Wikipedia "a message in a bottle" 項に出てくる謎の日本人

 (今回は参考文献・原典の調査不足甚だしいので、諸賢の御教示を賜りたく存じます)
 今朝こんなニュースを目にしまして。 http://www.theatlantic.com/technology/archive/12/09/found-worlds-oldest-message-in-a-bottle-part-of-1914-citizenscience-experiment/261981/
 午後になって「そういえば、手紙を容器に入れて流すということ、いつ頃から行なわれているのだろう?」と思ってぐぐったら Message in a bottle - Wikipedia がヒット。そこに、記録されている初出例は紀元前310年、などという眉唾な話に混じって、日本人による放流・漂着の例としてあまり耳慣れないエピソードが書かれていました。(私はこの時代に関して無知なので、あるいはよく知られている話かもしれない。)

In 1784 Chunosuke Matsuyama sent a message detailing his and 43 shipmates' shipwrecking in a bottle that washed ashore and was found by a Japanese seaweed collector in 1935, in the village of Hiraturemura, the birthplace of Chunosuke Matsuyama.

 日本語版には当該記事がないので Chunosuke Matsuyama のリンク先を見てみると、このエピソードがもう少し詳しく述べられていまして、

In 1784, Chunosuke Matsuyama, a Japanese seaman and 43 of his companions began a voyage to find buried treasure on a Pacific island. During the voyage, a storm blew the group's ship onto a coral reef and forced the sailors to seek refuge on a nearby island. However, the crew was unable to find fresh water or sufficient food on the island. With a limited food supply, consisting mostly of crabs and coconuts, the sailors began to die from dehydration and starvation. Before his own death, Matsuyama carved a message telling the story of his group's shipwreck into thin pieces of wood from a coconut tree, which he inserted into a bottle and threw into the ocean. Approximately 151 years later, in 1935, a Japanese seaweed collector found the bottle. The bottle had washed ashore in the village of Hiraturemura, where Matsuyama was born.

以下、試訳。

1784年、日本人の船乗りであるマツヤマ・チュウノスケと43人の仲間が、太平洋の島に埋蔵された財宝を探しに航海に出発した。その途中、嵐によって船は珊瑚礁に乗り上げ、彼らは近くの島への避難を余儀なくされた。しかし、乗組員たちは飲料水や十分な食料を島で確保できなかった。ほとんど蟹かココナッツのみという限られた食糧のもと、船員たちは脱水と飢えで死んでいったのである。自身が死ぬ前に、マツヤマはココナッツの薄い樹皮に遭難のことを伝えるメッセージを刻み、それを瓶に入れて海へと投げた。およそ151年後の1935年、日本の海苔漁師がその瓶を発見。それはマツヤマが生まれたヒラツレ村の海岸に打ち上げられたのであった。

 注に挙げられているRobert Kraske氏『The Twelve Million Dollar Note: Strange but True Tales of Messages Found in Seagoing Bottles』も未見ですし、1935年の新聞記事・雑誌記事も調査していませんが、何となく作り話っぽい。"verification needed" と宣告されるのも当然でしょう。ネットを検索してみればわかりますが、(出航年や人員数に異同がありますが)基本的にこのwikipediaの記事のコピペばかり。しかも割と広く流布している・・・
 ただ、もしこれが二年前であったら、「はははー、怪しい話だー」で済んだのですが、昨年拝読した『地図から消えた島々』(吉川弘文館)がまだ記憶に新しいので、だいぶ気になるのです。

地図から消えた島々: 幻の日本領と南洋探検家たち (歴史文化ライブラリー)

地図から消えた島々: 幻の日本領と南洋探検家たち (歴史文化ライブラリー)

 江戸時代中期に南洋に眠るお宝を狙う海賊みたいなやつがいるなんて・・・ということですが、いたらしい。

 享保一二年(一七二七)、小笠原宮内貞任と称する浪人が、幕府に無人嶋の探検を申し出た。貞任によれば、この島は、戦国時代の信濃国守護・小笠原長時の子孫で、自らの曽祖父である貞頼が文禄二年(一五九三)に発見し、「小笠原島」と命名、開拓したのだという。
 貞任は南町奉行大岡忠相の許可を得て、享保一八年一二月(一七三四年一月)、甥を島に向かわせたが、一行はそのまま消息を絶ってしまった。享保二〇年に貞任は再渡航を申請する。ところが、不審をいだいた町奉行所が、小笠原氏の本家である豊前小倉藩に確認をとったところ、重大な事実が次々と発覚した。貞頼は寛永三年(一六二六)まで再三にわたり島に渡航したことになっているが、その記録が見つからない。それどころか、そもそも貞頼なる人物の実在が確認できない。おまけに、貞任の提出した書類はすべて「筆写」で、原本は一通もなく、その内容にも不審な点がある。結局、享保二〇年一二月(一七三六年二月)、貞任は、怪しげな文書をもとに出願を行った、という罪で重追放となった。
 貞任は、無人嶋の開拓権を確保するために、「貞頼の小笠原島発見」という話全体をでっちあげたものと考えられている。その動機は定かではないが、提出文書の中に「金砂多し」といった記述があることから、金の採掘をねらったのではないか、とする説もある(鈴木高弘「無人嶋・ボニン諸島・小笠原島」『東京都立小笠原高等学校研究紀要』第五号、一九九一年)。もしそうだとすれば、貞任自身も何者かに騙されたか、あるいは自分自身をも騙していたことになる。そんなものは実在しないのだから。

(56〜57頁)
 以後の日本や欧米諸国による南洋探検の経緯については本書を御覧になっていただくとして、この Chunosuke Matsuyama に関しても、完全な作り話ではなく、固有名詞や日時や事件の仔細が少し誤って伝えられているだけで、ちゃんと基づくところがあるかもしれない、と思ったりもするのです。
【追記】@chelseazw さま(https://twitter.com/chelseazw/)が英語版wikipedia記事の情報源となったと推測されるNYTの記事(1962年6月3日付)を見つけだしてくれました。
 いずれにせよNYTにも原典は明記されておらず、ことの真偽のほどは依然わからない。