じじぃの「人の死にざま_356_室生・犀」

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室生犀星 海濱独唱 動画 YouTube
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室生犀星記念館ホームページ
http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/index.htm
室生犀星 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
室生犀星(むろおさいせい、本名: 室生照道(てるみち))は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。
【経歴】
加賀藩足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた。
犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。1913年(大正2年北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。1916年(大正5年) 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年(大正8年)までに32号まで刊行した。この年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。1929年(昭和4年)初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。1930年代から小説の多作期に入り1934年(昭和9年)『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。1935年(昭和10年)、『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。 芥川賞の選考委員となり、1942年(昭和17年)まで続けた。1941年(昭和16年)に菊池寛賞
戦後は小説家としての地位を確立し、多くの秀作を生んだ。娘朝子をモデルとした1958年(昭和33年)の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』は毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』(1959年(昭和34年))では野間文芸賞を受賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を設定。1962年(昭和37年)、 肺ガンの為に死去。
抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。この句の通り、文壇に名を轟かすようになった後も金沢にはほとんど戻ることがなく、そのかわり犀川の写真を貼っていたという。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
3月26日−室生犀星 (作家)
加賀藩足軽頭だった父親が女中に生ませた子が室生犀星だった。
不義の子として彼は外に出された。一番母親の愛情をたっぷりと受けるべき幼年期、犀星は継母のせっかんに日々泣きあかしていたという。
13歳で高等小学校を中退し、地方裁判所の給仕を7年務めてという。
志を持って上京しても生活苦から故郷へのUターンをくり返した。けれども詩友である萩原朔太郎や山岡暮鳥の励ましに支えられ、やがて詩人として、めきめき頭角をあらわす。
そして、『幼年時代』、『あにいもうと』、『杏ッ子』などの名作を次々と著わす。いずれの作品にも不幸な生い立ちに泣いた犀星自身が映し出されているような気がしてならない。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
室生犀星 (1889-1962) 73歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和36年6月、青野季吉の葬式から帰ってきた犀星は、娘の朝子にいった。
「いやしくもペンを持って、30年40年生活して来た者が、ガンという病気を周囲の者達だけが皆承知していて、本人だけが知らずに死ぬということは、文学者として許されることではない。もしもわしがそのような病気になったらば、君は忘れずに、そして遠慮なく言ってくれ」
その8月、軽井沢の別荘にいった犀星は、咳、痰、胸痛、微熱に苦しみはじめた。
徹底的に医者ぎらいの彼を、朝子は帰京させ、苦労して近くの医者に見せ、さらに虎ノ門逓信病院へいって診察を受けさせた。それが肺ガンによるものであることを、担当の本間医師から朝子が告げられたのは10月17日のことであった。
朝子はさきの父の言葉を思い出して、父に告げるべきかどうか医師に相談した。本間医師は厳しくそれはいってはならないと命じた。
犀星はコバルト照射その他の治療を受け、11月8日一応退院し、以後自宅で以前と同じような執筆生活に戻った。彼は自分の病気を、医者からいわれた通り肋膜炎だとばかり思いこんでいて、客が来ると、
「コバルト60のためにこんなに色が黒くなってしまって・・・・」
と、いろいろ弁解し、コバルトという言葉を聞いて変な顔をする客の反応にも気がつかなかった。彼は最後まで自分が肺ガンであることを知らなかった。
翌昭和37年1月25日、犀星も審査委員になっている読売文学賞の審査会があり、犀星はそれに出席するといってきかなかった。朝子は、その席で父がまた「コバルト60のためにこんなに色が黒くなってしまって・・・・」とやり、ほかの委員も作家が多いので、これに対して作家特有の遠慮のない応答をする人がありはしないかと心配になり、あらかじめご配慮願いたい、と委員の一人正宗白鳥のところへ頼みにいった。白鳥は承知し、朝子の教えた応答のしかたを復唱までしておぼえてくれた。世にもつまらない、といった風な白鳥の顔が想像される。
その白鳥も、犀星の死後7ヵ月で死ぬのである。
以後も父にそのことを気づかせないようにして献身の看護をつくす朝子たちを見て、本間医師はそのことを朝子に知らせたことさえ悔いた。
犀星は次第に弱り、排尿困難、行動困難となり、3月に入るとガンが脳に転移した兆候が認められた。そして3月26日午後7時26分、息をひきとった。(室生朝子『晩年の父、室生犀星』より要約)

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ふるさとは遠きにありて思ふもの 室生犀星 詩
「小景異情(その二)」
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

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