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老兵は黙って去りゆくのみ

2009-06-11

じじぃの「人の死にざま_02_吉田」

06:04

吉田松陰 魂をゆさぶる言葉』 関厚夫著 PHP (一部抜粋しています)

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂

『留魂録』は、処刑される前日である10月26日夕に書かれたものです。その前日に詠まれた、冒頭の有名な和歌『留魂録』の最初にかかげられています。

松陰はここで、計4回にわたる評定を説明します。そして、幕府の策略によって命を絶たれるのであるが、「神はすべてをご覧になっているのだから、何を悔しがることがあろうか」と続けます。

「英雄というものは、そのときに応じた行動をとるものだが、肝心なのは、のちに振り返ってみたとき、こころにやましさがあるかないかである。よきにせよ、悪きにせよ、私に対する評価は、棺の蓋をおおった後の議論にゆだねるしかない」

そんな、すきとおった死生観を松陰四季にたとえ、こう記します。

「春に種まき、秋に苗を植え、秋に刈り取り、冬に貯蔵する。10歳は10歳、20歳は20歳、100歳は100歳の四季がある。わたしはすでに(数え年で)30歳であり、四季はすでに備わっている。それがただの殻だけなのか、実のつまった米であるのかはわたしの知るところではない。しかし、もし君たちのなかに、わが志をあわれんで継承していってくれる人がいるならば、種子は決して絶えることなく、豊作だったといえるだろう」

すべてを後世にまかせた松陰『留魂録』の最後にいくつかの和歌をしたためています。

呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな

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『留魂録』の原文です。 (一部抜粋しています)

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

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一、今日死を決するの安心は四時の順還に於て得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬越す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曽て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自らニ十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは蟪蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ。

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吉田松陰 出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)

吉田松陰は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者。一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられることが多い。贈正四位

生涯

文政13年(1830年)8月4日、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。

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安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰長州藩に自首して老中暗殺を自供し、野山獄に送られた。

やがて大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし井伊直弼はそれほど甘い人物ではなく、素直に罪を自供したことが仇となって井伊の命令により「死罪」となってしまい、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。

年譜

・1853年(嘉永6年)、米国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争イギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。

・1854年(安政元年)、ペリー日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。事が敗れた後、松陰はそのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。

・1855年(安政2年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允高杉晋作を初め久坂玄瑞伊藤博文山縣有朋吉田稔麿、前原一誠等維新の指導者となる人材を教える。

・1858年(安政5年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。

・1859年(安政6年)、幕府安政の大獄により長州藩松陰江戸送致を命令する。松陰老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残す。その冒頭に記された辞世"身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂"。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された"親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん"辞世として知られている。

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幕末歴史探訪 吉田松陰 (一部抜粋しています)

吉田松陰の言葉

「人間は必ずどこか他人よりすぐれたところを持っている」

吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人です 。30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えました。やがてその中から明治維新で活躍する人物が多く出ました。松陰の生き方は21世紀を生きる私たちに多くのことを教えてくれます。司馬遼太郎著『 世に棲む日日』全4巻にて吉田松陰について詳しく記述されています。『世に棲む日日』は前半:吉田松陰、後半:高杉晋作が主となっており、幕末好きな方は是非読まれますことをお薦めします。

http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html

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