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2006-09-25

[]日の丸君が代問題、または2つの感情的対立 18:12 日の丸・君が代問題、または2つの感情的対立を含むブックマーク


東京都国旗・国家処分が違憲だという問題は面白い。はてなブックマークを見るようになったのはつい最近なので、知らなかったけど、はてなの人ってリベラルが多いっていうのに驚いた。id:good2ndさんのgood2ndの日記 - 自由を大事にしない人の多さに驚くというリベラルな記事が9月25日10時45分現在で206個もブックマークが付いていて、大部分のコメントが肯定的な反応を示している。はてなの人も2チャンネラーのようなネットウヨクが大半だと思っていたので驚いた。


ネットウヨクの人も予想通りの感情的な反応をしていて面白い。国旗・国家を尊ぶのは『当然だ』的な思考停止を論理的だと言い切っている所が素晴らしい。また、浅草キッド曰く「石原良純を子供にしたような人」こと都知事予想通りの反応をしていた*1


でも一番面白かったのは、石破氏のこの記事。家の中で軍艦フィギアを使って戦争ごっこをしてそうなバリバリの保守だと思ってた石破氏が違憲判決支持の表明をしている。はてブのコメントも意外だというコメントが目立つ。


2つの感情的対立

今回の違憲判決は石破氏をはじめ、右からも肯定的な意見が多い。この点で混乱している人が多いように思う。というか、僕も混乱していた。しかし、この問題は右翼左翼的な単純なダイコノミーで見ていこうとしても理解できない。少なくとも2つのダイコトミーが存在している*2。一つは「自由と規律を巡る感情的な対立」と「アイデンティティを巡る感情的な対立」だ。


2x2の4つの対立が絡んでいるのに、「ウヨ・サヨ」的な発想で見ていても理解ができなくなる。別に理解する必要はないんだけど。少し面白いので、この問題について考えてみる。


自由と規律に関する問題

一つ目のダイコトミーは「自由」と「規律」のどちらを重視するかという対立だ。「君が代を歌わない自由も当然存在する」的な意見と、「教師が都からの通告を無視して、どうして生徒の規律を保つことができるのだ」的な意見が対立軸となる。


自由を重視するか規律を重視するかなんて解決することのできない論争だ。id:good2ndさんみたいな「自由を大事にしない人の多さに驚く」という意見がでるのもそういう理由だ。自由を大事にする人にとって自由を大事にしない人は理解できないし、規律を大事にしない人にとって規律を大事にする人は理解できない。単純にそれだけの問題だ。この上でいくら「論理的」な論争をした所で決着する可能性はまずない。


アイデンティティを巡る問題

もう一つのダイコトミーがアイデンティティを巡る対立だ。この問題は非常に複雑なので、ここでは単純に「国民国家アイデンティティの基礎とするか、そうでないか」という対立として見ていこうと思う。


アイデンティティの成立には2つの承認が不可欠となる。一つは「自己による承認」で、もう一つは「他者による承認」だ。この問題に関して重要なのは後者になる。アイデンティティの形成には社会的存在としての自己(客我me)への、社会からの承認が必要となる。マズローの欲求段階説を持ち出すまでもなく、人間の欲求というものは制限を知らない。欲求が達成されればされるほど、より大きな欲求が生ずる。つまり一般的な友人関係などの社会的な関係の中で「他者からの承認」を実現させることは不可能でないにしろ難しい。そこで超越的な存在が必要となる。超越論的な存在からの承認は究極の承認だからだ。前近代ではそれは神の役割だった。ニーチェよろしく「神は死んだ」時代である近代において最も手っ取り早い超越的な存在は「国民国家」に他ならない。それで近代的な自我の多くは国民国家アイデンティティの基礎とする。*3


もちろん近代における超越論的な存在は国民国家以外にも多数あるんだけど、ここで論じることは避けておく。混乱するだけなので。国民国家アイデンティティの基礎とする人は国家を父として考える傾向がある。そういう点でマスキュリニティ・フェミニティの固辞や、反フェミニズム的な思考と親和性が非常に高い。父は「正義」と「力強さの象徴」である。父に敗北や間違いは許されない。誰にも屈しない肉体的(軍事的)な逞しさと精神的(政治的)な崇高さが父の条件となる。この点において、石原親は見事なまでの典型的なファザコンだ。


