呂律 / a mode distinction Twitter

2009-12-21

[] 外延的定義・僥倖・外挿:その3  外延的定義・僥倖・外挿:その3を含むブックマーク  外延的定義・僥倖・外挿:その3のブックマークコメント

http://togetter.com/li/1953

  • @heis101さらに、「外延を近接させる作業」ができるためには、先行するやりとりについてのなんらかの理解が(=「選択肢が狭められ」ていることが)必要ではないですか?

    contractio
    2009-12-18 07:42:28
  • @heis101 そうだとすれば、@heis101さんの主張とは逆に、「近接作業」のほうが「選択制限」に依存する、と言えそうにおもうのですが、どうでしょう。

    contractio
    2009-12-18 07:43:41
  • .@contractio それ,まんま外延と内包です.定義,という作業は,どちらかでは成立しません.が,「言語化されないレベルでの外延的定義,内包的定義,それぞれの予見」というのは,無意識も含めた言語使用の問題であり,私にはその本質を論じるにはあまりに意識下について無知です.

    tricken
    2009-12-18 07:45:58
  • @tricken もう一声。

    contractio
    2009-12-18 08:12:21
  • @contractio すみません,「もう一声」に含意された質問文をブログ記事などにまとめて頂かない限り,あの議論はこちらで続ける気がありません(単純に,作業時間が莫大なのが眼に見えていて,それに対するペイは,質問文の精度の高さに左右されると考えているためです).

    tricken
    2009-12-18 08:15:37
  • @tricken どうぞ ご随意に。

    contractio
    2009-12-18 08:19:48
  • @tricken 「内包的定義」と「選択の制限」の関係について 教えてください。どのような仕方で 両者は「まんま」関係付けられるのでしょうか。

    contractio
    2009-12-18 08:23:45

承前:id:contractio:20091219#p1id:contractio:20091220#p1


http://togetter.com/li/1817 を端緒とする id:heis101さん・id:inflorescenciaさん──trickenさん(id:gginc)──とのディスカッションのためのエントリ。続き。

12月10日のエントリには、なにかもうひとつ書く気でいたはずなんだけど、何を書こうとしていたか忘れてしまった。それは思い出したらまた書く、ということにしたいが、ともかくも。

以上のエントリ二つで、trickenさんのリクエスト(右引用内 [08:15:37])には答えられたのではないかと思う。

というわけで、私のほうは [08:23:45] への回答をお待ちすることにしたい。




現在、inf.さんの返答待ちステータスでもあるので、この間に=このエントリでは、前2エントリに若干のまとめを加えつつ、heis101さんへのコメントいくつかを記す。


3-0

3-1 基本主張

前エントリ二つを見て、この件に関する私の側の基本的な主張は、すでに想像がつくのではないかと思う。2099 と被るが、こちらにももう一度書いておくと:

  • 【S1a】 やりとりの中で我々には非常に多くのことが分かっており、また多くの手がかりをお互いに与え合っている。
  • 【S1b】 だからこそ、やりとりが失調したときには どのあたりに問題があるのかの当たりがつくのだし、
  • 【S1c】 すでに分かっているたくさんのことに基づいて問題に対処していくこともできる。

 これ自体は、わざわざ書く必要もないほどあたりまえのことである。しかし、目下の状況では記す価値がある。というのは、私には お三方の主張がどれも、私たちの日々の社会生活の実情にまったく基づかない、まるで突飛なものに思われるからである。私たちが資源とすることができ・また実際に──たとえば1817においても──資源として用いているものの多くを無視したうえで、「Xは如何にして可能か」などという問を立ててしまうなら、それが奇跡のようにありそうにないもののように思えてきてしまうのは当然である。


 もう一点。目下の議論状況では、【S1a】を認めるかどうかで見解がわかれるのだろう。それはそれとしてしかし、【S1a】-と-【S1b】・【S1c】 との間に飛躍があるとは言われないだろう。さしあたって(=目下の議論状況において)は、この点が重要である。


3-2

 誰かと話しているとき われわれは、ときに、「言葉遣いの違いのせいで、相手の言っていることがわからない」と気づいたり、「相手の気持ちがわからない」と思ったりする。なぜそのように気づくことが出来るかといえば、ほかに・すでに たくさんのことがわかっているからである。──【S1】が述べているのは、たかだかこの程度の、ごく形式的なことがらである。

