2012-01-21 山形浩生氏の再反論をうけて。

さっそく再反論が来てました。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120121
お忙しい中、わざわざありがとうございます。本当に感謝しております。
この議論で世間の皆様がすこしでも美学に関心をもっていただけているようで、こういうマイナーな学問をやっている者としてはありがたい機会であります。
でも相変わらず、山形氏は議論の問題設定を誤解されているようなので、ちゃんと書いておきますね。
1.山形氏の誤解
注意して欲しいのは、ここで議論されているのは
「いきなり目の前に人工物だか自然だかよくわからないものが出されたときに、それをわれわれはどのように判別し、どのように見ることができるのか?」という問題ではありません。
本ちゃんと読んだひとはわかると思いますが、
ここで問題になっているのは
「いままで自然樹木が生えていたような場所に、(植物の維持費削減などのために)代わりにそっくりのプラスチックの木を植えることは、倫理的・美的にどのような問題があるのか?」
という点です。
これはたんなる哲学的な仮想実験ではありません。
本ではより詳細に具体事例が説明されていますが、実際に1972年、ロサンゼルス当局が街路樹をプラスチックの木に植え替えようとし、議会や道路委員会を巻き込んだ騒動が起こったのです。
また、おなじく1970年代には、セコイア国立公園にプラスチックの木を植えようという動きもあったようです。
つまり、これはただの思弁的な美学者の机上のお遊びではなく、こうした実践的な問題に哲学的に答える作業なのですね*1。
さて、本書の議論は、こうした実際の事例を下敷きにしたものです。
ポイントは、観賞者はすでに目の前にあるものが「人工物」であることを知っている、という点です。
「あまりにそっくりなものを、はたしてわれわれは別のカテゴリーに振り分けて見ることができるのか?」ということは問題になっていないのですよ。
だから「あるモノを前にしたとき、それをどのカテゴリーに分類するか、どうしてわかるの?」とかいう考え方に進んでるのでしょうね。
「うんこの味は俺にはわかる!」とか言われても困ります。そういう話してるんじゃないんです。
こういう学術書を読むとき、自分好みの問題設定を勝手にもちだして、恣意的に読んではいけません。著者が何を問題にしていて、なにを主張するために、何を根拠に持ってきているのか、まず、そこを理解しましょう。基本です。こんな激しい誤解してるのに「美学とかいう分野そのものの抱える問題なのかな」とか言われると、マジかんべんしてくださいよ、って思ってしまいますが、どうしましょう。
(ただ、味覚の話を出したのは別の意味でちょっとまずかったかもしれません。これについては注で。*3)
先のエントリで述べたことの繰り返しになりますが、
(自然物であれ、人工物であれ)われわれが何かを観賞するとき、われわれは見えるもの(聞こえるもの)だけを材料にしているわけではありません。
観賞経験には、「それが何なのか」についての知識・理解が大きく作用しています。
そこで体験されているものが、「うんこ」か「カレー」か、「自然樹木」か「プラスチックの木」か、「たわしのはいった箱」か「ウォーホルがつくった芸術作品」か、といったことの理解が、観賞経験を決定的に変化させますよ、というのがこの話のポイントなのでした。
2.プラスチックの木の美的な悪さについて
山形氏は「体験として同じではないことはいえても、それが「まちがっていて悪い」とは言えない」と言っています。
これはたしかに、ひとつの反論ではあります。
でも、これについて西村が議論してないわけではありません。
先のエントリでも書きましたが、自然樹木をプラスチックの木に代えると、「悠久」とか「生気がみなぎっている」とかいった美的性質が失われるのですね。
山形氏が引用している箇所のすぐ後の段落ではこう言われています。
