歴史的仮名遣い(2)

 id:iwamanさん、再度ありがとうございました!私の意図を正確に汲もうとしてくださって感謝しています。それでもなお誤解があるのは残念でして、一言だけ。

もし、納得のいく説明をしてくれるのであれば、いつでも私は「現代仮名遣い」派に轉向する。

 いつ私が「現代仮名遣い」使用者への転向を仕向けるような説明をしたでしょうか。私は共存を説いていただけなのですが。

假に定着してゐたとしても、間違つてゐるものを使ふ必要はありません。

 「正しい」か「間違っている」かという対立項で考えているから、「歴史的仮名遣い」と「現代仮名遣い」は不倶戴天になってしまいます。「正しさ」とか「客観性」とか、そういうものが絶対的ではないということを先般申し上げてきたのですが、それがどうも理解されなかったようです。
 一番乱暴な例としては、「「歴史的仮名遣い」は、上代にはあった甲類・乙類の仮名やヤ行の「え」を書き分けていない。だからこれは日本語の書き方としては正しくない」、と仮に質問されたら、どう答えればいいのでしょうか。私の答えは簡単です。「「歴史的仮名遣い」は、そもそも平安中期あたりの表記法を基準にイロハ四十七字の枠組みで書き分けるとして設定された制度なのだから、別の表記の原理を持ってきて正しいか正しくないかという質問がおかしい」、と。
 しかし、「歴史的仮名遣い」が正しい、という立場から上の質問に反論できるでしょうか。なお、想定される反論として「奈良時代の頃は音の通りに表記していたのだから、それは仮名遣いではない。よって別問題である」というのがありますが、これはダメです。それを言ったら、平安初期〜中期には仮名遣いがあったのですか?
 条件が同じであれば、平安中期ではなくて奈良時代の仮名の用い方を規範にすることだって理論上は可能ですよね。だとすれば、上代仮名遣いやヤ行の「え」を書き分けるべきだという立場からすれば、「歴史的仮名遣い」は正しくなくなってしまうのではないですか。


 私はそういう「正しい」「間違っている」論争は不毛だと思います。「行方」、これを「歴史的仮名遣い」では「ゆくへ」と書きます。これ以外ないです。これが「正しい」表記のようです。しかし、これは「奈良時代には『ゆく弊*1』で、定家仮名遣いでは『ゆくゑ』で、歴史的仮名遣いでは『ゆくへ』で、現代仮名遣いでは『ゆくえ』と書く」、なのです。そういう幅のなかに私たちは生きてきて、そして、生きている。
 それを「いや、行方は、何がなんでも『ゆくへ』が正しい」というのは、「正しい」騎士道の実践を目指して風車に向かっていったドン・キホーテのような感じがしてなりません。それが言い過ぎなら、少々窮屈な感じです。
 「正しさ」なんてものを持ち出さなくても、「歴史的仮名遣いを使うのは、そのほうが嗜好に合うからだ」では、ダメなのでしょうか?ダメなのかな・・・。


 念のためにいえば、私は「歴史的仮名遣い」も「現代仮名遣い」も仮名遣いとしては不完全だと思っています。では、どうすればいいの?と訊かれると困るので、言わないだけですが。しかし、現実に、両方とも定着しています(してしまっている)。現代仮名遣いは日常生活のなかで、歴史的仮名遣いは古典学習の場で。前回申し上げた通り、『万葉集』や『奥の細道』を「歴史的仮名遣い」に直してしまうのは、その制度的な定着を表わしています。それをどうすべきなのか、というのはまた別の難しい問題だと思うのですが。

*1:「弊」はへ甲類