じじぃの「人の生きざま_137_益川・敏英」

益川敏英 - あのひと検索 SPYSEE
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ノーベル物理学賞2008 動画 YouTube
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益川先生 ノーベル賞を語る−学生対話集会 動画 YouTube
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益川敏英 ウィキペディアWikipedia)より
益川敏英(1940年2月7日 - )は、日本の理論物理学者。専門は素粒子理論。名古屋大学特別教授、京都大学名誉教授、京都産業大学益川塾塾頭。
【概要】
愛知県名古屋市中川区生まれ。戦後は昭和区、西区で少年期を過ごす。生家は戦前は家具製造業、戦後は砂糖問屋を営んでいた。
名古屋大学坂田昌一研究室に所属し理学博士号を取得。博士論文のタイトルは「粒子と共鳴準位の混合効果について」(名古屋大学、1967年)。
京都大学理学部の助手であった1973年に、名古屋大学・坂田研究室の後輩である小林誠と共にウィーク・ボゾンとクォーク弱い相互作用に関するカビボ・小林・益川行列を導入した。この論文は、日本人物理学者の手による論文としては歴代でもっとも被引用回数の多い論文である。
京都大学より名誉教授の称号を授与され、現在は名古屋大学特別教授・素粒子宇宙起源研究機構長。京都大学基礎物理学研究所所長、日本学術会議会員を歴任した。
2008年、「小林・益川理論」による物理学への貢献でノーベル物理学賞を受賞。
コペンハーゲン学派の伝統を持ち帰った仁科芳雄の自由な学風を受け継ぐ坂田昌一のグループに属し、坂田が信奉する武谷三男の三段階説の影響を受けた、名大グループを代表する学者でもある。

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文藝春秋 2011年10月号
最強チームの法則 「名古屋大学大学院・坂田昌一研究室」
2人のノーベル賞を育てた”白熱教室” 【執筆者】益川敏英(ますかわとしひで、名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長) (一部抜粋しています)
2008年秋、益川敏英は、小林誠名古屋大学特別教授とともに、ノーベル物理学賞を受賞した。若き日の2人が育ったのは、名古屋大学大学院の坂田昌一研究室(通称・E研)だ。今でも益川教授は坂田教授のことを「運命の人だ」と語る。教官学生関係なしに喧々諤々の議論が行われたE研は、日本を代表する研究者を生みだす伝説の"白熱教室"だったのだ――。
坂田先生はすばらしい研究のためには、最良の組織と最良の哲学が必要だと考えておられる方でした。民主的な研究体制の必要性を唱えていた物理学者・パーナルの著書を熟読されていたのを覚えています。化学兵器が利用された戦争に胸を痛め、「研究組織の封建性の除去と民主的再建に尽力することが我々の社会的責任だ」と説かれたこともありました。その理念を実現させるため、坂田先生が中心となって制定されたのが、名大物理学教室が掲げる「民主主義の教室憲章」です。そこには。「学問の前には皆平等」という先生の想いがこめられていました。
E研では、研究室全体で自由な議論を行うということが徹底されていました。要領を得ない発言をすると、即座に矢のような鋭い質問が飛んでくる。僕はコロキウムのたびに「それはおかしいじゃないか」と議論を吹っかけていたから、「イチャモンの益川」というあだ名で呼ばれていました。一方、小林君は普段は口数が少ないタイプでしたが、切れ者で問題点をビシッと指摘してくれます。E研にいたのは、一癖も二癖もあるような学生ばかりでした。
もちろん議論している間は、上下関係はありません。ですから、教官に対しても「○○先生」ではなく、「○○さん」と呼んでいました。上下関係を意識してしまうと、教官のほうが間違っていると思っても指摘するのを躊躇してしまう。教官だから正しいのではなく、あくまで"正しい人が正しい"のです。ただ、坂田先生だけは別格の存在で、気軽に「坂田さん」とは呼べませんでしたが。
それでも坂田先生に「それはおかしいですよ」と反論することはありました。私が院生だった60年代当時、「(古典的とされていた)場の理論は もう使えない」と言われていて、先生も「素粒子の運動法則はいずれ新しい理論に置き換えられるはずだ」とおっしゃっていた。しかし、私はそうは思わなかった。そこで、先生にはキッパリと「そんなことは場の理論を使い切った人間が初めて言える話だ」と申し上げました。よくそんな強気な態度に出たなと思いますが、のちに場の理論復権して、私の読みが正しかったことが実証されます(笑)。