「われわれはプラスチックの木の葉の色を「緑」と名指し、庭の木の葉の色も「緑」と呼ぶ。だが自然の葉は、非美的で物理的なレベルでまさに自然の複雑な有機的プロセスの内部から生み出された所産としての「葉〈である〉もの」がもつ「生気と水脈をもつ緑」を見せ、美的に「しっとりとみずみずしい」が、プラスチックの葉は、それが自然の葉の緑と同じ波長をもち見た目に区別はつかないとしても、それが見せるのは人口の「顔料〈である〉もの」の「生気なく乾燥した緑:という非美的な特徴に依存した「まるでみずみずしく見える」という美的な質以上ではない。」(pp.172-3)
プラスチックの木に取り替えると、自然物特有の美的質のいくつかが失われてしまう、というのがここでのポイントです。
だから「間違っているし、わるい」という表現がなされるわけです。
これは決して「自然じゃなくなるから悪い」という単純な主張ではありません。山形氏はどうしてもトートロジーに持っていこうとしてますが。
われわれが評価している重要な質のいくつかが、失われるから「悪い」のです。
ただ、もちろんプラスチックの木に、こうした弱点を補うほどの利点があるかもしれません。それも美的な利点が。
そこのペイオフについては、もしかしたら議論の余地ありかもしれません。
興味がある人は、頑張ってください。
3.プラスチックの木を美的に見ることの倫理性について
おまけ。
ヽ(`Д´)ノ「もう「自然」とかいう考え捨てちまえよ!そっくりなもの作れるんなら、それを美的に楽しめばいいだろ!」
こういう意見がでてくると、
人工樹木を美的に見ることそのことは、倫理的に許されることなのか?という話になってきます。
西村の立場は、「最終的にはそれは文化依存的であるが、現代のわれわれからすれば、ロサンゼルス当局のプラスチックの木を美的に楽しませようとするやりかたは、やはり倫理的に問題がある」というものだと思います。
まぁ原子レベルで自然物を複製できるような「スーパーゼロックスマシーン」ができた未来の社会ではどうなるかわかりません。
ただ、現時点でのわれわれとしては、やはり容認しがたい、というのが西村の立場です。
なぜなら、自然樹木を人工物に置き換え美的に楽しむことを許すことは、プラスチックの木が表現しているような「浪費や無視や断念といった質をもたらした価値観や態度を「実際に是認するわけではないとしても、すくなくとも大目に見ることを要求する」」(p.208)からです。
このへんの議論は、本書第五章五節「環境倫理と美学」を御覧ください。
はい。うまく宣伝にもなりました。
amazonの在庫見るかぎり、本自体はぜんぜん売れてないけど。
最後にいちおう言っときますが、わたしわざわざ「弟子筋」だから反論してるわけではないですからね。
間違ったおかしな評判がひろまるを止めるのは、学者として当然のお仕事です。
あと弟子であるわたしであるからこそ言えますが、ここ一二年のあいだに西村に一番反論してるのは、わたしである自信があります。
では。
森功次
2012/01/224時09分追記
なんかまた再反論きたと思ったら、また甚だしく変な方向に誤読している。
わたし「具体的事例から出発してる」って言ってるだけで、議論そのものは一般論だっつーの。
「いままで自然樹木が生えていたような場所に、(植物の維持費削減などのために)代わりにそっくりのプラスチックの木を植えることは、倫理的・美的にどのような問題があるのか?」
って俺書いてるよ。
これぜんぜん個別例じゃなくて、一般的な話じゃん。
たしかに「悠久」は僕が「渓谷の岩」について言われている性質を引っ張って来たので、街路樹に当てはまらないかもしれないけども、街路樹に「生気がある」って言えないというのは、ちょっと無理筋。
個別例を一般化してはいけません。
そして、そもそも議論のポイントは「自然物にあてはまる価値性質が、人工物にあてはまらなくなる」ってところでしょ。
何度も言ってるじゃない。
山形さん、もうここまで来ると、ただ文句付けたいだけにしか見えないんですが。
議論を前進させようって気はないのでしょうか*4?