 たとえば、「言葉遣いの違いのせいで」と思っていたのだが、あとから、「そうではなく 礼儀作法が問題だったのだ」などと気づくこともある。つまり、「言葉遣いのせいで」というのは誤解・早合点だったわけなのだが、しかし、この場合でも【S1】が崩れるわけではない。つまり、
  • ある時点において「言葉遣いの違いのせいで」と想定できたこと も、
  • そのあとの時点において「それは誤解だった」と気づくこと も、
どちらも、「さまざまなことがすでにわかってしまっていた」からこそ生じえたことに かわりはない。

この点を確認したうえで、trickenさんおよびinf.さんの議論を再度見てみると、ふたりとも、実に奇妙な──言い換えると、自分の主張に都合のよい──「わかること/わからないこと」の取捨選択をしていることがわかる。


  • [tricken] Twitterは「相互理解が成立していない/にもかかわらず,思弁は(アーキテクチャのレベルで)事故を起こさない」から成立しているように見えるだけであり,コミュニケーションなるものを真面目に考えていくと,対面だろうとblogだろうとtwitterだろうと人は対話に失敗し続けている. [2009-12-14 17:38:23]

少なくとも、trickenさんはここで、「相互理解は成立しない」「アーキテクチャのレベルでは事故を起こさない」「人は対話に失敗し続けている」といったことは「わかって」いるわけである。しかしそれをどのようにして「わかった」のだろうか。そしてまた、これだけのことは「わかる」のに、「相互理解」だけは成り立たない、といえるのはなぜだろうか。

念のため書いておくと、ここで私は、「相互理解は成立する」とか「アーキテクチャのレベルでも事故は起こる」といった反論をしたいわけではないw。

  • [inflorescencia] カップルでも師弟でも友人関係でも、何でもいいのですが、(「常識」的意味で)理解しあっている/理解しあえると思い込むことができるのはなぜか、それは一体なにがそうさせているのか [2009-12-21 21:19:29]

inf.さんは、「人は理解し会えると思い込んでいる」ということはわかっているらしい。しかしそれをどのようにして識ったのだろうか。

  • [inflorescencia] (「常識」的な意味の)相互理解が存在していないはずの系にあって(理解は一方的に生じるのみ)にもかかわらず互いが互いのことを理解しているであろうという擬制のもとに行動し、かつ、この擬制があるからこそコミュニケーションの端緒が成立します [2009-12-21 21:27:39]
  • [inflorescencia] むしろ、思い込むという思考様式がないと合意は成立せず、ひいては(「常識」的意味の)社会も成立しません。理解していると勘違いできてしまえるその理由は、何なのでしょう? [2009-12-21 21:30:30]

ここではさらに遥かに複雑な(人間一般にかかわる(!))主張をしているようだ。こんなこと、いったいどうやって識ったのだろう。


これらの主張は、【S1】とちょうど逆の形をしている。我々が日々なんなく──あるいは「なんとか」──出来て(・やってしまって)いることを「わからないこと」扱いしているのに、もっと激しく非自明な主張のほうは、二人には「わかって」いるらしい。

おかげで、二人の議論運びを追うのはたいへんにとてつもなく難しい。

私の関心は、「こうした突飛な見解を、人はいかにして抱くことができるか」ということのほうにある。


4-0

以下、heis101さんへのコメントをいくつか。アトランダムに。

4-1 外挿(extrapolation)

やりとりのなかで 我々は、用いることが出来る資源を時機にかなったしかたで用いることで、やりとりに参加する。そして、いつもというわけではないが──たとえばやりとりの失調を感じたときに──、手持ちの資源を駆使して、相手のことを想像したり予測したりすることがある。こうした「作業」を「外挿」と呼ぶことが出来るだろうか。