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思えば、私と小林君がノーベル賞を受賞したテーマ「CP対称性の自発的破れ」も、E研の研究環境で育ったからこそ発表することができたと言えるかもしれません。60年代当時、(物質の根源である)クォークは3個しか見つかっていませんでした。ところが、E研では「4個まであるかもしれない、そのほうが面白い理論ができる」という考え方を取っていました。当時の学会では決して主流ではありませんでしたが、4個にこだわって議論を重ねていた。なかなか結果が出ずに、煮詰まることもありましたが、ふいに「6個ならどうだろう」と思いついたわけです。一旦、発想の転換さえできれば、理論自体は自明でしたから、すぐに小林君と相談して論文(小林・益川理論)を完成させました。しかし、今の研究者にはどうも冒険心が欠けているように思います。先生の顔色をうかがうのではなく、もっと議論を吹っかけてきてほしい。すばらしいアイデアは、窓から飛んできた矢に驚いた途端、生まれることもあるわけです。坂田先生は毎年のように新年の訓示で、「革命は必至である」と挨拶されていました。凝り固まった思想から脱却しなければ、新たな発見は出来ないということでしょう。若い研究者には、狭い視野で物事を考えるのではなく、是非、革命を起こすくらいの野心で頑張ってもらいたいですね。

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益川敏英 Google 検索
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じじぃの「九州説か大和説か・魏志倭人伝で見れば大和説が有力か?!三国志から見る邪馬台国」

邪馬台国発見 プロローグ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=a5jTd010l5w&feature=related
知恵泉邪馬台国古代ミステリー(2)女王卑弥呼の謎 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x5llel7
先人たちの底力 知恵泉 「邪馬台国はどこにある? 古代ミステリーを楽しもう」 (追加) 2017年5月9日 NHK Eテレ
【司会】二宮直輝 【出演】石田衣良(小説家)、村井美樹(女優)、吉村武彦(明治大学名誉教授)
邪馬台国探しの旅に出た二宮アナ。北九州や出雲から見えてきたのは、稲作をするムラの集まりという弥生時代のイメージを覆す、ダイナミックな日本の姿だった。
さらに、邪馬台国の最有力候補地のひとつ奈良の纏向(まきむく)遺跡からは、不思議なことに畑や田んぼ、農具など、生活必需品がほとんど見つかっていない。そこから導き出さた驚きの結論は「邪馬台国という国はなかった!?」。
九州岡山・吉備出雲北陸そして東海。それらに囲まれた近畿にある奈良県纏向遺跡
ここに女王卑弥呼の治める強大な王国邪馬台国があったのでしょうか。
ところが発掘が進むにつれ纏向遺跡には他の王国とは明らかに違う不思議な点があることが分かってきました。
纏向からはどの遺跡からも必ず出土する生活に不可欠なあるものが見つかっていないのです。
卑弥呼という名前の持っている意味を考えるとこれは、卑弥呼とは「ヒメミコ」「ヒメミコト」という女性の尊称。
つまり、「倭人伝」を綴った中国の人がそれを人の名前だと誤解したのではないかと、歴史学者の遠山美都男さんは推測します。
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/x/2017-05-16/31/8127/1494154/
歴史秘話ヒストリア 「女王・卑弥呼は どこから来た? 〜最新研究から読み解く 二つの都の物語〜」 2014年6月4日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ
●エピソード1 卑弥呼はここに住んだ?纒向遺跡
簡素な竪穴住居が一般的だった時代、高床式建物が並ぶ“都市”−奈良県・纏向(まきむく)遺跡から推測された景観です。ところがこの遺跡、近畿にあって同地域の他の遺跡と異なり、むしろ日本の他の地方との共通性が数多く発見されました。纏向は、九州から関東の人々が集住した古代都市だったのか。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
NHKスペシャル 「”邪馬台国”を掘る」 2011年1月23日
一昨年、奈良県の纒向(まきむく)遺跡で邪馬台国の女王・卑弥呼の王宮ともいわれる巨大な建物群が発掘された。纒向は、東西2キロ/南北1.5キロの巨大遺跡。弥生時代末期の3世紀、突如建設された日本列島の中心都市だったことが明らかになり、邪馬台国の最有力候補地とされている。