しかも
「美的に悪い」を「許し難い邪悪な行為」に読み替えたり、ひどい。
ある点で「悪い」からといって「許され難く邪悪」になるとは限らないし、「いくつか事例がある」「文句も言わず行われている」からといって「悪くない」ということにもなりませんよ。
あと、繰り返しますが、ここでやってるのは一般論なので、実際に検証しなければ議論できない問題でもないです(まさか山形氏でも「アンケートとって検証しなければ哲学しちゃダメ」とか言わんでしょう)。
もちろん検証したらもっと面白い話になるとおもいますが、それはまた別の話。
まぁもう山形さん飽きたから終わるっぽい。残念だな。
忙しい人にここまでつきあってもらっただけでも、お礼を言います。
楽しかったですよ。
これを機に、美学という学問に興味が出た人もいるようですし。良かったんじゃないでしょうか。
私としても、いい議論の勉強になりました。
*1:このように書きましたが、わたしは、メタな視点から考えようとする形而上学者の姿勢は、非常に意義のあるものだと考えていますよ。たまには形而上学的な視点にたつことも重要です。
*2:だから先のエントリで「ちゃんと読めてるの?」と書いたのですが。
*3:なぜまずいかというと、視覚的な美的体験と味覚体験を厳密に区別しようとする人はいるからです。「美的経験とは無関心的(disinterested)なものだ」という考えをつよく捉える人のなかには、食事の快を美的経験として認めない人もいます。僕自身は、「味覚経験も美的経験の一種になりうる」と考えていますが、これは必ずしもコンセンサスがとれている考え方ではないのです。なので、味覚で考えたくない人は「デパートのショーケース内に入ってる財布」と「恋人からもらった同モデルの財布」の区別で考えてください。ポイントは「物理的にほぼまったく同一で外見的には判別不可能だけども、別の認識カテゴリーに置かれる2つのもの」という点です。恋人に財布あげたのに「あー、あれ弟にあげた。でも同じの買ってきて使ってるよ」って言われたら、「ちょっと待て」ってなるでしょ。 「財布は美的経験の対象じゃないんじゃないか」という指摘を受けました。「便器」と「デュシャンの《泉》」にしましょうか。もっと面白い例ないかなー?「本物」と「見た目では判別不可能な贋作」でもいいかも。
*4:めんどくさいなら、わざわざ喧嘩売るような芸風やめりゃいいのに。

コメントありがとうございます。
はじめにひとつ注意を。
ここで言われている「美的」「非美的」とは、aesthetic, non-aestheticの訳語です。
美しいかどうかではありませんし、価値の高低とも関係ありません。
「生気がない」とか「乾燥している」とかは、観賞者の感性によって判定されることがらではなく、誰にでも見て取れる、物理的に判定可能な事実です。
さて。
プラスチックの木擁護派が「外見が同じになれば、まったく同じ経験ができるよ」と主張しているのに対して、
西村は「外見が同じになっても、失われるものがあるよ」という反論をしているわけです(山形氏は、問題をずらしてまったく別の論敵と戦わせようとしてるようにも見えますが)。
そして、「自然史の一部を構成する価値」だとか、「生命の活力」といったわれわれがこれまで価値あるものと見なしていた要素が失われてしまう、というのは、別に論点先取ではないですし、常識にそぐうひとつの意味のある主張だと思うのですが。
プラスチックの木擁護派が「そんな常識とか捨ててしまえ!」と言うのであれば、それはかなり強い主張をすることになります。
すくなくとも、日常的な常識を捨て去らせるほどの大きなメリットを提示する必要がありますね。
立証責任はプラスチックの木擁護派にあるとおもいますよ、わたしは。
もし山形氏がそういう立場なのであれば、ぜひ頑張っていただきたいところです。
どちらに立証責任があるかという点が、対立点のひとつなのでしょうね。というのも、「そして、「自然史の一部を構成する価値」だとか、「生命の活力」といったわれわれがこれまで価値あるものと見なしていた要素が失われてしまう、というのは、別に論点先取ではないですし、常識にそぐうひとつの意味のある主張だと思うのですが。」というのが常識レベルの印象論でしかない、というのが山形さんの主張のようなので。山形さんは「常識的に考えてそうでしょ」というだけでなくもっと哲学的に掘り下げられた議論(それがどんなものかわかりませんが)を期待しているのではないかと思います。