 私はできないと思う。


外挿とは、

  • [1] 手持ちのデータに対して、[2] 特定のよく知られた(ふつうシンプルな)関数をあてがってやることで、[3] 手元にはないデータを推定する

といった作業である。そして、それが「外(extra)」挿と呼ばれるのは、[1] と [2] に なんの(内在的な)関係もないから、だろう。

 しかし、やり取りの中で行われる「調整」の作業には、[2] にあたるものは存在しない。だから、これを「外挿」とよぶのは不適切である。

この話題については、もしも heis101さんが、[2] に相当するものをあげてくれたら、その時に考え直すことにしよう。
念のため言うと、「外在的な基準を用いて「調整」作業を行う_こ_と_が_あ_る」という例をいくつか出されても、それだけでは私に対する反論にはならない。heis101さんはもっと強い主張をしているからである。

http://togetter.com/li/2024

  • @inflorescencia さんの問いは、「秩序のありそうもなさ」をどう解決したらよいのか、というここ(http://j.mp/7mU3bm )での問いと、同型的であるように思える。パーソンズはそれを価値共有に求め、ルーマン偶発性のやり過ごしに求めたと #mutual_us

    heis101
    2009-12-21 22:18:28
  • @inflorescencia さんの問いは、「秩序のありそうもなさ」をどう解決したらよいのか、というここ(http://j.mp/7mU3bm )での問いと、同型的であるように思える。パーソンズはそれを価値共有に求め、ルーマンは偶発性のやり過ごしに求めたと #mutual_us

    heis101
    2009-12-21 22:18:28
  • 尤も先の記事では、制度不在の状況で、相手の予期を相互に操縦する過程がどのようであるのか、そこからコミュニケ履歴の蓄積を経て制度の機能的等価物を得るに至る場合と至らない場合があるのはどのような条件の違いによってか、までは示されていない。そここそ神秘だというのに #mutual_us

    heis101
    2009-12-21 22:32:43
4-2 制度

「制度」の存在は、この議論の形式を変えない。

「制度」のかわりに、「規範」、「権力」、「アーキテクチャ(笑)」などなどを持ってきても同じである。

「制度」があったのだとして、それが我々に何を指図しているのかわかっているのでなければ、我々は「制度のもとでふさわしい振る舞い」をできない。我々が制度を使えるのは、我々がそれをなんらかのしかたでは識っているからである。

議論のもつ形式によほど鈍感でなければ、ここで、同じ形式の議論がステージをかえて繰り返されることになることに気づかないわけにはいかないだろう。



  • #mutual_us contractio氏は「やりとりが誤解を資源として進んでいく」という当たり前のことに無自覚なまま「外延の近接」はなぜ可能かを問うとおかしなことになる、とは言うが、これをちゃんと自覚したうえで問うことまで、おかしいとは言っていない気がする。

    heis101
    2009-12-22 22:46:58
4-3 Xはいかにして可能か

この主張 [22:46:58] は、半分は正しい。

この議論において、私自身は「コミュニケーションはいかにして可能か」という問いには関接していないが、

したがってまた、この問いの答えも持っていないが、

しかし他人がその問いに取り組むことを否定しようとは思わない。やりたい人はやればいいと思う。


ところで、「Xはいかにして可能か」という問いは、

  1. ふつうは、Xの成立が不可能ではないが やや困難な場合であるだろう。
    その場合に検討されるのは、「どんな取り組み・工夫をしたら、Xを実現できるだろうか」といったようなことである。
  2. ところで、もうすこし知的に洗練された議論においては、「Xが成立していること」が既知である際に、それがどのようにして成立しているか、を問うような場合もある。誰でもが知っているだろう著名で記念碑的な例をあげれば、『純粋理性批判』がそうである。
    その場合に検討されるのは──カントの言葉を借りるなら──「Xの可能性条件」である。
ここで Xに相当するのは たとえば「幾何学」や「ニュートン力学」であり、検討されたことのほうはといえば「我々は どのような心的能力を持っているのか」であった。(カントの場合には ここにさらに「アプリオリな」という検討条件がつくわけだが。まぁ、いまの話には関係がないだろう。)
通りすがりに述べておくと、議論のなかでルーマンの名前が挙がっているが、ルーマン自身は後者のタイプの問いの形式を選択していることを 本人が明示的に述べている。たとえば『社会システム理論の視座』(ISBN:4833202166)を参照のこと。

では、この議論ではどうだろうか。──と考えてみると、trickenさんの議論 も inf.さんの議論も、上記のどちらにも相当しないように思われる。

それもそれとして。


私の指摘は、上記の問いにかかわるものではなく、ただ単に、次のことにかかわるものである。つまり、

  • これらの議論において、「わかっている」とされているもの/「わからない」とされているもの が 不明確であったり恣意的的であったりすること

──これである(© 渡邊二郎)。


他方、「「やりとりが誤解を資源として進んでいく」という当たり前のことに無自覚なまま」というのは私の述べたことではない。我々がやりとりにおいてあたりまえに資源とすることができるのは「誤解」だけではないから。

