特別展覧会「シルクロード 文字を辿って――ロシア探検隊収集の文物」(@京博)(2)

 余談の続きです。

「79 『尚書』断簡 2紙」

 図録124頁。孔安国伝本。解説にある通り、「洪範九疇」の部分が残されています。「洪範」とは「偉大な規範」といった意味で、それには「五行」「五事」「八政」「五紀」「皇極」「三徳」「稽疑」「庶徴」「五福・六極」という九箇条(「九疇」)があって、『尚書』のなかでも比較的有名な一節です。
 第1紙には「五行」から「五事」の途中まで、第2紙には「五事」の途中から「皇極」の途中までが書写されていますが、筆跡からすると第1紙と第2紙は別人の手になるものでしょう。

数目は元来あったのか

 ここに『尚書』の本文異同にかかわる興味深い問題があります。現行の『尚書』では、九疇を列挙するに際して「五行」「五事」「八政」などの上に「一」「二」「三」などと数目を記します。つまり、「一、五行。一曰水、二曰火、三曰木……」や「二、五事。一曰貌、二曰言、三曰視……」や「三、八政。一曰食、二曰貨、三曰祀……」のように。箇条書きの体裁をとるわけですね。
 ところが、「洪範九疇」は『史記』宋微子世家にも引用されているのですが、そこでは「五行。一曰水、二曰火、三曰木……」「五事。一曰貌、二曰言、三曰視……」「八政。一曰食、二曰貨、三曰祀……」とあって、数目がありません。
 そこで、細かいことのようですが、また例のように清朝の学者たちはこれを問題視して、数目があるのが本来の形なのかどうかで議論がありました。さて、『尚書』の本文系統の問題はあまりにも複雑なので立ち入りませんが、簡単にいえば、数目は東晋以降に付けられたものだろうというのが江声らの説。それに対して、もとから数目が付された系統の本もあったのではないかというのが段玉裁や孫星衍の説。はやい話が、よくわからないのです。

二種類の本文

 その数目に注意してみると、第1紙の「五事」のところはこうなっています。

 数目「二」が「五事」の上にはっきりと書かれていますね。それに対して、第2紙はどうでしょう。


 「五紀」の上に数目「四」、「皇極」の上に数目「五」はたしかに書かれています。しかし、どうも窮屈で様子がおかしい(「八政」の上の「三」も窮屈です)。
 その当時(9〜10世紀)、西域では孔安国伝本のなかでも数目のある本とない本の双方が通用していたのではないでしょうか。第1紙の方は数目のある本だった。第2紙の場合は、当初、筆写者は数目のない『尚書』テキストをもとにして書写したのでしょう。それが後になって、数目が付された『尚書』テキストを入手した。今度はそれをもとに数目を書き加えたのではないか。もちろん、数目を書き込んだ人は当初の筆写者と別人という可能性もありますが。