あと、細かいですが、「「生気がない」とか「乾燥している」とかは、観賞者の感性によって判定されることがらではなく、誰にでも見て取れる、物理的に判定可能な事実です。」という主張に関してですが、山形さんは、西村さんの「完全なレプリカ」という概念に関して、「形式的、感覚的に自然の木と、人間の分解能レベルでは区別がつかないプラスチックの木ができたら?」という問いを投げかけています。もしこの可能性を真剣に受け止めたうえで議論するなら「誰にでも見て取れる、物理的に判定可能な事実です」という主張はできないと思います。「自然樹」と「プラスチック製の完全なレプリカ」を比較する際の「完全なレプリカ」をどういうものと想定するかというのが対立点でしょうか。そもそも生気のあるなしって「物理的に判定可能な事実」なのでしょうか。
また、「ここで言われている「美的」「非美的」とは、aesthetic, non-aestheticの訳語です。美しいかどうかではありませんし、価値の高低とも関係ありません。」という点ですが、美的・非美的に関わる私のコメントの趣旨は、西村さんは美的・非美的の区別の根拠を示す必要があるのではないかという点でした(価値の高低に関するコメントは「みずみずしい」「生気なく」といった記述に対するものです)。エントリ中に引用されている西村さんの文章(pp.172-3)は「生気ある」が美的性質で「生気のない」が非美的性質と主張しているように読めるのですが、この区別の根拠がよくわからないということでした。
「常識レベルの印象論でしかない」という反論が有効なのは、それを覆すだけのメリットが有る時だけです。
「常識に即している」というのは、場合によってはアドバンテージなのです。
哲学というのは、なにもつねに「常識を疑う度合い」の勝負をしているわけではありません。
常識をくつがえして欲しいという期待をするのは勝手ですが、別の論者を相手に議論しているところで、変な期待をもって入ってこられて、お門違いな批判をされても困ります(ちなみに、これはむむむさんへの批判ではありません。そしてそういう人に、筆者ではない僕が答えるのも変な気もしますけど)。
「分解能レベルで区別がつかない木ができたら?」という疑問についてですが、観者が「これは精巧につくられたレプリカである」という知識を全くもっていないのであれば、自然の木として見るのと同じ体験をするでしょう(これはわたしの前エントリのなかでも言ってます)。
もちろんいつか未来において、そうした技術が確立され、われわれの自然に対する価値観が変わるかもしれません(西村も、そうした留保をちゃんとつけてます)。
しかし、現在の社会において、たとえばロサンゼルス当局を説得するにあたっては、そうした主張はあまり説得力をもたないと私は考えます。
われわれはまだ自然の生命力などを評価する社会に生きているのですから。
そして、現代の社会においては、まだ「生気のあるなし」は物理的に判定可能だとおもいます。
生気のあるプラスチックの木はまだ作れてないでしょう。
生気のある人工樹木ができたらわれわれはどう価値観を変化させるべきか、というのは、この本の主眼ではありません。
そこを責められてもなぁ、べつにそれ目的じゃねーし、というのが、正直な感想だとおもいますよ、西村も。
美的、非美的の区別は、西村は基本的にフランク・シブリーの説に依拠しています。わたしとしては、シブリーの区別で十分な根拠となるとおもいますが。
(といっても、シブリーの区別なんて、普通の人は知らないと思いますので、少し解説しときます。
おおまかにいって、美的質は
1.非美的質に依存する。
2.観賞者の趣味判断によって識別される。
3.非美的質によって条件的に支配されない。
などの点から規定されます。
非美的質は、「誰が見てお同じもの」「非美的な性質によって、条件的に規定できるもの」くらいで考えて下さい。もっと知りたい人はシブリーの論文を読んで下さい。)
この区別でいえば、「みずみずしい」「生気がある」は美的質です。
「生気のない」という語は、美的質を指すときにも、非美的質を指すときにも使えますが、あの文では非美的質を指すと読むべきです。文脈的にそれは明らか。
ちなみに、ここまで書いておいて何ですが、あの引用文のポイントは、美的ー非美的の差を言っているのではなく、自然樹木には「みずみずしい」と言えるのに対して、プラスチックの木には「みずみずしく見える」としか言えない、という点にあります。
重要なのは、何が美的質で何が非美的質か、ではなく、いままで美的質として評価されていた質が失われる、という点です。
最後のコメントに対してですが、
お門違いな期待からではなく、ほんとうにこの議論にのっかったうえで、「常識的に考えて自然樹のほうが美的にいよね」という主張を批判するのであれば、「常識的に考えて自然樹のほうが美的にいいとは言えない」とか「プラスチックの木には常識を覆すほどのメリットがある」といった主張を、ちゃんと筋立ててして欲しいところです。
