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老兵は黙って去りゆくのみ

2010-07-28

じじぃの「人の死にざま_335_中原・中」

06:06

中原中也 - あのひと検索 SPYSEE

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汚れつちまつた悲しみに... 動画 YouTube

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中原中也/臨終 動画 YouTube

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中原中也記念館

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中原中也 フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)

中原中也は、日本の詩人歌人翻訳家。旧姓は柏村。350篇以上もの詩を残し、それらの一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』に収録されている。また、『ランボオ詩集』を出すなど、フランス詩人の紹介にもつとめた。

【略年譜】

明治40年(1907年) 山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)に父柏村謙助、母フクの長男として生まれる。父謙助は当時陸軍軍医として旅順にいた。

・昭和3年(1928年)「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙助死去。葬儀に帰省参列しなかった。

・昭和4年(1929年河上徹太郎大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。

・昭和6年(1931年東京外国語学校専修科仏語部に入学。

・昭和9年(1934年長男文也が生まれる。年末には、『山羊の歌』を刊行。

・昭和12年(1937年) 故郷に移住の予定であったが、結核性脳膜炎を発症し、10月22日に死去。

・昭和13年(1938年) 創元社より『在りし日の歌』を刊行。

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文藝春秋 8月号

的中した予言50 中原中也 【執筆者】水無田気流詩人) (一部抜粋しています)

「日本といふのは、竹馬に乗った漢文句調、/いや、舌っ足らずの英国さ」

中原中也が、「早大ノート」に書いた一節、未刊詩である。1931年9月22日に書いたと推測される。初連「支那といふのは、吊鐘の中に這入ってゐる蛇のやうなもの」とあり、その続きにこの「日本〜」と続く。

第二連には、「今二ァ人は事変を起こした/国際聯盟(れんめい)は気抜けた義務を果さうとしてゐる」とある。したがってこの詩は、同月18日に勃発した満州事変についてのものであるのは間違いない。23日に国際聯盟は緊急理事会を招集し、30日には、日中両国に、満州事変解決を要望する決議案を採択している。

中也は潔癖な人であった。とりわけ、自らの感性の秩序とでもいうべきものを、頑迷なまでに重んじる人であった。そのため、あらゆるものに苛立(いらだ)ち、毒づき、哀しみ、そして詠(うた)った。それは近代化の衣を慌しく着用した日本で、圧殺されてゆく「何か」を日々感受せずにはいられなかった詩人の、精神の刻印記録でもある。

竹馬に乗るかのように、「背伸び」をし、漢文調に威風堂々を気取る日本。だが、その様は西欧列強から見れば、幼児が回らぬ舌で、大人の真似事をしてるようなもの。このいびつさを、1935年の日記では、さらにこう述べている。「我々現代の青年はアイノコだ。我々は全然西洋の本で勉強して来た。この結果生ずる困惑は、10年後一般的問題ともなりであらう。それからが始めて問題らしい問題の在ることとなるのであらう」と。

    ・

中也の予言は、いまだ効力を失ってはいない。むしろ高度成長期に「凍結」された懐疑への視座が、今ようやく解凍されつつあるともいえる。昨今では、グローバル化や、文化的多元化などによって、「西洋化=近代化」の物語が終焉を迎えた。代わって、全世界的に、中心と周縁の区別がつかなくなった。

ここに至ってようやく日本は、「竹馬に乗った舌ッ足らずの西欧人」たらざるを得なかった過去を、客観視できるようになったといえる。願わくば、より根本的な問題の再考を。郷愁により過去を純化するのではなく、圧殺された感性を、現時点から救済したい。時代の混迷を見極めるためにも、いまこそ聴いて欲しい。彼ら殉教者たちの、凍れる至言を。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行

10月22日−中原中也 (詩人

生涯にわたって働いたことがない男だった。考えてみれば人は誰しも何かに拘束されて生きているといってもよいだろう。

サラリーマンなんて売春婦と同じだ。時間を切り売りしているのだから、と私の友人が言ったことがあるけれど、私はだから人間は哀しいのだと思った。

わずか30年の短い人生の中で『山羊の歌』『在りし日の歌』と2冊の詩集を世に遺した中原中也

落第、放蕩、同棲−−中原の人生を説く3つのキーワードだ。そして弟を5歳で、息子を2歳で失っている。その狂わんばかりの喪失感も中也の人生の中で大きな風穴となったにちがいない。

人生ってのは無常でどうにもならないほど哀しくて仕方ないって思う時、永遠の青春詩人・中也の詩集をひもといてみたくなる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店

中原中也(なかはらちゅうや) (1907-1937) 30歳で死亡。

昭和11年11月、詩人中原中也は、満2歳になったばかりの長男文也を結核性脳膜炎で失ってから、悲しみのあまり精神の異常を呈すようになった。

葬式のとき彼は、赤ん坊の死体を抱いて離そうとしなかった。それ以後、その葬式についての近所の悪口、巡査の足音などの幻聴に悩まされたり、ラジオに向かってお辞儀したりした。12年早々、中也が屋根の上にしゃがみこんでいるのを見た友人は「これは本物だ」と断定し、中原の母や妻と相談して、千葉県にある精神病療養所にだまして連れていった。

2月15日、彼は病院から勝手に帰宅した。彼にとって精神病院に入院させられたこと自体が打撃であった。彼は、そのまま病院に帰らず、また長男の想い出の残る市ヶ谷の家に住むにたえず、鎌倉扇ヶ谷の寿福寺境内に転居した。

その秋、彼は知らずして、

「おまえはもう静かな部屋に帰るがよい」

にはじまる最後の4行詩を書いた。

10月4日、頭痛と視力障害を訴え、6日に鎌倉養生院に入院した。やがて持病の結核の悪化による急性脳膜炎と診断され、眼球が異様にふくれあがり、うわごとをいうようになった。

かって中也の愛人を奪った友人小林秀雄(35歳)は病院に詰めきりで看病し、また友人河上徹太郎(35歳)は毎日東京から見舞いに通(かよ)った。友人青山次郎は書いている。

「奥さんは胸の辺りをさすり、お母さんは手を取って指を揉(も)んでいた。その母親の指を煙草を有用に指で挟んで口に持ってゆく、いまは悲しい中原中也の姿であった」

10月23日、午前零時10分、息を引きとった。

臨終に立ち会えなかった友人の大岡昇平(28歳)は棺の前で泣いた。

支那事変の凄じい序曲の中に、国民は、のちに昭和初期の代表的詩人の評価を受けることになる詩人の死を、ほとんど知らなかった。

−−彼の母は甚(はなは)だ長生きし、昭和55年、101歳で死んだ。

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中原中也

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