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2011-01-09

[][][][] 新年研究)会:ブルデュー方法をめぐって:企画趣旨まえふり  新年(研究)会:ブルデューの方法をめぐって:企画趣旨まえふりを含むブックマーク  新年(研究)会:ブルデューの方法をめぐって:企画趣旨まえふりのブックマークコメント

きっかけは、在仏の社会学研究者 磯直樹 id:naokimed 氏によるこのエントリである。

エスノメソドロジー (文献メモ) - 社会学徒の研究(?)日誌 2010年10月16日 エスノメソドロジー (文献メモ) - 社会学徒の研究(?)日誌

 社会学史が専門だと自称していますが、重要とされる社会学の業績の中でも、まともに読んだことのないものもあります。僕にとってその最たるものが、ガーフィンケルエスノメソドロジーの諸研究です。どうしてこの分野を不勉強かというと、自分の研究環境において今まで一度も学ぶ必要性を感じたことがないからなのと、何年か前に「会話分析」の勉強をしてみたのですが、それがばかばかしくて(一部の)エスノメソドロジーに悪い印象を持つようになったからです。エスノメソドロジーの良質な部分は質的調査の方法に組み込まれているはずなので、あえて「エスノメソドロジー」の看板を掲げる意義があるのでしょうか。

 フランスでは、エスノメソドロジーの影響は弱いです。一部の社会学者が部分的に受容しているという印象です。哲学素養があって質的調査もできる人が(日本とは違い)フランスにはそれなりにいるので、エスノメソドロジーは物足りないのではないでしょうか。変な記号を使って「会話分析」なんてやっている人は、こちらでは皆無です。今後、広まることもないでしょう。

 食わず嫌いはいけないと思うので、そのうちにエスノメソドロジーも勉強してみようと思います。何か得るものがあるといいのですが。

短いせいもあるだろうが、検討に値するものは含まれていない。「おぉアホがおる」とか「勉強して出直せやコラ」くらいの感想しか出てこない。しかしそれでも、二つのことが私の目をひいた。

  • ひとつは、この──社会学におけるエスノメソドロジー免疫化のよくある──話法が登場する点: 質的調査の方法に組み込まれているはず [...]。
  • もう一つは、このエントリの執筆者がブルデュー屋さんだ という点。


 2000年代の初頭以降 私は、エスノメソドロジー関連の出版企画に積極的コミットするようになった。それ以前の──「出版の話は すべて綺麗にお断りする」という──態度を変更したのは、社会学におけるエスノメソドロジーの上記のような状況(=扱われ方)が、一人の社会学愛好家・読書人として、たいへんに気に食わなかったからである。 そして、実現できた企画の一つ(ISBN:4788510626)に「エスノメソドロジーに関するよくある質問」 という付録 をつけたとき念頭にあったもののひとつが、ブルデューのEM批判だった。

 つまり私は、その二つが見事に揃った上記エントリに、初心を想起させられたわけである。


 社会学業界内でのブルデュー&ブルデュー屋さんの位置、というのは私にはわからない。

 しかし──なにしろ翻訳がたくさん出ているし──(私も含め)読書人には かなりのポピュラリティをもっていることは間違いあるまい。

私の部屋の本棚のひとつもブルデューの翻訳書(と一部の原書)とブルデュー研究関連の書籍論文で占められている。

なのでまずその点で、ブルデューによるエスノメソドロジー批判は、営業上の観点(たとえば読書人や初学者・入門者たちに対する影響力という観点)からして、おおいに気になるものである。しかしそれだけではない。ブルデューの EM 批判は、そのステレオタイプさ・水準の低さ・無内容さの点でも、特筆に値する。一人の社会学愛好家・読書人として、当然のことながらブルデューも 長いこと好んで読んで来た私は、それだけに このことが気になっていたし、一度は「なぜこういう議論になってしまうのか」を考えてみたいと思っていた。

つまり 社会学における EM免疫化考察、である。


ともかくも。

他人に「勉強しろ」と迫るよりは 自分で勉強するほうが ずっと簡単だ。

そんなわけで、半径1クリックの範囲で 友人・知人たちに参加を募って、初心を振り返りつつ新年会の企画をたててみた次第。参加者ならびにプログラムは次のとおり。

2011年新年(研究)会:ブルデューの方法をめぐって

酒井 泰斗無所属ルーマンフォーラムブルデューのエスノメソドロジー批判 概観
小宮 友根(日本学術振興会ミクロ-マクロ問題について: 会話分析と批判的談話分析の論争から
岡澤 康浩(東大院:学環社情)早分かり対応分析
瀧川 裕貴(総研大ブルデュー社会学における対応分析