そしたらもうすこし、生産的な議論が始まるとおもいます。
自然な木のほうが綺麗でいいよね、というのにはロサンゼルス市民も、ロサンゼルス当局ですら積極的に反対はしないでしょう。
ロサンゼルス当局がプラスチックの木を選んだのは、そっちのほうが、メンテの手間も含めて安いからでしょう。
反論するとしたら、そのコストの部分についてであって、それに至らない反論は、反論になっていないでしょう。
文脈をまだ理解されてないようなので、一言だけ。
ここで議論されているのは、「美的・倫理的に問題なのか」という点です。
「最終的に植え替えるべきか、どうか」ではありません。
メンテナンスコストなどとのペイオフ問題は、また別の話です。
西村が批判しているのは、「美的・倫理的に問題はない」という人たちですよ。
交通整理ありがとうございます。
だんだん議論が咬み合ってきましたね。
ただ、ちょっとだけ。
微妙なニュアンスですが、「『われわれが評価している』とおっしゃるのは、あなたたちだけでしょ?」という、議論とはすこし異なる気がします。
というのも、おそらく、この議論はどちらも「われわれは自然を評価している」という事実は認めていると思われるからです。
程度の差はあれど。
で、ここからはppqqさんがおっしゃっているとおり、その評価がプラスチックの木にしたときにどれくらい失われるのか、という議論になります。
そして植物模造技術が発達し、われわれの自然観が変わったときには、その差が無視出来るくらいになるかもしれません(繰り返しますが、これは西村は認めています)。
ただやはり重要なのは、「模造植物は、あくまで自然を模倣しようとしてつくられたものだ」という点です。
そうでないならば、全く新しいべつのオブジェを置けばいい。
模造品が本物を志向して作られている以上、そこに届かずに失われているものがあれば、やはり「悪い」「間違い」ということになるでしょう(もちろん、模倣によって別の価値が生まれることはあります。「そっくり」とか「精巧」とか。)。
ここで言われている、「美的に悪い」「まちがい」とはそういう意味です。その意味合いは、本読めばはっきりしていると思います(まぁ西村の書き方も悪いのですが)。
この「悪さ」は薄くなりはすれ、模造であるかぎり、なくなることはないものだろうというのが私の(そして西村の)考えです。
あとは、その悪さをどれくらい重視するかですね。
「無視しうるものである」という論者が、どの程度の根拠を持ってくるかに期待します。(一応述べておきますが、「無視出来る」と「悪くない」は同義ではありません。)
そしてここから先は、もう多数決勝負なのかもしれません。その場合、哲学的議論よりは、社会学的アンケートのほうが適切な論拠になるでしょう。(その意味で、山形さんの「アンケート取ったの?」という発言に意味がないわけではありません。)
ちなみに、ロサンゼルスのケースでは反対者が多かったので植樹は中止されたらしいです。
模造技術が発達した現在では、無視出来ると考える人も増えてそうですが(実際、ホテルなどで、プラスチックの木を用いるケースは増えてます)。
ただ、ホテルや中央分離帯の植物程度ならともかく、セコイア国立公園の樹木をレプリカに植え替えようというケースでは、レプリカ技術が相当進まないかぎり、ほとんどの人が反対するのではないか、というのが私の感想です。
第一に、人工樹木は「オリジナル」ではないから自然の樹木の美的価値に及ぶはずがないという前提は、よく根拠づけられていないように思います。「たとえ完全なレプリカであっても」レプリカである以上オリジナルには美的に及ばないというのはどうしてなんでしょうか(私は頭悪くてよくわかりませんでした)?
第二に、その前提がかりによく根拠づけられていたとしても、たとえば、枯山水は自然の清流を模倣しているが、模倣であるがゆえに美的によりいっそう悪いとか、17世紀オランダ静物画は自然の切り花を模倣しているが、模倣であるがゆえに美的によりいっそう悪いとか言うひとがいたら、それは自明な価値判断ではないと思いますが、どうなんでしょう。枯山水と河川とどっちがよいと言われて、前者と答えることにはあまり違和感を感じませんよね?
第三に、人工樹木と自然の樹木の美的価値を比較にする際に、もっぱら自然の樹木がもちうるような価値だけを「比較の尺度」にしていますよね?でも美的な価値って自然美だけ(ではないですよね)?枯山水の場合と照らすと、問題は、プラスチックの樹木が「オリジナルの模倣だから」悪いというだけではすまないのでは?