この思考で考えると、第2次大戦でのアメリカアジアとの戦いにおいても間違いだったと考えることは認知的不協和を作り出す。そして父である国は、敗れはしたもののアジアを守るため勇敢に戦った存在となる。ちなみに歴史なんてものは全て捏造でしかない。もちろん日の丸君が代は父をたたえるための象徴だ。象徴を汚すことは父を汚すこととなり許されることではない。そこで感情的な反発が生まれる。


重要なことは国民国家アイデンティティの基礎としない人も多数いるということだ。そういう人たちにはこの感情が理解できない。そこで対立が生じる。*4


2つの対立の錯綜

この問題を2重のダイコトミーだとして捉えると4つのクラスターを抽出することができる。

A:規律派、B:自由派

a:国民国家アイデンティティ、b:非国民国家アイデンティテイ

とすると、

  • 1.A x a
  • 2.A x b
  • 3.B x a
  • 4.B x b

1は規律重視でアイデンティティ国民国家に置いている典型的ナショナリスト

2は規律重視でアイデンティティ国民国家に置いていない錯綜した左翼

3は自由重視でアイデンティティ国民国家に置いているネオリベラリスト。

4は自由重視でアイデンティティ国民国家に置いていないリベラリスト

と考えることができるだろう。


君が代日の丸問題には少なくとも2つの感情的対立が内包されている。そしてこの2つの対立それ自体もまた対立している。つまり「自由・規律」と「アイデンティティ」のどちらがより重要かという対立だ。A、aは日の丸君が代強制賛成に、B、bは強制反対に向かう。1は当然賛成派。4は当然反対派。2と3は自由・規律問題とアイデンティティ問題のどちらがより重要かを考慮して態度を決める。


これでこの問題の論争の多くが理解可能になる。石破氏は3のネオリベラルで自由をより重視すると考えられる。しかし、ネオリベラルの中でも国民国家アイデンティティを重視する人も多数存在する(ネオコン?)。そこでなんで石破が?ってなる。

ここにある日教組の困ったFAQも簡単に理解可能だ。

彼らはもちろん日の丸君が代に反対する立場だから、違憲判決には賛成する。しかし、彼らにとって規律もまた重要だ。それで自分たちの中で決着がつかないので、こじつけのようなFAQしか思い浮かばない。


この問題で重要な点は2つの対立が共に感情的な対立だという点だ。そして多くの議論は感情の上の論理で闘っている。これは「どちらの神がより正しいか」といった神学論争と全く同じで解決不可能な問題だ。

神学論争の解決策

じゃあ、何でこんな不毛な議論をするのかというとブロガーたちは社会的承認欲求が非常に高い存在だからだ。なんでブログを書くのか?それは認められたいからでしかない。だからブックマークされた数に拘るし、ブックマークコメントに一喜一憂する。

というのが本質だと思うんだけど、もう一つ。それは大部分の人はこんな問題どうでもいいと考えていて簡単に立場を入れ替えることが可能だからだ。ブロガーはその人たちを扇動したいという気持ちも強くある。結局承認欲求と同じことなんだが。


どうすればこの戦略が達成できるか?それは簡単だ。感情に訴えればいい。論理で戦ったって無意味な争いにしかならない。その点でこの人の戦略はうまい。→子供に聞かれて説明できない国歌を歌わない理由。

子供という無垢で感情的な存在を利用して持論を展開している。こういう感情に訴える作戦が一番無関心な人に響く。




ちなみに僕は政治的立場を表明しない主義なので、あえてメタの立場からのみ論じてみたつもり。ちょっと出ちゃったかもしれないけど。じゃ、なんでこんな題を取り上げたのかって言うと、ちょっとアクセス数稼いでみたかったのでです。それでホットな話題を取り上げました。でもちょっと遅かったかな。トラックバックたくさんしたほうがいいのかな?ちょっと手当たり次第してみます。

