じじぃの「人の生きざま_198_吉永・小百合」

吉永小百合 - あのひと検索 SPYSEE
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映画「ガラスの中の少女」 吉永小百合 浜田光夫 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=56d4z3GAd7I
映画「キューポラのある街」予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5XnvN2KBvLs
わが青春の吉永小百合 PART.3 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=L5dxSn-X97g
吉永小百合 ウィキペディアWikipedia)より
吉永小百合(よしながさゆり、1945年3月13日 - )は、日本の女優である。本名、岡田小百合。東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。そのファンは、「サユリスト」と呼称される。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。早稲田大学第二文学部西洋史学専修卒業、学位は文学士(早稲田大学)。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。
【人物】
・父の吉永芳之(鹿児島県出身)は、九州耐火煉瓦、外務省嘱託をへて、出版社「シネ・ロマンス社」を経営。飯島正双葉十三郎らと映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行するも、事業に失敗している。
・母方の祖父に、英文出版社の大観社社長の川田友之。叔母に『婦人画報』編集長、「アムネスティ・インターナショナル日本支部」の創設メンバーの川田泰代が名前を連ねるなど、執筆の世界とも所縁が深い。
・遠縁に歌手の佐良直美がいる(佐良直美の母方の大伯父である山口彰夫の妻と、吉永小百合の母が姉妹同士)。また山本直純の妻の山本正美も遠縁にあたる(山本正美の妹の夫の母が、吉永小百合の母のいとこの妻と姉妹同士)。
・「日活の看板女優」として、浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。従来の男性アクション映画路線がマンネリ化していた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。特に、『キューポラのある街』、ベストセラーを映画化した『愛と死をみつめて』などは世間から熱い注目を集めた。ブロマイドがあまりの売れ行きに店頭から姿を消すなど、爆発的に売り上げを伸ばした。1964年(昭和39年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)と、年間売上実績で女性部門1位に光輝いた。清純派として世間に認知されていくが、一方で中尾彬・渡哲也と付き合い、渡とは結婚する寸前までいったが両親から猛烈に反対され、泣く泣く別れた。その後は石坂浩二に恋焦がれるが、28歳の時に15歳上のテレビプロデューサー・岡田太郎と電撃結婚した。冨士眞奈美吉行和子ら女優や文士も参加した句会では、吉永がまだ20代の頃であるが、「今日はバレ句(色っぽい句)を詠みましょう」というテーマが出され、優等生・清純というイメージとは裏腹に「松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり」と詠み、秀逸作品(天・地・人、の天)に選出されている。
サユリスト
・「サユリスト」を自認するタモリは、同じく「サユリスト」として知られる野坂昭如を指して「あの人は一時、山口百恵に走ったが、俺は小百合サマ一筋」と述べたことがある。タモリと吉永は早稲田大学第二文学部に在学していた時期が重なっており、学生食堂で吉永が食事しているのを偶然に発見した際、吉永の食べ残しを食べようか迷った末、思いとどまったというエピソードがある。
早稲田大学の女子学生をさす、バンカラで、男まさりで、活動的な「早稲女(わせじょ)」の代表的O.G.としてしばしば名があげられる。
漫談家綾小路きみまろも「サユリスト」を自認する人物の一人。また、吉永も綾小路のファンであり、吉永の主演映画『まぼろしの邪馬台国』では、吉永の希望によって綾小路に出演依頼を行い、綾小路は「サユリストの1人としてぜひ」と快諾。なお、綾小路にとってはこれが実質的な俳優としてのデビュー作である。

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文藝春秋 創刊90周年記念号
激動の90年、歴史を動かした90人 「吉永小百合 撮影現場の失神」 【執筆者】浜田光夫(俳優) (一部抜粋しています)
小百合ちゃんとは44本もの映画で共演しましたが、最初は『ガラスの中の少女』(1960年)でした。僕は当時17歳で、デビュー作でしたし、彼女は15歳で主演第1作でした。
中学時代の同級生同士が純愛のまま心中してしまうという映画なんですが、心中のシーンを富士五湖本栖湖で撮影しました。当時、本栖湖はまだ開けていなくて神秘的なムードでね、そこで自殺した小百合ちゃんが湖に浮かんだまま亡くなるというシーンを30〜40分かけて撮影しました。10月の寒い日で、僕らは、たき火を囲んで見守っていた。なかなか撮影が終わらなくて、「大丈夫か」なんて声をかけるんですが、何も言わず演技をしている。ようやくカットになって、すぐ起き上がってくるかと思ったらピクリともしない。急いで駆け寄ると、そのまま失神していました。その精神力の強さに僕はびっくりしました。
僕が最高傑作だと思っている『泥だらけの純情』(63年)は、小百合ちゃんにとってもきっと3本の指に入る作品だと思いますが、このときの彼女のがんばりもすごかった。大使の令嬢とチンピラの恋愛で、逃避行のあげくやはり最後は心中するんですが、赤倉の新雪の中で子供のように無邪気にはしゃぎまわって睡眠薬を飲む。僕はスーツだけど、彼女はスカート姿で、雪の中を転げ回るのですから、きつかったと思うけど、泣き言1つ言わない。
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あるときポツリと僕に言うんです。
「私の理想の男性のタイプは年上で、ごつごつしたジャガイモみたいな人。例えば宇野重吉さんみたいな人かな」ってね。これは僕とタイプが違うなと。でも、私情が挟まっていないから、これだけ長く共演できたのでしょう。
当時、日活はアクション路線の全盛期で、石原裕次郎さんや小林旭さんが大活躍していました。そこに、僕らの共演による青春・純愛路線が加わって2本柱になりました。裕次郎、旭がスターらしいスターだったのに対して僕と小百合ちゃんは庶民派でした。
美しいヒロインがエリートではなく、職工や漁師、苦学生、チンピラなど庶民を演じる僕を選ぶというストーリーに当時の人たちが共感したのでしょう。高度経済成長期で貧乏から立ち上がっていく中で、僕らの映画に光や希望を感じてくれたのかもしれません。
青春・純愛路線が確立するきっかけとなったのは、やはり『キューポラのある街』(62年)でした。浦山桐郎さんの初監督作品であり、当時撮影は1ヵ月で終わらせるのが当たり前のときに3ヵ月もかける大作でした。作品的にも興行的にも大ヒットし、ブルーリボン賞を総なめにしました。
小百合ちゃんは川口の鋳物工場の職人の娘役でジュンという役名でした。ジュンは工場をクビになった飲んだくれの父親を支えて立ち上がっていく、僕はそれを助ける話の分かる隣の兄ちゃん役。小百合ちゃんは勝ち気な負けず嫌いで、ジュンの役柄はその性格のままでした。
家庭や自分のことを話しませんでしたが、一度だけ、僕の17歳の誕生会のときに、「家に帰りたくない」と泣いたことがありました。彼女の家は厳格な家庭で、いろいろと悩みもあったのでしょうが、詳しいことは聞いていません。
いまも小百合ちゃんは女優としての道を貫き、バラエティ番組などには出ないし、プライベートを語りませんね。そんな俳優魂を持った役者は小百合ちゃんと高倉健さんぐらいしかもういないのではないでしょうか。

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