森  直人(筑波大)量化III類の学校社会学
澤田  稔(上智大)ブルデューのカリキュラム
戸高 七菜(一橋大)バーンスティンのブルデュー批判
團  康晃(東大院:学環社情)教育階層研究:
マクラウドぼくにだってできるさ―アメリカ低収入地区の社会不平等の再生産』紹介
今井  晋(東大院:文美)ポピュラー音楽研究:
南田勝也(2001)『ロックミュージックの社会学 (青弓社ライブラリー)』紹介
海老田 大五朗(東京医学柔整専)身体技法の社会学:
倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』紹介
秋谷 直矩(立教他)ゴフマンとブルデュー


ゲスト浅野 智彦(学芸大)、小澤 浩明(中京大)、北田 暁大(東京大)、七邊 信重(東工大)、高橋 直樹(新曜社

さて。

私自身は、ブルデューによる EM批判に対して、EM側からの目立った──社会学的議論の進展に寄与するような形・水準での──反論を聞いたことがほとんどない。おそらく 次のような理由でもって捨て置かれているのだと思われる:

  • 批判の水準が低いので、反論する価値がない。
  • データを見て何が言えるのか」というレベルでの批判ではないので、反論する必要がない。
狭い意味で学術的な観点からは 捨て置いてもよい(=仕方がない)のかもしれないが、少なくとも 営業上の観点からは、これは好ましくない。
たとえば研究市場への新規参入者が、ブルデューの影響力のせいで回り道をすることになるかもしれない。あるいは、生じてよかった筈の研究上の協力関係が妨げられるかもしれない。などなど。
ところで他方、

ではブルデューは「無知ゆえに 単に いい加減な批判をおこなった」のだろうか。そして そのことは「ブルデューにおける EM の重要度・関心の低さを示しているだけ」なのだろうか。そう言えれば話は簡単なのだが、おそらく それでは済まない。(特に、後期の)ブルデューの議論には、たんなる 噛ませ犬 的言及を超えた、もっとずっと積極的な参照がみられるからである。

たとえば『科学の科学 〔コレージュ・ド・フランス最終講義〕 (Bourdieu library)』第三部を参照。これは私のパートで紹介する。
また、小澤浩明は次のように報告している:
(...) 社会調査論として、近年ブルデューは〈社会-分析〉論なるものを提唱している(...)。[p.87]
〈社会-分析〉は次にあげる従来の三つの社会調査論反省とそれらの新たな統合をめざすものである。すなわち、[1] エスノメソドロジーの調査のツールヘの反省、[2] 数量的な客観的構造的な認識への反省、[3] 個々人への臨床的なアプロ−チの反省 と これらの新たな結合 である。[p.101]
つまり、少なくともこのような仕方で引き合いに出すくらいには、ブルデュー自身にとっても EM は重要なものであったようなのである。(というか、三本柱の一つなのだから、むしろ「とても」重要な扱いを受けている、と考えたくなるが。)
小澤浩明(1995)「ブルデューにおける社会学的認識論権力」『一橋論叢』 114(2): 285-300 小澤浩明(1995)「ブルデューにおける社会学的認識論と権力」 - HERMES-IR

 いったいここで何が起きているのだろうか。あるいはまた、このような 消耗的な状況のもとで、どんなことをしたら面白い議論の場を設定できるだろうか。

 もちろん、なにしろ 批判をされているのだから、いちおうはそれには こたえたほうがよい のだろうが、この手の「火の粉を払う」 レベルの議論は──上述のように、もともとの批判水準が低いのだから──面白くなりようがない。

 しかも私見では、「反論」に相当する議論は──ブルデューに対する反論としてではないが──既に済んでいる。ゴフマンと会話分析との間の論争や、批判的談話分析と会話分析の間での論争は、もっと高い水準の議論をすでに提供していると思う。ただ、この論争の社会学的意義は まだそれほど知られていないかもしれない。後者の論争については、小宮報告で紹介していただく。

 もし暇と余裕があるなら、もう一歩相手側に切り込んで、ブルデューの事情のほうを調べてみたいところである。──どうしてこの様な誤りが、首尾一貫した仕方で生じてくるのか、ということも含めて。

