じじぃの「人の死にざま_1055_李・承晩」

李承晩 - あのひと検索 SPYSEE
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昭和34年7月29日 李ラインを行く ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11757416
韓国に竹島を描いた古地図は存在するか: 日韓古地図の比較 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=_w7wHekOQM8&hl=ja&gl=JP
李承晩ライン
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/18/067dc90d0cd81c43ca014ef65ab5728a.jpg
李承晩 ウィキペディアWikipedia)より
李承晩(イ・スンマン、り・しょうばん)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。
日本ではかつて「り・しょうばん」と日本語式に読まれることが多かったが、1990年代以降は韓国語読みの「イ・スンマン」が一般的に用いられるようになった。
【対日政策】
李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。保導連盟事件済州島四・三事件国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすために激しい反日教育を行い、それが現在でも韓国社会に多大な影響を与えている。
1954年のサッカーワールドカップアジア予選では、「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー韓国代表の参加を許した。当時の代表監督に「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードがある。出場を決めた際には歓迎式と祝賀パレードが行われた。
在任期間中に行われた反日政策として、李承晩ラインの設定、竹島編入、日本文化の禁止、親日派処分などがある。権威主義政権として基盤の脆弱な李承晩が、このような自己正当化の論理に頼った面も強い。また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。今日でも、これらの政策による弊害が大きく、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。
領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱責を受けるほど、日本を占領したいと発言していた。
また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。のちに韓国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあって、今日では次第に改善されてきている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
李承晩 (1875 - 1965)  【執筆者】林梓生 (一部抜粋しています)
李承晩は1875年、ソウル北方の農村で、エリート階級の両班(ヤンパン)の家に生まれた。ソウルに出て英語教師となり、学生団体の書記として活動する。日本やロシアの干渉に弱腰な李朝政府を批判する新聞を発行し、街頭演説をしたりしていた。
99年、逮捕され終身刑を言い渡される。しかし進歩派の閣僚が彼の英語力に目をつけ、特赦で出獄させた。祖国の主権保護を訴える密命を帯び、米国に派遣されたりした。
1910年、大韓帝国は日本に併合された。35歳のときだ。彼は米国に亡命する。ハワイを拠点に、それから30年余りの長い抗日闘争が始まった。
33年、ジュネーブで開かれた国際連盟の本会議を傍聴した。中国侵略を非難された日本が、連盟を脱退した会議である。
このときホテルのレストランで、のちの妻となるオーストリア女性、フランチェスカ・ドナーと知り合う。彼女は後年こう語っている。
「東洋の紳士だと支配人から紹介されました。しかし彼の食事は1日1回か2回で、それも白菜とジャガイモ、ソーセージという貧弱なものでした」
闘争の生活は困窮の極みだったようだ。
翌年、2人はニューヨークで結婚した。李承晩59歳、フランチェスカは34歳だった。妻は献身的に夫の運動を支えた。
結婚の曲語、ワシントンで講演をすることになった。2人は車で会場に向かった。途中で李承晩はスピード違反をし、白バイに停止を命じされた。ところが彼はアクセルを踏み込み、猛スピードで会場まで突っ走った。会場でやっと彼を捕まえた警官が、あきれ顔でいった。
「20年間この仕事をしているが、私が追いつけなかったのはお前だけだ」
李承晩はいつも猛スピードで運転した。信号無視もあった。「運動が思うようにいかないイライラが、つねにあったのではないか」とフランチェスカ夫人はいっている。
45年8月、日本の敗戦。韓国にとっては祖国の解放だった。
朝鮮半島は、北緯38度線を境に南に米軍が、北にソ連軍が、それぞれ進駐した。李承晩はその年10月、米軍機でソウルに降り立つ。33年ぶりの故国だった。
48年8月、大韓民国(韓国)が樹立された。73歳の李承晩が初代大統領に就任した。
翌9月、金日成首相が率いる朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が建国された。南北分断が確定した。
朝鮮戦争ただなかの52年1月、李承晩は韓国周辺の公海上に主権を宣言し、外国船の操業を禁止した。これが「李承晩ライン」だった。
「あんな怖い思いをしたことはない」と、長崎市の土山和則さんは今もいう。当時、サバ漁船の航海士だった。
63年9月下旬の夜明け前、李承晩ラインを越え、韓国南岸で操業していた。巻き網がいっぱいになったとき、突然銃声がした。韓国の警備艇が無灯火で接近していたのだ。
警備艇から数人が乗り移り、漁労長にピストルを突きつけた。
包丁で網を切って逃げようかと考えました。でも失敗したら殺されると思いとどまりました」
乗員34人全員が釜山に連行された。
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97年夏、韓国誌が歴代大統領の業績を考える座談会を特集した。李承晩については土地改革、産業育成、教育充実を挙げる声が多かった。仁川大学総長の金学俊さんは李承晩を厳しく批判するが、業績は客観的に評価すべきだという。
「韓国の近代化、独立、建国の過程で国の基礎をつくり、北朝鮮の侵略を防いだ功績は大きいのです」
独立後、それまでの支配層の責任を追及する動きがあった。しかし朝鮮戦争の勃発でうやむやに終った。旧来の官僚たちが周辺を取り巻き、大統領に民意が十分に伝わらなかった、という意見がある。
しかしもっと大きいのは、権力そのものの持つ魔力だったのではないだろうか。
ハワイに移った李承晩は「国に帰りたい」が口ぐせだった。62年、彼は3月17日のソウル行きの飛行機を予約し、知人たちと送別会まで開いている。だが出発の朝、朴政権から連絡が入った。
「祖国の健全な発展を願うなら、帰国をやめてほしい」
自分に対する民衆の怒りがそれほど激しいということを、彼は改めて知る。以後、病気がちになった。65年7月、病院で妻にみとられて死ぬ。90歳だった。

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