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老兵は黙って去りゆくのみ

2011-04-12

じじぃの「人の死にざま_571_トーマス・マン」

06:04

トーマス・マン - あのひと検索 SPYSEE

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Thomas MANN 動画 YouTube

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Thomas Mann uber Richard Wagner - Lohengrin 動画 YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=tH5jx-I1Z3o&feature=related

トーマス・マン ウィキペディアWikipedia)より

パウルトーマス・マンドイツ小説家リューベックの富裕な商家生まれる。当初は実科を学んだが処女小説「転落」が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年ノーベル文学賞を受賞した。

1933年ナチス政権を握ると亡命し、スイスアメリカ合衆国生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』、ゲーテに範を求めた『ヴァイマルロッテ』などを発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしたが、『ドイツドイツ人』などの一連のエッセイや講演でドイツの文化に対する自問を続けた。

兄ハインリヒ・マン、長男クラウス・マンも著名な作家である。

【生涯】

トーマス・マン1875年中世にはハンザ同盟に属していた北ドイツ商業都市リューベックに生まれた。

1893年、マンは南ドイツ火災保険会社の見習いとして働き始め、その傍ら小説作品の執筆を続けた。10月、処女作品となる短編小説『転落』がライプツィヒ文芸雑誌『社会』に掲載される。

1910年ミュンヘンでグスタフ・マーラーの『交響曲第8番』初演を聴き、マーラー自身と知り合う。翌年、マーラーが死去した直後にヴェニスを旅行。1912年マーラーの死に触発されて書かれた中編『ヴェニスに死す』を発表する。

1918年にドイツが敗戦すると、マンはドイツにおける市民社会の代弁者として各地で講演に招かれ、1923年の著作『ドイツ共和国について』でヴァイマル共和政への支持をドイツの知識層に呼びかけた。1924年魔の山』発表。1926年より『ヨセフとその兄弟』に着手。旧約聖書の一節をそれだけで図書館が建つと言われるほどの膨大な資料をもとに長大な小説に仕立て上げたもので、その後幾度も中断を経て1944年まで書き継がれた。1929年ノーベル文学賞受賞。翌年に受賞第1作となる『マーリオと魔術師』を発表する。

1933年1月30日にヒトラー政権を握ると兄ハインリヒ・マンとともにドイツアカデミーを脱退。2月23日、夫婦でスイスに講演旅行中にベルリン国会炎上事件が起き、ミュンヘンにいた長男クラウスから助言を受けそのままスイスに留まる決意をする。1936年、マンはドイツ国籍およびドイツにおける財産を奪われ、自宅に残してきた日記、書簡、資料やメモ類を永久に失った。

1955年3月、リューベック名誉市民、およびベルリンドイツ芸術アカデミー名誉会員に選ばれる。

8月12日、心臓冠状動脈血栓症により死去。遺体はキルヒベルクに葬られた。埋葬式に数百人が集まり、ヘルマン・ヘッセが別れの言葉を述べた。

魔の山 ウィキペディアWikipedia)より

魔の山』(Der Zauberberg)は1924年に出版されたトーマス・マンによる長編小説。ドイツ教養小説の伝統に則ったマンの代表作の一つである。

作品はハンス・カストルプ青年が、第一次世界大戦前にスイスアルプス山脈にあるダボスサナトリウムに従兄弟を訪れることから始まる。そこで彼は結核にかかっていることが分かったため、その後7年に渡ってそこに滞在することになる。その7年の滞在期間中に、彼は大戦前のヨーロッパの縮図を構成しているような様々な人物から学び成長していく。

マンは1912年に、肺病を病んでいた夫人カタリーナを見舞うためにダボスサナトリウムに訪れており、その際に作品の着想を得ている。当初は短編となる予定であったが、その後構想が膨らみ12年かけた長編小説となった。

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文藝春秋 2010年8月号

的中した予言50 トーマス・マン 【執筆者】村田晃嗣同志社大学教授) (一部抜粋しています)

政治を軽視する人間は、軽蔑に値する政治しかもつことができない

第一次世界大戦の敗北で、ドイツウィルヘルム二世はオランダへの亡命を余儀なくされた。戦後のドイツ皇帝(既存の権威)が残っていれば、ヒトラーは登場しなかったかもしれない−−第二次世界大戦後にアメリカ天皇制の存続を認めた理由の一半は、こうした認識による。同様に、ヴェルサイユ講和条約ドイツにあまりに過酷であったため、ひとらーの台頭を招いたという認識が、アメリカの対日占領政策と対日講和を寛大なものにした理由の一半である。ドイツの負の経験から、われわれは多大の恩恵を受けていることのなる。

トーマス・マン1875年-1955年)といえば、『ベニスに死す』や『魔の山』などで知られるドイツの文豪であり、ノーベル文学賞受賞者である。彼もまた、20世紀前半のドイツの負の経験を生きた一人であった。マンはナチスに抵抗し、ヒトラー政権を獲得すると、スイス、次いでアメリカ亡命して戦後を迎えた。第二次世界大戦末期にアメリカフランクリン・ルーズベルト大統領が死亡すると、ドイツゲッペルス宣伝相は罵詈雑言(ばりぞうごん)をもってこれに報いたが、日本の鈴木貫太郎首相は哀悼の意を表明した。亡命先にアメリカにあって、死への畏敬の念をもつ東洋の国と祖国を比べ、マンは深い嘆息を日記に記している。

「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい」。マンが抗い続けたヒトラーは、そう述べている。ドイツ人が敗戦に打ちひしがれ、ヴェルサイユ協約に辱められ、そして失業インフレに苦しむ中、巧妙なプロパガンダを繰り返した。その結果、かってゲーテベートーヴェンを生んだ国民は、最も「軽蔑に値する政治」を選択したのである。

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ドイツは2つの世界大戦で2度にわたって敗北を経験したが、日本は第二次世界大戦での敗北のみである。日本の戦後はワイマール共和国時代のドイツに比肩される。ともに大衆文化と観念的な平和主義の時代であった。だが、ドイツの負の経験の恩恵を受けて、日本がヒトラーを選択することはなかった。戦後日本はアメリカとの同盟の下で、安全と繁栄を享受できたからである。やがては事実上の第三次世界大戦であった冷戦終焉したが、日本は敗者の側にはなかった。それどころか一時は、その経済的な成功のゆえに「冷戦の真の勝者は日本だ」とすら言われたのである。

しかし、喧騒なバブル経済が崩壊すると日本では「第2の敗戦」が語られ、東アジアの国際環境もきわめて流動的になっていった。こうした内外環境の変化に対応できず、自由民主党はついに政権を喪失したのである。

この間、日本人は自信を失い内向きになってきた。しかも、年内には日本は「世界第2の経済大国」の地位を中国に譲り渡すのである。それは単なる経済的地位の相対的な低下ではなく、戦後唯一のナショナル・アイデンティティーの喪失を意味する。そうした喪失感や不安感が、例えば当今の坂本龍馬ブームにつながっているのではなかろうか。それは現代日本における坂本龍馬の不在を、何よりも雄弁に物語っている。だが、安易なヒーロー崇拝に陥ったはなるまい。この混乱した政治を日本人の自画像として凝視し、逃避することなく向き合わなければならない。かって日本の武士道に畏敬を示したトーマス・マンは、日本人に今そう語りかけているのである。

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