ああ、でも、私はオリジナルの本を読んでないのでいろいろ言ってしまってごめんなさいです。
「われわれは自然を評価している」という出発点に不満はないし、素朴だが力強くもあると思う。「環境美学」というジャンルをなんとか成立させ、日本国の環境の美の向上に貢献しようとする姿勢も立派だと思う。
ただ、その手法を政策評価に適用しようとするとき、1970年代といういくらなんでも古すぎる事例、しかも「プラスチックの木」なる稚拙なお題で語ろうとするのはどうかと思った。
もし哲学的なアプローチを主体にするのであれば、たとえば「遺伝子組み換え植物(姿かたちはまったく同じで病気に強く管理コストも格安。ただし遠い未来、どのように進化し、環境に影響を与えるかは不鮮明)」を想定し、比較・検証するべきでなかったのか。人工物と自然物に差異(「美的悪さ」の濃淡)があることは認めるし、それが「規範的良い/悪い」の評価とも関係がないという主張はわかる。しかし、それならば山形氏が指摘しているようにいわゆる「人間の分解能レベルでは区別がつかないプラスチックの木」にまで言及し、議論として話題を膨らませる必要があったように思える。「差異(濃淡)があるよねー」という主張だけでは、そこまで目新しいものでもないし、学問としての評価もたいしてできないのではなかろうか。(もし「遺伝子組み換え植物」を想定する場合、「自然物に人間のアルスを追加したモノ」を比較対象にしなければならなくなることに注意)
また、その評価軸を政策評価に適用するのであれば、上手に適用するためのフォローアップ的な記述がもっとあるべきだった(本に記述があるのであればごめんなさい)。なぜならば、誰しもが「人工物と自然物は違う」とわかった上で「人工物で代替できるのではないか」と提案しているからだ。もし「違いは無視できる/できない」という対立点があったのならば、西村氏は「でも違う」と同じことを繰り返すのではなく、「違ってはいけない理由」を書くべきだったのではなかろうか。
西村氏の論文を読まずに意見をさしはさむことはたいへん無礼だと承知しつつ、それでもブログ上のやり取りを見て判断するのであれば、西村氏の論は「学問としてはそこまで評価できないし、政策評価手法としては論外」というところではなかろうか。山形氏の指摘と、だいたい同じところに落ち着くような気がする。
最後に追加すると、ブックマークコメントにあった「この人たちがボカロをどう評価するのか聞いてみたいね」は非常に面白いと思った。初音ミクの歌声は明らかに人工物であるが、ある特定の人々の中では「美的なるもの」として流通している。西村氏は、初音ミクの歌声をどう評価するのだろうか。「文化的依存だから今の状況ではまだわからない」と白旗をあげるのか、「環境美学の手法では判断できない」とするのか、「浪費や無視や断念といった質をもたらした価値観や態度を実際に是認するわけではないとしても、すくなくとも大目に見ることを要求する」と断罪するのか。気になるところだ。
想定される論敵は「プラスチックの木とリアルな木は同等の美的質をもつ」と主張しているけれども、プラスチックの木には「われわれが評価している重要な質」が失われている。たとえば「みずみずしさ」がそれである。それゆえ、想定される論敵の主張は正しくない。ここで、もしも論敵が「『重要な質』の損失は考慮に値する程ではない」という反論をしたいと望むなら、そのことの立証責任は論敵の側にある。――ここまでコメント返していただいたことについては、まったくよくわかりました。
で、私が話をちょっとややこしくしてしまった(ごめんなさいね)のは、次の点です。「プラスチックの木とリアルな木はタイプにおいて同一な美的質について、その同じ程度をもつ」と主張するような愚かな議論が本当に哲学的に問題なんだろうか。それとは別に、むしろ次のような議論が問題なんじゃないだろうか。
(ア)プラスチックの木がもつ美的性質のセットと、リアルな木がもつ美的性質のセットは異なる。たとえば、前者がもつみずみずしさを後者は欠いているかもしれないし、後者がもつポップな色合いを前者は欠いているかもしれない。
(イ)けれども、それらすべての性質は「美的性質である」という点では共通だと仮定しよう(よくわからんけど)。
(ウ)その場合、プラスチックの木がもつ「美的性質である」という二階の性質の程度(程度?)が人工物のそれを上回ることはありうる。
(エ)だから、単純に「プラスチックの木が『みずみずしさ』という性質を欠いているがゆえに、美的に人工物に劣る」という議論をだれかがするのであれば、そのような議論をするひとは美的性質のうちのある一定のタイプのものを人工物の美の特権的な判断尺度だと考えているひとであろう。で、それって特権的なの?