あ、トラックバックって自動なんだ。頭いいっすね。

*1:どの新聞にリンクするかって難しい問題ですね。なんとなく北海道新聞にしてみました。

*2:少なくともとしているのは、本当はもっと多くの問題が内包されているから。議論を単純化してわかりやすくするためにあえて2つのダイコトミーという形にした。

*3ニーチェの「神は死んだ」という問題は、即ち国民国家が神の存在となったというわけではないと思う。だけど、少なからずそう考えている人は多いような気がする。そう考えるとニーチェ研究家である西尾幹二が偏屈なナショナリストになったことも納得いく。

*4:これはあくまでも単純化したもの。反国家をアイデンティティの基礎とすることも可能。色々な可能性を考慮に入れるとすごく複雑になる。脚注が多いのはこの機能を使ってみたかったからということもある。

kmiurakmiura 2006/09/26 00:04 はじめまして。
以前宮台さんが同じような分類をしてました。

”かくして日本でも遅ればせながら「ポストモダン左翼+ネオリベ右翼=国家規制反対派」対「リベラル左翼+国家共同体主義的右翼=国家規制賛成派」という対立が顕在化した。前者は米国流グローバル化(過剰流動性)に棹さすが、後者は米国流グローバル化に抗う。”
中略
で、次のような処方箋を主張している。
”自然共同体ならぬ、参入離脱自由な選択共同体を、国家ではなく(誤解を恐れずに言えば)顔の見える自治単位に採るのだ。かくして、国家を選択することが、ある統一フォーマットへの依存を意味するような今日的事態を、回避する。”
つまり、共同体は国家だけではない、ということです。枠組みを変えて意識することで神学論争は回避できるってなことです。
http://miyadai.com/index.php?itemid=311

coochoocoochoo 2006/09/26 23:23 最近の宮台氏はあまり追っかけてないし、上記の記事もちゃんと読んでないので、わからないんですけど、「顔の見える自治単位」を国家の代わりにするっていうのは難しいんじゃないでしょうか。
昔の宮台氏は、ブルセラ女子高生のようなまったりとした共同体へ、つまり参入離脱可能な集団へ帰属することによって、意味の見えない社会でのアイデンティティを築くみたいなことを言っていたと思います。上記の記事もその文脈から理解できると思うんですけど、それが多くの人にとって不可能だって気づいたので、宮台氏は最近、超越的な存在である「天皇」を持ってきているんだと思います。推測ですが。(天皇とか持ち出してきたので最近、氏の本は読んでいないんですけど。)
やっぱり多くの人にとって、超越的な存在っていうのは不可欠で、「顔の見える」自治体はそういう存在になりえないのではないでしょうか。超越的な想像の共同体となるには、それを支えるだけの「神話」が必要で、少なくとも現在の自治制度でそれだけの「神話」を作り出すことは不可能だと思います。
もしかすると、すごい的はずれなこと言ってるかもしれないです。

kmiurakmiura 2006/09/27 00:57 リンクした記事にあるのは、個人はさまざまなスケールの複数の共同体に属してる、というようなことを、国家対個人というダイレクトな関係性を緩衝する意味でもっと注目すべきだ、ということだと思います。もちろんその片端には天皇制もあるのかもしれません。

私は宮台さんに全面的に賛同しているわけではありませんが、coochooさん自身が書かれているように、4象限で分類することの限界は、平行線でそのままおわり、ということです。すっきりはするんだけど、弊害もある。反日かどうか、というような単純な線形の判断基準に限界があるのと同様です。個人の帰属意識はもっといろいろなスケールがあっていいのではないか、というのが私の思うところで、これにたとえばおっしゃるような超越的な存在に対する帰属、が含まれてもかまわないと思います。まあ、でも必要ない人も結構いたりする。すると、どのスケールのどんな帰属を選ぶのか、というのは個人に任せてしまってもいいけど、そうした選択を自由に行えるような状況が必要なのだと思います。

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