2011-07-04
じじぃの「原発事故を予見・反原発のカリスマ・高木仁三郎!S・フロントライン」
反原発のカリスマ 市民科学者 高木仁三郎 (1) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IkR9-LoJAzE
反原発のカリスマ 市民科学者 高木仁三郎 (2) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PUquFYo26vM
高木仁三郎 画像
http://4.bp.blogspot.com/-EmWgOaD593A/TanAKaqxFWI/AAAAAAAAAH0/bvvzLsXCn9k/s1600/takagi-2.jpg
http://utsude.jugem.cc/?eid=207
友へ 高木仁三郎からの最後のメッセージ
http://www.cnic.jp/takagi/words/tomohe.html
高木仁三郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
高木仁三郎(1938年7月18日-2000年10月8日)は、日本の物理学者、理学博士(東京大学)。 専門は核化学。群馬県前橋市出身。父は開業医。
群馬大学教育学部附属中学校時代の同級生にSF作家の豊田有恒がいる。群馬県立前橋高等学校、東京大学理学部化学科卒業。
政府の原子力政策について自由な見地からの分析・提言を行う為、原子力業界から独立したシンクタンク・原子力資料情報室を設立、代表を務めた。原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性などについて、専門家の立場から警告を発し続けた。
特に、地震の際の原発の危険性を予見し地震時の対策の必要性を訴えたほか、脱原発を唱え、脱原子力運動を象徴する人物でもあった。原子力発電に対する不安、関心が高まった1980年代末には、新聞、テレビ等での発言も多かった。
1995年、『核施設と非常事態 ―― 地震対策の検証を中心に ――』 を、「日本物理学会誌」に寄稿。「地震」とともに、「津波」に襲われた際の「原子力災害」を予見。
「地震によって長期間外部との連絡や外部からの電力や水の供給が断たれた場合には、大事故に発展」 するとして、早急な対策を訴えた。
福島第一原発 について、老朽化により耐震性が劣化している「老朽化原発」であり、「廃炉」に向けた議論が必要な時期に来ていると (1995年の時点で) 指摘。 加えて、福島浜通りの「集中立地」についても、「大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」と 、その危険に警鐘を鳴らしていた
・『原発サイトには使用済み核燃料も貯蔵され、(中略) 集中立地が目立つ(福島浜通り、福井県若狭、新潟県柏崎、青森県六ヶ所村など)が、どう対処したらよいのか、想像を絶する (中略) これから徹底的に議論し、非常時対策を考えて行くべき』
・2011年7月3日 テレビ朝日 サンデー・フロントラインで特集された。
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サンデー・フロントライン 「発掘人物秘話 伝説の扉 反原発のカリスマ 高木仁三郎」 2011年7月3日 テレビ朝日
【司会】小宮悦子 【コメンテーター】東京大学大学院教授 藤原帰一、東京新聞論説副主幹 長谷川幸洋
特集 尾行に無言電話も・・・ 反原発のカリスマ 市民学者 高木仁三郎
http://www.tv-asahi.co.jp/s-frontline/
どうでもいい、じじぃの日記。
7/3、テレビ朝日 『サンデー・フロントライン』で特集「発掘人物秘話 伝説の扉 反原発のカリスマ 高木仁三郎」を観た。
大体こんなことを言っていた。 (最初の部分のみ、手抜きしている)
まだ終結の見えない福島第一原発の事故。ただ実はこの状況を今から16年前に指摘していた科学者がいます。
日本物理学会誌 1995年
●給水管の破断と緊急炉心焼却系の破壊
現在の状況を予見していた高木仁三郎さんです。2000年に62歳の若さでこの世を去った高木さんは世界に認められた核科学者でありながら、大学にも、企業にも属さず、市民で目線での活動を貫きました。
原発の安全神話崩壊の今、注目される高木仁三郎の波乱の生涯を追いました。
東京都内で原発反対のデモのグループと一緒に行進している高木さんの映像が出てきた。
高木さん、(デモ行進中で)「プルトニュウムに未来はなく、未来を託すこともできない。可能な限りこのような活動を続けていきたい」
高木さん、(裁判所の前で)「こんな判決を書くのに十何年も何を費やしてきたのか。裁判所は」
反原発運動の象徴的存在として、常に民衆と共に活動をしてきた核科学者 高木仁三郎。大学からも企業からも距離を置き、研究者として生きるのは茨(いばら)の道。しかし、仁三郎はあえてその道を選んだ。
自宅で、夫 仁三郎さんの遺影が飾られている前で妻の久仁子さんが話す。