ポイントは、次の点にあります。西村先生の「自然の木を断念してプラスチックの木に代えることは、それがけっして自然の木の美的経験の代わりになることはないから、……まずは美的にまちがいであり悪いのである。」という推論はそれだけ読むと、信じられないくらい悪文。なぜかというと「プラスチックの木はある特定の美的性質を欠いている。それゆえ、それは特定の美的性質をもつかぎりでの、その特定の美的性質をもったものの代用品にはならない」というアホみたいに当たり前の議論ではなくて「それゆえ、それは美的性質をまったく欠いた下品で劣悪なクズである」という議論に見えるから。
まだ誤解されているようなので、もう一度言います。
これは「最終的な美的価値の総計が、どちらがすぐれているか」という話ではありません。
レプリカ樹木は、自然樹木を志向しながらも、自然樹木がもっている幾つかの価値を(原理的に)もつことができない、という話です。「間違っている」とはそういう意味です。
もちろん逆に、レプリカにしかもつことができない価値もあります。「精巧」とか「本物らしく見える」とか。
その結果、最終的に、あまりに精巧なプラスチックの木が、芸術的に評価されて、中央分離帯の樹木より価値をもつことはありえます。
ほぼ同時の投稿になったようです。2つ目のコメントに対してもほぼ同じような回答になりますが、
当該箇所は、「下品で劣悪なクズである」と読むような箇所ではありません(もうここまで来ると、該当箇所ちゃんと読んで、と言うしかないのですが)。
西村はプラスチックの木の最終的な価値が必ず低くなるという主張はしてません。
・自然樹木とプラスチックの木の美的経験は異なる。
・プラスチックの木は、自然樹木の美的質のいくつかをもつことができない。
これだけです。
僕もうどん食べたいです。
学問上価値がないかどうかは、ちゃんと本読んで判断しましょう。
(ア)プラスチックの木は自然樹木がもつ「みずみずしさ」をもつことが<できない>。
(イ)「みずみずしさ」を美的質である。
(ウ)だから、プラスチックの木は少なくともひとつの美的質をもたない。
これで全部、ということですね?そして<できない>理由は、それが模倣物だから、ということですね。乱雑なコメントにお応えいただきありがとうございます。本に興味がわきました(ほんとにそんだけなの、ということも含めて)
すばらしいまとめだと思います。
本読んでみて僕の理解がまちがってたら、また御指摘下さい。
議論のいい機会になりました。ありがとうございます。心から感謝です。
すこし疑問に思うことがあるので、形の上では、山形さんを擁護するーー誤解でなければーー仕方で質問いたします。
もし、議論の要点が、ppqqさんの仰るように
(ア)プラスチックの木は自然樹木がもつ「みずみずしさ」をもつことが<できない>。
(イ)「みずみずしさ」は美的質である。
(ウ)だから、プラスチックの木は少なくともひとつの美的質をもたない。
ということだと理解します。すると、
「 ○ ○ 」は、自然がもつ美的性質であるから、人工物であるプラスチックの木はそれを持てない
というのが議論の趣旨になりますから、そんなのは当たり前というか、ほとんどトートロジーに見えます。
しかも「[それが自然物であるか人工物であるかいう]理解が、観賞経験を決定的に変化させます」と言われていますから、
余計にそう思われます。つまり、
☆プラスチックの木であると理解することが、鑑賞経験において、自然的な美的性質の一つを失わせるのだ、と。
そうだとすると、
「[自然的美なる]カテゴリーが、どんな加工をしようとまったく不変に存在し続ける、という考え方」
つまり、一種のプラトン主義ではないかという批判は、効いてくると思うのです。
というのは、このカテゴリーを維持している限りは、議論はトートロジーに見えるわけですから。
ついでにもう一つ。
山形さんは、単純に「「美的に悪い」を「許し難い邪悪な行為」に読み替え」ているのではないと思いますよ。
「美的に悪い」プラスチックの木に変えるという行為は、
美的価値を失わせるという意味で倫理的に悪い行為だ
という推論を省略したのでしょう。
これは、「美的な善悪」も評価語である以上、それほど無理な議論ではないと思います。
もちろん、「許し難い邪悪な」はすこし強すぎるかも知れませんけれど、
そこは、強い言葉に筆を滑らせる傾向のある人ですから、割り引いて読めば良いと思いますし。
以上です。今回の刺激的なやり取りを見て、美学に興味がわきました。
西村先生の本を読んでみようと思います。
4点いいます。
1.