ついでにいえば、我々はいつでも「誤解」を資源と出来るわけでもない。

いずれにしても。

もしも「「外延の近接」はなぜ可能か」ということを問いたいのであれば、私としては、まずは「1817 のどこで「近接作業」と呼ばれうるような作業がなされているといえるのか」を、

私には それがよくわからないので、「近接作業」なるものをめぐるディスカッションには立ち入れないでいるのであるが、

お三方に 明らかにしてほしいと思う。




http://togetter.com/li/2024

  • #mutual_us 「対面だろうとblogだろうとtwitterだろうと人は対話に失敗し続けている」って、「人はいつも、言い過ぎるか言い足りないかのどちらかである」(@内田樹)という意味なんではないだろうか。ま、この「いつも」の解釈問題ですが。

    heis101
    2009-12-20 07:23:17
  • #mutual_us たとえば、挨拶するときに、あれは、「言い過ぎる」か「言い足りない」かのどちらか、なのであろうか。そんなことはないだろう、というのが、おそらくはcontractioさんの考えなわけだ。

    heis101
    2009-12-20 07:25:12
  • @heis101: #mutual_us 仮に「言い過ぎるか言い足りないかのどちらかである」ことがもしできているのだとするならば、それは「やりとりができている」からこそですよね?

    contractio
    2009-12-20 07:28:43
  • @contractio 「そうだ」とも言えるし、「いや、違うのでは」とも言える気がします。「やりとり」という言葉をヴァナキュラーな仕方でのみ用いる限り、それは避けられないのではないでしょうか。 #mutual_us

    heis101
    2009-12-20 07:33:04
  • @heis101 #mutual_us いやいや。断じてそんなことは(ありえ)ないです。<「やりとり」という言葉をヴァナキュラーな仕方でのみ用いる限り、それは避けられない

    contractio
    2009-12-20 07:39:00
  • @heis101: #mutual_us いえ、「言い過ぎた」とか「言い足りなかった」とか言うためには、そもそも「やりとりはできていた」ことが必要でしょう、と。(これは論理的な問題だと思うのですが。)

    contractio
    2009-12-20 07:30:36
  • @contractio そう、論理的な問題だと思いますよ。contractioさんが言いたいのは、「言い過ぎたか言い過ぎなかったかのどちらかの感覚を体験できているという自体が、すでにして『何らかのやりとり』が成立しているあかしではないか」ということですよね? #mutual_us

    heis101
    2009-12-20 07:43:23
  • @heis101 「あかし」ということは、「証拠立て」が関係していることを含意しますよね。でも、これは証拠が必要なことではないでしょう。 だって、「言い過ぎた」というからにはそれは「言った」のだし「過ぎた」わけですよ。ならばそれは「どこで」言われたんです? #mutual_us

    contractio
    2009-12-20 07:45:11
  • @contractio 体験を事後に分析するときに「証拠立て」が必要なのであって、体験しているさなかにそれが必要なわけではありませんよね。それから、「証拠」ではなく、論理学的な関係を言う際に必要となる「命題」でしょ。 #mutual_us

    heis101
    2009-12-20 08:03:47
4-9

これ [08:03:47] を見逃していた。

が、「命題」なるものがどこから出てきたかさっぱりわからないので、解説を乞う。

ちなみに、私が主張したいのは 体験を事後に分析するときに「証拠立て」が必要なのであって、体験しているさなかにそれが必要なわけではありません というようなことでは全然ない。

ところで。

たとえば、「対話に成功する」というのが、「コンセンサスをもってやりとりを終える」というようなことを意味することは ふつうにある。ここでさらに「コンセンサス」のハードルを極端にあげれば──ex. 双方にとって微塵の妥協もないコンセンサス──、私たちはいつでも「対話に失敗する」ことができる。そのような仕方で、【T2】を「正しい」ものとする条件を与えてやることはいくらでもできるが、その場合に問われるのはむしろ──目下の例であれば──「どうして そんな ありえないような目標を設定するのか。そんなことをして何がうれしいのか」といったことだろう。


ファッショナブルとすらいえないナンセンス


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