昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

『分析美学入門』解説エントリ5、理想的観賞者について

ご無沙汰しております。『分析美学入門』解説エントリの続きです。



東北大の美学研究会の方から、『分析美学入門』第四章の理想的観賞者についてメールで質問を受けました。
理想的観賞者をめぐる議論のところはたしかにちょっとややこしくて、以前にもtwitter上で質問を受けたことがありました(http://togetter.com/li/581290)が、今回もまたこの箇所について質問を受けたわけです。

第四章は確かにこの本の中でもかなりややこしい箇所なので、その回答をこちらに転載しておくことは無駄ではなかろう、ということで解説エントリ代わりに、回答をUPしておきます。
「解説エントリ!」とか書いときながら、手抜きですいません。



質問は以下のようなものでした。

今は第4章を読んでいるところです。質問は「理想的観察者」についてです。
http://togetter.com/li/581290も拝見したのですが、もっと初歩的なところでつまづいております。

1.ステッカーの言う複数形の理想的観察者が、どういう存在なのかいまひとつわかりません。
意見が一致するとは限らない複数の観察者の集合にIdealという形容詞をつけた場合、Idealの意味がよくわからなくなってしまうのです。

2. 理想的観察者かどうかの基準がわかりません。
ある性質を見抜くかどうか(いわば0か1か)にかかっているのか、どの程度見抜くかの程度問題にもかかっているのか、どちらでしょうか?

3. 理想的観察者と、カントやヒューム的な意味で「良い趣味」を持つ人との異同がよくわかりません。

4. 理想的観察者は、1次性質と2次性質の場合には存在しないのでしょうか?


僕からの回答は以下のとおりです。


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理想的観賞者という考え方については、あの本の中でもややわかりにくい箇所だと思います。
というか3章、4章はあの本の中でもかなり込み入った専門的な議論をしているところなのです。
(それはそれで皆で議論できる「授業向け」の箇所でもあるですが)。
ご指摘の通り、以前ツイッター上でも一橋大学の井頭さんと少々やりとりがありました。
まぁ難しいところです。


以下、ご質問に答える形で、少しわたしなりに解説してみます。


1. 理想的観賞者とはどういう存在なのか

理想的観賞者(これは「理想的批評家Ideal Critic」と言われたりもします)をどのような存在と考えるかは、論者によってもさまざまです。
美学史上ではヒュームの「趣味の標準について」(1957)という論文が有名ですが、ほかにも様々な場所で問題にされてきた問いだと思います。
現在でもしばしば、この問題をテーマにした論文が出ています。由緒ある、かつリアルタイムな問題です。
よって以下のものは、あくまで一論者の見解(というかステッカーの議論をわたしなりに解釈した説明)と思って読んでください。


おそらくステッカーは、理想的観賞者という言葉で、かなりすごい能力をもった存在者を考えています。
「現実の人間は理想的観賞者たりえない」という記述がそれを示唆しています。
その意味でこれは現実に存在する存在者ではありません。
ただその一方で、理想的観賞者が複数いる可能性を考えているあたりからすると、この「理想的」という形容詞を「唯一無二の絶対的存在」という感じで解釈する必要はないように思われます。
おそらくこの「理想的」は「批判すべきところがない」といったくらいで解釈すればよいのではないでしょうか。


理想的観賞者がその程度の弱い意味で「理想的」であるとするならば、理想的観賞者たちの間で解釈が分かれるケースも想像できるかと思います。
(そしてこの見解からすれば、理想的観賞者の判断は普遍妥当的なものではありません。)



2. 理想的観賞者の基準

上のような考え方における「理想的観賞者」は、ある種「トップダウン型」に規定される存在といえるかもしれません。
というのも、結果として現れてくる観賞・判断が「批判しどころがない」という点で「理想的」と言われるからです。


一方、理想的観賞者はどのような能力を持っていなければならないのか、という観点から理想的観賞者を定義しようとすると、いわば「ボトムアップ型」の定義になるかと思います。
たとえば先に挙げた、ヒュームの「趣味の標準について」(1757)では、ヒュームは5つの条件を挙げています。
(これは、美学史のなかでも最重要論文のひとつなので、ぜひ実物に当たって欲しいところです。)

  1. 知覚の繊細さdelicacy
  2. 批評実践practiceをくりかえし経験していること
  3. 他の作品と適切な比較comparisonsをすることができること
  4. 偏見prejudiceからの自由
  5. 良識good sense


ただこのヒュームの意見を受けて考えてみても、この5つの能力すべてを備えた理想的観賞者が複数いたときに、その観賞者たちの判断が一致するのかどうかはよくわかりません。
(このことは、ヒューム解釈におけるひとつの重要な問題です。「違う判断がありうる」と言っている人もいれば、「ヒュームの議論は理想的観賞者間の判断が一致しうる議論として読むことは可能」と言っている人もいます。)