 何かを批判=吟味することは、それについて学ぶことでもある。ならば、うまくいけば、「単に反論すること」以上の利得が得られるかもしれない。もしも、ブルデューに「よいところ」があるのなら、それを──首尾一貫した形で、しかしひょっとしたらブルデューの自己提示とは異なったやり方で──学び・活用していくやり方を知ることが出来るかもしれない。

 そちらのほうへと議論を進められれば、少しは面白い話ができるかもしれない。



というわけで、「ブルデューとエスノメソドロジー」という不毛二者比較以外の、もうちょっと面白い話をするために、新年会のテーマは「ブルデューの方法(論)」にすることにした。

そして会の目標を、

  • ブルデューの方法(論)を検討することで、我々がブルデューから何を学べるかを考えること*

に置き、中心的な検討課題として、

  • [a] 「社会空間概念に焦点をあてたうえで、[b] ブルデューによる 計量的手法の つかい方を検討すること

を選択しようとおもう(この方針については、次エントリにて敷衍する)。基調的報告は、瀧川+岡澤両名にお願いした。

* うまくいけば、これは「ブルデュー社会学のエスノメソドロジー的検討」の最初の一歩となるだろうし、同時にまた、社会学的遺産管理に貢献するための準備作業にもなるだろう。

残りの時間は、各参加者手持ちの知識を持ち寄って紹介しあうことで、ブルデュー研究ならびにブルデューを援用した研究の現状について──網羅的ではないにしても──概略的なイメージをつかみ、各人の今後の研究に資するために使うことにしよう。

[][][] 新年研究)会の中心課題について  新年(研究)会の中心課題についてを含むブックマーク  新年(研究)会の中心課題についてのブックマークコメント

 このエントリでは、新年会検討課題──[a] 「社会空間概念に焦点をあてたうえで、[b] ブルデューによる 計量的手法の使い方を中心に検討すること──について敷衍する。

参照文献は、後ほど適宜追記する。

 この課題の前提となっているのは、下記の「見立て=見通し」である。これらは あくまで、私の・現時点での暫定的な「見立て=見通し」であって、間違いを含んでいるかもしれない。これら自体、ブルデューのテクストに即して検討(そして、必要に応じて修正)されるべきものであるが、ここで あわせて その作業を行う準備はない:

  • 【P】 ブルデューのエスノメソドロジー批判の中心には、「社会空間」や「界」などの概念がある。
  • 【Q】 ブルデュー社会学における「理論」の位置は、通常の経験科学において ひろく採用されているものに おおむね 等しい。
  • 【R】 ブルデューの学説形成史における「社会空間」概念の登場と、調査技法論の深化には関連性がある。双方の点で、「社会空間」概念は ブルデュー社会学にとって 画期を為す重要性をもつ。

 大枠では、「ブルデュー社会学とエスノメソドロジー」の比較念頭に置きつつも、単純な二者比較を避けるための第三項として、この企画では計量社会学を選択した。ブルデュー社会学を検討する際に 「社会空間」に焦点を当てることに疑問をもつひとは おそらく少ないだろうが、しかし、比較対照のために──候補はあれこれありうるだろうに、ほかならぬ──計量社会学を選んだことのほうには 疑問をもつひとが少なくないかもしれない。

ブルデューが、教育課程における哲学的訓練を経て 人類学者としてキャリアを出発させたことを思えば、なるほどこの疑問はもっともなところがある。

そこで以下では、主として 後者[b] について敷衍するのがよいだろう。

【P】社会空間

 ブルデューのエスノメソドロジー批判の一つは、「エスノメソドロジーには「社会空間」や「界」に相当するものがない(からダメだ)」という形式をもっている(このことは、私の報告の中で触れる)。すると、それに直接反論したければ、「それに相当するものは、実は 存在する」か、「そんなものは、必要ない。」か、のどちらかを言えばよい。

さらにもう一歩手の混んだことが言いたければ、「社会空間」概念のほうを腑分けしたうえで、「或るものは存在し、或るものは必要ない」と言えばよい。

しかし、その前に 知っておくべきなのは

  • 「社会空間」という概念は、他の概念との間にどのような関係を持った理論装置を成しているのか。
  • それはいったい何のために必要なのか。
  • 「社会空間」に関する知識を、ブルデューは、どのようにして得ることができるのか。

