぱいあるんだ」

 愛するものの死に対する絶望感を描きながら、生きるとはどんなことか、社会はどうあるべきか切実に考えるよう読者に迫ってくる。医療者側としても、学ぶことの多い作品だ。


 他にも「収集」「足もとに流れる深い川」など、喪失や死を取り扱った作品が並ぶ。

 それにしても、フィクションをじっくり読みこむことは、とても疲弊する。体力がいることだ。

2011-10-23

経験していないことの記憶をたどる

 物語をどのように作っているのか、フィクション化の作成過程に興味が湧く。作者のインタビューではその秘密の一端が垣間見える。

 村上春樹さんの数少ないインタビューの中で、この部分の解説はやや具体的だ。

少年カフカ

少年カフカ



 一見してマンガに見えるこの本は「海辺のカフカ」が出版されてから、期間限定で公開されたホームページに寄せられた、読者からの質問に村上春樹さんが答えたものを、本にまとめたものである。その中の、特別インタビューの部分から。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)


フィクション化ということ

 「海辺のカフカ」の神話性についての質問で。

 僕がやるべきことはたぶん、それを言葉で説明することではなく、物語という新しい土地に移しかえることなんだよね。というか、物語的にそれを俯瞰すること。そこにあるビジョンを、フィクション総体にぱっと焼きつけてしまう。

 そこで、レインマンが床に散らばったおはじきを数えることを例える。

要するにものごとをべつの回路に放り込んでしまう。そしてその回路の持つ特定の整理を通して物事を理解する。簡単に言えばそれがフィクションということです。


 神話というのも、要するに別の同時的回路なんです。神話という元型回路が我々の中にもともとセットされていて、僕らはどきどきその元型回路を通して同時的にものごとのビジョンを理解するんです。<中略>物語が本来的な物語としての機能を果たせば果たすほど、それはどんどん神話に近くなる。

 ここではまさにフィクション化という言葉を使って説明されている。

 そしてさらにその後、小説を書くというのはどんなことか、という質問に対して。

 小説を書く、物語を書く、というのは煎じ詰めて言えば、「経験していないことの記憶をたどる」という作業なんです。もっとわかりやすく言うと、あなたが未経験のロールプレイング・ゲームをする。でもそのゲームをプログラムしたのはあなたなんです。でもその記憶は、ゲームをするあなたの人格から失われてしまっている。その一方で、そのプログラムをしたあなたの人格はゲームをしていない。そういうかなり分裂的な作業なんです。


 経験していないことの記憶をたどると、それは自然に神話に近くなっていく。人間の頭脳の構造は古来からそれほど進化していないということかもしれない。

 経験していないことを経験する、あたかも経験したかのように体感できる、そのような錯覚を生む技術が、フィクションには必要なのだ。

 知れば知るほど、フィクションは高等技術に思える。「経験していないことの記憶をたどる」については、もう少し考えてみたい。

2011-10-22

科学と人間の対話を

 先人たちが残してきた知恵や警鐘、3.11後にようやくわかることもある。坂本龍一さんが編纂した一冊の本を紹介する。

いまだから読みたい本――3.11後の日本

いまだから読みたい本――3.11後の日本


科学の進歩は何のためか

 この本の中で、手塚治虫さんの「ガラスの地球を救え」(1989年、光文社)が引用されている。その一部を紹介させていただく。

 チェルノブイリ原発事故について。

科学の進歩は、本来人類に幸福をもたらすはずだったものです。ところが、いまでは地球を痛めつける悪い奴になってしまった。かつて荒唐無稽だと笑われたこともあるぼくのマンガどころの騒ぎではおさまらない、危機的状況だといわざるをえません。


放射能による食物汚染もさることながら、薬品による汚染も相当なものだといわれています。しかも、その理由は大量生産して儲けを多くするためでしかない。そんなばかなことが、えんえんと続けられてきているのです。


 チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日。その悪夢は25年後の福島にも襲いかかった。

 「鉄腕アトム」は未来の世界が技術革新によって繁栄するという内容ではない。先端の科学技術が暴走すれば、幸せのための技術が人類滅亡の引き金ともなりかねない、ということがテーマだと手塚さんは強調する。

鉄腕アトム」で描きたかったのは、一言で言えば、科学と人間のディスコミュニケーションということです。


ディスコミュニケーションという点では、科学と人間もそうですが、いま地球と人類にそれが起きている。もっと地球の声に耳を傾けるべきだと思うのです。


 3.11後には示唆に富む。コミュニケーション不足が深刻な問題となっている科学の現場。科学を扱う人間同士の対話だけではなく、科学と人間の対話も忘れてはならない。