※メールでの回答にちょっとだけ追記※
この辺りの問題をかんがえるために参考になる論文として、最近のものをいくつか挙げておきます。
-Jerrold Levinson. (2002) “Hume’s Standard of Taste: The Real Problem.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 60: 227-38.
-Mattheu Kieran. (2008) “Why Ideal Critics are not Ideal: Aesthetic Character, Motivation and Value.” British Journal of Aesthetics 48: 278-94.
-James Shelley. (2013)“Hume and the Joint Verdict of True Judges” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 71: 145-153.
ちなみにKieranの論文はどれも面白いのでオススメ。



ステッカー自身は、この理想的観賞者の基準について、そこまで確定的な答えを提示してはいません。
もちろんステッカーも、「色をきちんと見れるか」とか、「おかしな好みを持っていないか」といったヒューム的な基準はいくつか並べてはいますが、これが決定的に必要な能力だ!という議論はしていません。
これは、ステッカーが、理想的観賞者について考えるさいに「ボトムアップ型」のやり方を採らないからだと思います。
むしろステッカーは、観賞の良し悪しを、観賞者の能力よりも、「各観賞それぞれの場面で何かしら批判可能な点があるかどうか」という点から考えているように思われるのですね。
(『分析美学入門』の第二章「環境美学」の第8節でも「ある観賞はどういうときに批判されるのか」といった観点から議論を進めていました。)
わたしはこれはもっともな態度だと思いますし、批評実践にもそぐうものとして評価しています。



3.「良い趣味を持つ人」との違い

これは、「よい趣味」という言葉で何を指すかによります。
「良い趣味」を「適切な判断を下す能力」として考えると、「良い趣味を持つ人」と「理想的観賞者」とほぼイコールと考えていい気もします。


ただ、理想的観賞者を作品ごとに定めなおす立場からすると、良い趣味を持つことと理想的観賞者であることとの間にズレが出るかもしれません。
「特定のごく一部の作品だけを適切に評価できる者」をわれわれはふつう「良い趣味を持つ人」とは言わないのですね。
「良い趣味を持つ人」はどちらかというとボトムアップ型に考えられる存在だと思います。


もちろん、あるジャンルに限定した「良い趣味」を考えることも不可能ではありません。
絵画についてはよくわからないが映画については有能な批評家、というひとは現にいます。


「良い趣味」をそのように「ある特定の作品・ジャンルについて適切な評価を下すことができる能力」というように解釈すると、その者はそこまで強い要求を課されない存在者として考えられるでしょう。
たとえば、「クラシック音楽」を適切に評価できる者は、絵画や彫刻の歴史について大した知識は要らないでしょう。
一方、「良い趣味」を「あらゆる作品について適切な評価を下すことができる能力」というように解釈すると、その者にはかなり強い条件が課されることになります。



少し視野を広げて「何をもって良い趣味とするかは当の社会や共同体によって決められる」といったようなブルデュー的観点を持ってくると、また話はややこしくなります。
この場合はおそらく「特定の共同体に相対的で、しかも時代によって判断の変化を許す理想的観賞者」といったものを考える必要がある気がします。
こうした問題についてはステッカーは何も述べていませんし、僕もまだはっきりした自分の見解をもっていません。
ただたとえ共同体相対主義を採るにしても、「あの時期のあの団体は趣味が悪い」という言い方を可能にするような理論を作る必要はあるな、という気はします。
相対主義は、一見「なんでもあり」の単純な価値論であるかのようにみえて、ちゃんと日常実践を説明しようとすると、実はかなり細かい説明を要する立場になると思います。



4. 理想的観賞者説は、美的性質以外の性質ではどうなっているのか

色を「反応依存性質」として考える人からすれば、色について考えるさいにも理想的観察者は必要だ、というかもしれません。
ただ要求される能力が、「健常な知覚能力をもっている」くらいで、とくに特別な知識や趣味判断を求められるわけではない、という感じでしょうか。


ただ、1次性質については、理想的観賞者を用意せずとも議論はできる気はします。
1次性質はふつう誰かの反応に依存して規定されるようなものとは考えられないからです。
(ただ、「すべての性質は神様(もしくは自然)に依存する」といったようなラディカルな形而上学を採る論者からすれば、ここでも何らかの意味での「理想的観賞者」が用意されていると言えるかもしれません。わたしこのへんのガチ形而上学については素人なので、これ以上は何ともいえません。)




以上、わたしなりに四つの質問について答えてみました。
きちんとした解答になっているかわかりませんが、何らかのヒントになれば幸いです。
もし質問を誤解しているようであれば、またご連絡ください。


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回答は以上です。
読み返すとあんまりまとまった説明になってない気もしますが、何か理解の足しになれば、という感じです。
では。