久仁子さん、「自分でこうと思わないことをやっているような人生が一番いやだったと思うんですね」
(朗読)「実験科学者である私は、自らの社会生活を実験室として、農民や漁民の不安を共有するところから出発するしかないだろう」
ハンストやデモなど、その行動から反原発の活動家として見られることも多かった仁三郎。しかしその行動を支えていたのは科学への強い信頼と敬意だ。仁三郎が作り上げた「原子力資料・情報室」の共同代表 山口幸夫氏は仁三郎の素顔についてこう分析する。
山口さん、「クールな科学者気質だったと思う。理解はなかなか難しいかったと思う」
福島第一原発から約40km離れた海上から見た福島第一原発の建物の映像が出てきた。
(朗読)「原発サイトには使用済み燃料も貯蔵され、また集中立地が目立つ。福島浜通りのような集中立地点を大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」
まったく終息の見えない今の原発事故を16年も前に、的確に見抜いていたのは科学者として行った研究分析の当然の結果だった。
小宮さん、(パネルを出して)「高木仁三郎さんは亡くなるまでこうした指摘を繰返していたんですね」
高木仁三郎氏の指摘 1995年 (日本物理学会誌からの要約)
●(原発)集中立地が目立つ福島浜通りなどを大地震が直撃した場合などの危険性
●故障が重なるとメルトダウンから大量の放射能放出に至る危険性
●老朽化原発(福島など)いつ廃炉にするか、具体的に議論すべき
・
1988年10月28日放送 「朝まで生テレビ!」のVTRの映像が出てきた。
「電源別耐用年発電原価」が書かれたパネルが出てきた。その中に水力、石油、石炭、LNG、原子力の原価比較表が載っている。
東京電力原子力本部副部長、「それぞれのエネルギーのコストという耐用年発電原価で見るべきだ。原子力を進めてきたからこそ、原子力が石油に代替したからこそ、石油価格が下がって、逆転してきたわけです」
高木さん、「いろんな前提が入っているわけです。それをなしでそれをこの(パネルの)ように出すことがおかしい。たとえば、(廃炉にした後)何万年もの長い間の面倒をどうするか。こんなコストは全く入っていない。事故が起きた場合の損害賠償、保障の問題など。これを言わないというのはおかしい」
仁三郎がやり合っているのは、当時東京電力の原子力本部副部長だった加納時男氏。加納氏は後に東京電力副社長を経て、自民党参議院議員となり、国の原子力政策を推し進めた、まさに原子力推進派の中心人物。
「反原発を訴える学者で唯一尊敬できるのが高木仁三郎だった」(加納時男氏談)
・
(朗読)「考えられる事態とは地震とともに津波に襲われたとき。地域を覆うような大火に襲われたときなど様々なことがあげられる。そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは避けられてきた。しかし考えうるあらゆる想定をして対策を考えていくことが、むしろ冷静で現実的な態度と思われる」
じじぃの感想
3.11の福島第一原発大震災以降、東京電力は「想定外」を何度繰返したことだろう。
この高木仁三郎とは比較すべき対象にもならない。
また、原発事故の後、70年安保で左翼から右翼に転向した者のように、態度をがらりと変えて反原発を言う学者や評論家がいかに多いことか。
じじぃの「人の死にざま_645_佐藤・春」
佐藤春夫 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%98%A5%E5%A4%AB/12236/
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http://sakubun.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/05/post_a353.html
佐藤春夫 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
【経歴】
和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に医師・佐藤豊太郎(号は鏡水)、政代の長男として生まれる。
旧制第一高等学校の入試に臨んだが試験を中途で放棄し、慶應義塾大学文学部予科に進む(のち中退)。慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学ぶ。兄弟子に当たる久保田万太郎とは犬猿の仲であったが、荷風の死後明らかになった『断腸亭日乗』に、弟子の久保田と春夫を中傷する内容が書かれていたため、和解した。
1911年(明治44年)1月24日、同郷の医師である大石誠之助が大逆事件の被告として処刑されるが、その当時の心情を同年5月に詩「愚者の死」として『スバル』に発表し、折口信夫や上田敏に評価されている。1917年(大正6年)に神奈川県都筑郡に移り、『病める薔薇』の執筆を始め、翌年『黒潮』に発表。1919年(大正8年)にこの後半を書き足した『田園の憂鬱』を完成させて『中外』に発表。また同年8月から12月にかけて、短編「美しい町」を3回にわたって『改造』に分載。1921年に『殉情詩集』を発表し、小説家、詩人として広く認められる。また『新青年』誌などで多くの推理小説を発表。