ということのほうだろう。そして、「社会空間」は理論的概念だから、まずは、ブルデューにおける「理論」の位置を考えておく必要がある。

【Q】理論の位置

ブルデューにおいて「理論」とは、

  • [1] 現実・現象そのものではなくて、学的観望者が抽象によって構築するモデルであり、
  • [2] 経験的研究をガイドし、データを説明するために導入されるとともに、データによって修正を被るものであり、
    そしてその限りで、「理論構築」は学の目標である
  • [3] うまくいけば、現象に関する予言を可能にするものである

といってよいであろうが、このおおまかな定式のレベルでは、理論に関するこのヴィジョンは、経験科学で広く採用されているものだといえる。

他方、エスノメソドロジーは、こうした意味での「理論の構築」は まったく目指していない。
この点を顧慮しない二者比較は不毛だが、しかしブルデューがエスノメソドロジーに関して理解していないことの一つが、まさにこの点なのであった。そして、ブルデューからEM への批判は「EM には理論が欠けている(からダメだ)」という形式をとることになる。
いずれにせよ、この場所で単純に二者比較をしてみても、議論は「理論構築を目指すか/目指さないか」という大ざっぱなものにしかならない。

 ところで、社会学において、上記のヴィジョンをそれなりにうまく遂行できているのは計量社会学であろう。

いわゆる「質的」な研究の中にも このヴィジョンを採用しているものはあるが、計量社会学に匹敵する水準で 遂行できているものは無いように思われる。

 だから、ブルデューにおける「理論」の位置について立ち入った検討をしたければ、まずは計量社会学のそれと比較してみるのがよいだろう。これが、参照項として計量社会学を選ぶことの、最初の・弱い理由である。

「ブルデュー-EM」の二者比較をすると、「ブルデュー社会学が理論をもつ」ことが、あたかも「よい」ことのように思われる人も少なくないだろう。しかし──私の予想では──計量社会学と比較してみると、むしろ「ブルデュー社会学は過剰に理論的・理論過負荷だ」という評価が出てくるのではないかと思う。

 もちろん、ブルデュー社会学の検討が、計量的側面だけで済むとは 私も思わない。けれども、計量社会学との比較は、何が「それでは済まない」のかをはっきりさせるためにも役立つはずである。そしてそのあとでなら、EM との 少しはまし な比較を行うことができるかもしれない。

私自身は、計量社会学との比較のあとで なお残る検討課題は、非常に少ないのではないかと予想しているのだが。

【R】調査技法論

「理論」が前項のような位置にあることからして、ブルデューの理論装置は、調査の方法論と結びついている(〜建前上、結びついていないとおかしい)。そしておそらく、特に「社会空間」概念は、調査技法の採用・使用に際しても、様々な理論的概念の蝶番の位置にくる枢要なものなのだろう。つまり──これはより詳しい学説研究を待たなければならないところではあるが──、

  • 調査技法との関連でいえば、「社会空間」概念は、計量的な技法の採用と軌を一にして登場する

もののようであるし、そのことと相即して、

  • 理論概念のレパートリーという観点でいえば、初期の頃から存在していた「ハビトゥス」「資本」などの概念は、「社会空間」概念の登場のあとで・「社会空間」概念のもとで、統一的に再考され・再配置を受けている

といってよいようである。

 ブルデューが経験的調査によって「社会空間」に関する知識を獲得しようとする際に用いている技法の中心に計量的技法があることは、ブルデュー検討の参照項に計量社会学が持ち出すことの積極的な理由となる。

 さらに言えば。様々な(いわゆる「質的」あるいは「量的」な)技法を縦横無尽に駆使して議論が繰り広げられるところにもブルデュー社会学の魅力はあるだろうが、──複数の技法を首尾一貫した形で用いることは容易いことではないのだから──、「そのようなことが どのようにして成し遂げられているのか」ということは問われてよい。

おそらくこれもやはり、「理論によって支えられている」ように私には思われるのだが。

その点について検討するためにも、「まずは」──標準化されていて形式性が高く、その点で考察のしやすい──計量的な技法の使われ方に着目するのが低コストだろう。


以上、新年会の検討課題を計量的なところに置いた理由を記した。およそ十全な敷衍とはいえない走り書きではあるが、これ以上の議論は、会場でおこなうことにさせていただきたい。

[][][] 新年研究)会:ご参考 - トゥギャッター新年会関連リスト  新年(研究)会:ご参考 - トゥギャッターの新年会関連リストを含むブックマーク  新年(研究)会:ご参考 - トゥギャッターの新年会関連リストのブックマークコメント

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