去年夏、古代史最大の論争に決着をつけるべく建物群の周辺で更なる発掘が行われた。特に期待されたのが王宮跡のすぐわきで見つかった長さ4メートルの穴。王宮内で使用された貴重品を納めた“聖なる井戸”と推定されており、邪馬台国の決定的証拠になる中国の魏王から卑弥呼への贈り物を封じた印(封泥)や、魏との外交木簡が探された。
発掘現場からはここにあった国が諸国の連合国家であったことを示す土器、人為的に破壊された銅鐸、そして2000個を超える多数の桃の種などが出土した。これらは何を意味する物なのか。「倭国大乱」と呼ばれる内戦に直面した王たちが、新たな大王を「共立」したという王権誕生の謎、そして弥生時代の古い宗教を捨て、新たな国家統合のシンボルとなる宗教を創始したことが判明してきた。
果たしてここを卑弥呼邪馬台国とする決定的な証拠は発掘されるのか?番組では、纒向遺跡の発掘に密着し謎のベールに包まれた実像に迫る。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110123.html
邪馬台国 ウィキペディアWikipedia)より
邪馬台国(やまたいこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。ちなみに、ここで使われている国とは、この時代の中国漢文でいう国(こく)=塀、柵、堀などで囲われた砦の町のことである。 中国の史書では、邪馬台国卑弥呼が治める女王国であり、倭国連合の都があったとされている。邪馬台国の所在地が九州か近畿か、21世紀に入っても日本の歴史学者の説が分かれている。
【位置に関する論争】
厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに素直に距離と方角を辿ると邪馬台国は太平洋のど真ん中に行きつく。ゆえに、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が”畿内に移動してヤマト政権となった"とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は小さく"畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた"とする説がある。
それ以外にも、久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。

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魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 渡邉義浩/著 中公新書 2012年発行 (一部抜粋しています)
はじめに
わたしは、中国の三国時代の研究を専門とする。日本古代史や日本考古学を専門としないわたしが、「魏志倭人伝」を読み解く理由は、「魏志倭人伝」が、65巻に及ぶ『三国志』のなかの、「卷三十 鳥桓・鮮卑東夷伝」の一部である「倭人の条」(以下、倭人伝と「略称)を指しているためである。倭人伝は、『三国志』という史書の持つ偏向が、明確に現れている部分であり、以前から邪馬台国論争への提言を試みたいと考えていた。倭人伝には、使者の報告などに基づく部分と、史家の持つ世界観や置かれた政治状況ににより著された観念的叙述の部分とがあるため、両者を分けなければならないという提言である。
両者の区別を日本古代史や日本考古学の研究者に要求することは酷である。『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ、233〜297年)の世界観や政治状況は、約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之(はいしょうし)(372〜451年)の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、世界観を形成している儒教の経典に通じなければ分からないためである。本書は、すでに出版されている倭人伝に関する多くの著作に比べて、『三国志』に目を通した中国史研究者が、倭人伝の記述を2つの部分に分けて検討するところに特徴がある。
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それでは、倭人伝の虚実は、どのように判断すればよいのだろうか。単純な事実だが、「魏志倭人伝」という書物は本来存在しないことに、思いをいたすことから始めるべきである。日本で「魏志倭人伝」と呼んでいるものは、陳寿が著した『三国志』のほんの一部分(約0.5パーセント)にすぎない。『三国志』は、邪馬台国を記録するために著された史書ではないのである。したがって、倭人伝を読み解くには、『三国志』全体のなかでの倭人伝、あるいは倭国卑弥呼の位置づけを理解しなければなるまい。そのためには、『三国志』を著した陳寿の学問、『三国志』の歴史書としての特徴と記述の偏向、『三国志』に付けられた裴松之の注の史学史上での位置づけなどを踏まえたうえで、倭人伝を読む必要がある。