友人である谷崎潤一郎の妻・千代に横恋慕し、1930年(昭和5年)に譲り受けるということがあった。谷崎と千代の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されてセンセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚の歌」(詩集『我が一九二二年』所収)も千代への思慕が背景にある。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。
1964年(昭和39年)5月6日、夕方頃に朝日放送の「一週間自叙伝」というラジオ番組の5月20日放送予定分を自宅の書斎で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を発した直後心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。
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佐藤春夫 (1892-1964) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和39年5月6日、佐藤春夫は「放送朝日」のラジオ番組「1週間自叙伝」の録音を文京区関口町の自邸でとることになった。
担当の放送朝日社員大熊邦也は語る。
「5月6日の夕方、蔦(つた)が緑色に美しくかがやいている佐藤家の門をくぐりました。
和洋折衷の10畳ほどの部屋で、和服姿の先生はこころよく私を迎えて下さいました。
『大阪から来たのでは大変お疲れでしょう。お茶でも飲んでから始めましょう』と、私の遅れて来た心苦しさをいたわって下さいました。私はその暖かい心づかいに感謝しながら、先生のお顔を拝見して、耳の大きさ豊かさに驚きました。
自分の半生を自分で話すということは、たいていの人が少しはテレる場合が多いのですが、先生も少々その気持ちがあって落ちつかれないにか、タバコをかなり吸われ、あらためて『それじゃ、やりましょう』と申されて、元気に録音を開始いたしました。この開始時間は私の記憶では5時35分だったと思います。
1回目のお話は、和歌山ですごした小学校時代のエピソードが主で、言葉も生き生きとして、お年のわりにはツヤのあるよい声だなと、と私は聞きほれていました。
役9分ほど録音したところで、1回目の区切りがつき、『調子はどうですか』と先生は満足げに私にきかれました。
『先生、大変結構です』と申しますと、先生はふたたびタバコに火をつけて『一休みしましょう』と血色のよい顔色でタバコをゆっくりと吸っておられました。
やがて2回目の録音が始まりました。
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3回目の録音に入る前に、『ぼくは、中学校時代には、話すことがたくさんあるんだ』とかなり長い間、頭の中を整理されて『それじゃ・・・・』ということで3回目の録音に入りました。6時10分ごろだったと思います。
前回と同じ調子で録音がはじまり、30秒ほどしたとき、私は耳にイヤホーンをかけてお話に聞き入っていましたが、突然息づかいが変になり、次第に苦しそうになりました」
そのとき佐藤春夫はこんなことを話していた。「学校ストライキがだんだん大きくなってしまって、学校の特別教室というのが、まあ化学教室やなんかからの1棟が、放火事件で・・・・放火らしい形で・・・・火事が起こって焼けてしまったんでね。そのとき私は東京に来ていたんで、倖いに・・・・」
そこで言葉は切れた。大熊は語る。
「私は本能的にその異常を感じて、『先生、大丈夫ですか』と叫んでいました。だが、その答えはなく、呼吸は乱れ、右食えの上にばったり倒れられると、人間ではないような、大きな、しかも怖ろしいうめき声に変わりました。
わたしは異様な恐怖につつまれ、録音中、先生の書斎には外からカギがかけられていましたので、『奥さん、奥さん』と大声で叫びました。だが、返答はありません。
一方、先生のうめき声は、机にうつぶせになったまま異様さを増すばかり、私はカギのかかっているドアを破るつもりで、『奥さん』と叫びつづけました。
――奥さんがこられるまで3分はたったでしょうか。先生の声はすでに消えておりました。血色のよいお顔、張りのあるお声、数分前のあの元気なお姿を知っているだけに、私は茫然としていました。
ときに6時15分、私はただひとり、1時間余りの時間のなかで、文豪の生と死の境界をみつめたのです」
彼は心筋梗塞を起こしたのであった。
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