じじぃの「人の死にざま_569_石原・莞爾」

石原莞爾 - あのひと検索 SPYSEE
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石原莞爾 ( Kanji Ishiwara ) 動画 YouTube
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鳳凰大視野 惡之花~日軍侵華將領實 : 石原莞爾 (2/3) 動画 YouTube
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石原莞爾 ウィキペディアWikipedia)より
石原莞爾明治22年(1889年)1月18日-昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。
【生涯】
明治22年(1889年)山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として生まれる。
明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。
昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフ掲示されている
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。
昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿にした。一方東條も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。
現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館総長・中川小十郎が新設した国防学講座の講師として招待された。
石原は、東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。
昭和24年(1949年)春に肺炎になり、肺水腫や膀胱癌などを併発。病状は悪化。 8月15日、死去。

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文藝春秋 2010年8月号
的中した予言50 石原莞爾(いしはらかんじ) 【執筆者】保坂正康(ノンフィクション作家) (一部抜粋しています)
意見のない者と、意見の対立はない
石原莞爾という軍人は、近代日本の陸軍史の中でも異様な人物である。むろんこの「異様な」という意味は、凡庸な軍人と比べてあまりにも多くの特性をもっているとの褒め言葉でもある。
石原は昭和の軍人にしては明確な軍事思想や軍事哲学をもっているし、歴史がどのような方向に進むか、人間の生き方の望ましい姿とはどのようなものか、などその著書(全8巻の全集が刊行されている)や講演、さらには親灸する門弟たちへの説話などで明かしている。
石原の将来を見据えた予言に類する言は、幾つかあるのだが、あえて石原の次の言葉を考えてみたいのだ。これは昭和22年5月1日と2日に、極東軍事裁判東京裁判)の法廷が、石原のみを証人として喚問するために酒田で臨時法廷を開いた時の言である。
 <検事が私に「ジェネラルは東條と意見が対立していたというではないか」と尋ねたので、私は次のように答えた。「そんなことはない。日本人にもそのような愚問を発する者がいるが、東條には思想も意見もない。私は若干の意見をもっていた。意見のない者と、意見の対立はない」>(「極東軍事裁判に際しての発言」(『石原莞爾はこう語った』石原莞爾研究所、昭和46年1月刊)
この法廷では、石原莞爾は幾つかの名言を残している。日本に圧力をかけて開国させたペリーと原爆投下をを命じたトルーマンこそがA級戦犯だと発言したり、イギリスの検事が、石原が軍内の人間関係を知らないと証言したのに怒り、明日までに思いだせとなじったとき、「無礼なことを言うな。知らないと忘れたとは意味が違んだ」とどなり返し、その検事が這々(ほうほう)の態で帰ったとのエピソードも残っている。
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石原の言にこめられた予言者風のニュアンスを読み取るなら、<この国は思想も理念もない権力主義者に支配されていたのであり、なんらかの意見や理念をもっている者はすべて抑圧されていたのだ。そのことがわかるか>との意味になるだろう。
石原は、検事団にあなたたちは莫大なカネを使って軍事法廷を開いているが、「(そんな)値打ちのある者は1人もいない。みんな犬のような者ばかりではないか。アメリカは戦争に勝って、今は世界の大国である。世界の大国が、犬をつかまえて裁判したとあっては、後世の物笑いになる。アメリカの恥だ。裁判をやめて帰ったらどうか」とまで揶揄(やゆ)している。検事団は一様にしかめっつらをしつつも、石原という人物に関心をもったという。
石原は昭和24年8月15日に病死している。その人生での数多ある言のなかでも、「東條」に仮託して披瀝した自らの歴史観、人間観は今なお生きているのではないか。石原は軍人時代に東條の下で働いたことがある(昭和12年から13年にかけて関東群参謀長、参謀副長の関係)。2人の副官だった軍人(泉可畏翁)からの直話だが、「共に語ることはなく、東條は石原を嫌い、石原は東條をバカにしていた」という。東條の軍人勅諭を自己流に解釈しての帝国軍人観に、石原は「国を亡ぼすのはああいう軍人だ」と公言してはばからなかった。
「東條」に代表される「無思想、無原則、無責任(三無主義)の官僚が戦争を起こし、そして日本を解体せしめたと言いたかったのだが、その言を今にあてはめると、「東條」的官僚が今の日本のマイナス部分を肥大化させた張本人と思えるのだ。「思想も意見もない」三無主義の官僚こそ諸悪の根源だと、石原は次代に忠告していたのである。

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