九州説か大和説か
九州説の弱点とされてきたことは、第1に、倭人伝に記された道程では、距離が九州内に収まらないこと、第2に、4世紀とされていた古墳築造の開始年代が3世紀の前半まで遡り、九州よりも大規模な古墳が近畿・中国地方に存在していること、第3に、九州説が邪馬台国の所在を主張する北九州の弥生遺跡の優位性が、3世紀に入ると失われることであった。倭人伝の理念と事実を区別した結果、第1に距離に関する記載は、大月氏国との関係において理念化されたものであるため、弱点として挙げる必要性は低い。これに対して、第2・第3の弱点は、文献解釈により克服されるものではない。
一方、大和説の弱点は、第1に、倭人伝に記された道程では、方位が異なること、第2に倭人伝の民族・風俗が南方系であること、第3に、近畿以西に存在したはずの吉備国出雲国の詳細に触れないまま、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然であることが指摘されていた。第1の方位に関する記載は、邪馬台国孫呉の背後にある東国の大国とみなすために、理念的に方位が偏向されており、弱点として挙げる必要性はない。第2の民族・風俗についても、倭人伝が儋耳郡と朱崖郡の記述を踏襲しているために生まれた理念であって、弱点として挙げる必要性はない。第3の問題は、道程の最後の部分を『史記』夏本紀に記された禹の「水行」「陸行」を典拠として理念的に表現しているため、途中が抜けることは不自然ではなく、これも弱点として挙げる必要性はない。
すなわち、倭人伝の道程に関する偏向を考慮すれば、邪馬台国は大和にある可能性が高いと言えよう。不弥国投馬国の間が「水行二十日」と、「水行」だけで表記されていることも、それを瀬戸内海や日本海に当てはめれば違和感はない。それ以上に、まだ検討していない「国制」に関する文献解釈により、大和説に左袒(さたん)すべきことが明らかとなる。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、『魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国』という本を見ていたら、「九州説か大和説か」というのが出てきた。
「はじめに」の章に、こんなことが書かれている。
陳寿が著した『三国志』のほんの一部分(約0.5パーセント)にすぎない。『三国志』は、邪馬台国を記録するために著された史書ではないのである。したがって、倭人伝を読み解くには、『三国志』全体のなかでの倭人伝、あるいは倭国卑弥呼の位置づけを理解しなければなるまい。そのためには、『三国志』を著した陳寿の学問、『三国志』の歴史書としての特徴と記述の偏向、『三国志』に付けられた裴松之の注の史学史上での位置づけなどを踏まえたうえで、倭人伝を読む必要がある」
そうかあ、「魏志倭人伝」と言われるものは、陳寿が著した『三国志』のほんの一部分なのか。『三国志』はどれだけ、史実に基づいて書かれているんだろう。
「一方、大和説の弱点は、第1に、倭人伝に記された道程では、方位が異なること、第2に倭人伝の民族・風俗が南方系であること、第3に、近畿以西に存在したはずの吉備国出雲国の詳細に触れないまま、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然であることが指摘されていた」
大和説の最大の弱点は邪馬台国の方位が異なることだ。邪馬台国はさらに南に位置していないといけない。
この方位をなんとかしなくちゃ。(^^;;
陳寿が生きていた3世紀の日本はどうだったんだろう。
一番古い日本地図は?
行基図」は、奈良時代の僧、行基(668〜749)が作ったという伝承つきの地図。現在確認することのできるものではもっとも古い日本図です。
http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/2001haru/p1.htm
東北地方から北は途中で消えているが、大体、現在の地図に似ている。
3世紀の日本の勢力図は九州と大和に二分されていた。だから、中国に伝えられた日本のイメージは九州と大和がごちゃまぜになっていた。
陳寿は日本に関する情報を主に、九州寄りの役人からの情報を基に倭人伝を書いた。一部は大和寄りの役人からの情報も取り入れた。
「すなわち、倭人伝の道程に関する偏向を考慮すれば、邪馬台国は大和にある可能性が高いと言えよう。不弥国投馬国の間が『水行二十日』と、『水行』だけで表記されていることも、それを瀬戸内海や日本海に当てはめれば違和感はない」
「水行二十日」を瀬戸内海にすれば、ちょうど大和にたどり着くなあ。
たぶん、3世紀の日本地図では大和はもっと南にあったんだろう。そして、卑弥呼は大和にいたのだろう。
なんちゃって、おじぃでした。