「Xは、自然が持つ美的性質であるから、人工物であるプラスチックの木はそれを持てない」というのは、たしかにトートロジーのようにも見えますが、Xに何が入るわけでもないので、意味のある主張になりえます。
そしてそもそも議論の推論のなかにトリヴィアルに真な推論が含まれるからといって、その議論に意味がなくなるわけでもありません。
たんに「妥当な推論」というだけです。むしろ推論に不備のないぶん、よい議論の足がかりになりえます。
「トートロジーだ」というのは必ずしも悪いわけではありません。
2.
これは「レプリカ樹木も、自然樹木と同様に美的に楽しむことができる」という主張に反論するための議論の一部です。
その議論の流れを踏まえると、「プラスチックの木は自然樹木がもつ価値の一部をもつことができない」というのは十分意味のある主張です。
そこから「レプリカ樹木は、自然樹木と同様に美的に楽しむことはできない」という結論が導かれます。
また、プラスチックの木を観て感じる違和感を説明してくれるという点でも、これは有意義な議論です。
3.西村は自然というカテゴリーをプラトン主義的に用意しているわけではありません。
むしろ文化相対的なものとして捉えています。
第一章を読んで下さい。
4.
山形氏の発言をどう差っ引くにしても、「美的な悪」を「倫理的な悪」に直結させている点で、西村の議論を追えてないと思います。
西村は「美的価値を失わせるから倫理的に悪い行為だ」とは言っていません。
むしろ、模造樹木を美的に楽しむ態度を取ることは、現代のわれわれがもっている自然の価値を軽視することにつながるから悪い、と言っているのです。
ここでは美的価値の増減が倫理的価値の増減に直結するわけではありません。
問われているのはむしろ、美的態度をとることそのものの倫理性です。
五章五節を読んでいただければよいかと。
以前より理解できました。
みなさんのやりとりを見ていると、結局、
西村はプラスチックの木の最終的な価値が必ず低くなるという主張はしてません。
・自然樹木とプラスチックの木の美的経験は異なる。
・プラスチックの木は、自然樹木の美的質のいくつかをもつことができない。
これだけです
という指摘に集約しそうです。この結論って、
人工物と自然物は、(1)物理的に違うし、(2)それらに対する我々の理解も異なるから
(3) 我々の美的経験も違うーー自然物と人工物は代替不能ーーという話ですよね。
でも、だとすると、その我々の「理解」こそが要点であって、
それが有意味な仕方で解剖されない限り、あまり面白くないという気がします。
「「レプリカ樹木も、自然樹木と同様に美的に楽しむことができる」という主張」が、
敵役にされていますが、上の議論で論駁できるような意味で解されるなら、
この敵役がトリヴィアルに偽なのは明らかで、敵として、それほど魅力的ではないようにも思えます。
しかも、当然、その違いによる善悪までは主張しないとなると、
行われている議論は、正しい議論だとしても、
トリヴィアルだし役に立たないということになりませんか?
結局のところ、この議論の魅力って、何だったのでしょう?
だんだんわからなくなって来てしまいました。
どーもです。お役に立てたなら幸いです。
>nirasawaさん
本をお読みになってるかわかりませんが、今回定式化されたのは、第五章の二節の一部の議論だけです。
そしてその議論は五章全体の美的なものと倫理的なものとの関係について話をするための、途中の議論です。
一部を取り出して面白くないと批判されても、ちょっとなぁと思ってしまいますが、まぁ面白くないといわれれば、「すいません」というしかありません。
(とはいえ、僕がそこまで弁解する必要もあるのかよくわかりませんが)。
わたしは五章全体としては、意味のある話をしていると思いますし、学術的にも有意義だと考えています。
すくなくとも、「美的に悪くすることは倫理的に悪い」といったよくある考えかたを否定する有効な議論だと思いますよ。
まぁ読んでみてください。