じじぃの「人の死にざま_1215_北原・怜子」

北原怜子 - あのひと検索 SPYSEE
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1_蟻の街の誕生 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=knWWAdj3EMs
2_蟻の街へ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4Umge6yN4z8
松居桃楼さんと『蟻の街の子供たち』 心のさかば
蟻の街のマリアと呼ばれた北原怜子さんの「蟻の街の子供たち」聖母文庫(聖母の騎士社)は北原怜子さんの書かれた手紙と、蟻の街の子供たちの作文から構成されています。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/157819/138594/17268759
北原怜子 ウィキペディアWikipedia)より
北原怜子(1929年8月22日 - 1958年1月23日)は、キリスト教の教義に基づき献身的な活動を展開した社会奉仕家である。「蟻の町のマリア」とよばれた。東京都出身。
【概要】
東京府豊多摩郡(現・東京都杉並区)生まれ。北原金司(群馬大学東京農業大学教授、経済学博士)の三女。桜蔭高等女学校(現桜蔭中学校・高等学校)、昭和女子薬学専門学校 (旧制)卒業。1949年光塩女子学院にて受洗(洗礼名エリザベス)。
1950年に浅草にある姉の家に転居した際“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロフスキー修道士と知り合い、隅田川言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈(台東区側)にあった通称「蟻の町」の事を知る。「蟻の町」とは小沢求、松居桃楼たちがまとめ役となって結成された廃品回収業者の居住地である。
当初は、通いながら奉仕活動をするものであったが、やがて彼女は貧者を慰問することは偽善者のごとき大きな罪であると悟り、自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合う事が重要であると考えるようになった。彼女の行動によって「蟻の街」、特に子どもたちの教育環境は段々と整えられていく。
彼女の行動は世界に発信され賞賛の声が多く届くが「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじる事はなかった。
諸々の奉仕活動での体力的無理が祟り著しく健康を害し、療養のため「蟻の街」を離れるが、やがて死期を悟ると「蟻の街」に再び移住。1958年腎臓病で夭折した。28歳没。墓所多磨霊園にある。

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『10人の聖なる人々』 島村菜津・三浦暁子・引間徹・高林香子/著 学習研究社 2000年発行
北原怜子 ”社会の吹き溜まり”に咲いた一輪の花 【執筆者】三浦暁子 (一部抜粋しています)
蟻の街はいろいろな意味で、血沸き肉踊るところだったようだ。食うために必死の毎日がある。一方、バタヤとして再生しようとする理想も高い。酒を飲んでの喧嘩が絶えないような毎日がくり返されながら、社会に対する関心も人一倍だ。何よりも、人々の間には、どうにかして今の生活から抜け出そうとする心意気があった。
その中心にいた。豪放磊落(ごうほうらいらく)な小沢求(廃品回収業者)とインテリで皮肉屋の松居桃楼(作家)。このふたりのコンビだけでも充分魅力的だが、さらに、ここにもうひとりのヒロインが登場する。
北原怜子(きたはらさとこ)である。
まるで天からの贈り物のように、彼女はひらりと蟻の街に舞い降りた、張りめぐらされた高い塀も、人を寄せつけない独特な街の雰囲気も、彼女は頓着(とんちゃく)することなく乗り越え、蟻の街という舞台にしとやかに姿を現すのだ。そして、彼女の存在こそが、「蟻の街の奇跡」と呼ばれるような数々のドラマを生み出すことになるのである。
北原怜子は、1929年(昭和4年)東京は杉並区の馬橋に生まれている。北原家にとっては、3番目の女の子で、彼女の上には、長女の和子と次女の悦子、そして、長男の哲彦がいた。北原金司の『マリア怜子を偲(しの)びて』によると、ドイツの巨大な飛行船グラフ・ツェッペリンが東京上空に姿を現した日、それに驚いたかのように産声をあげたのが怜子だったという。
1931年、怜子が2歳のとき、すぐ上の姉・悦子が脊椎カリエスのために夭逝(ようせつ)する。姉を慕っていた怜子はその死を大変に悲しみ、骨壷の前に座り込んで絵本を広げ、くり返し、くり返し、何事かを話しかけていたという。幼いながらも、周囲のために何かしないではいられない性格の持ち主であったようだ。
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怜子には、素直というか、大胆というか、一度決めたらあとは迷わず、疑いも持たずにずんずんと突き進むところがある。こうして、怜子は蟻の街に通うようになった。最初からすべてがうまくいったわけではない。すぐに誰からも受け入れられたわけでもない。しかし、怜子は少しずつ前に進み、次第に周囲の人に受け入れられ、とけ込んでいった。そして、たんだんと周囲の人々に影響力を発揮しはじめ、彼らを変えていくのである。
最初に怜子を受け入れたのは子どもたちであった。
1950年(昭和25年)の12月24日、蟻の街では盛大なクリスマス会が催された。怜子が奮闘したことは、言うまでもない。怜子はこのクリスマス会に妹を連れて行った。たったひとりで慣れない場所に行くのはやはり心細かったのか、それとも子供たちと同じ年ごろの妹を連れて行ったほうが皆ととけ込めると思ったのか、今となってはわからない。
妹の肇子は、このときのことをよく覚えている。
「ええ、一緒に参りました。姉に紙芝居をするように言われたので、『おいもさん』という紙芝居をご披露しました」
北原姉妹の心が通じたのだろう。普段は知らない人には警戒心を露(あら)わにする蟻の街の子どもたちが、怜子姉妹とはすぐに仲良しになる。そして、怜子を先生、先生と呼んで慕うようになった。彼女が姿を現すと、子どもたちはわっと歓声をあげて駆け寄り、輪になって取り囲み、踊りださんばかりの騒ぎである。
子どもたちにとって、怜子は幸福を運んでくれる存在だったろう。優しく美人の先生がにこにこ笑いながら、勉強を教えてくれたり、一緒に歌を歌ってくれたりする。それも、オルガンの伴奏付きで。それだけではない。「聖母の蟻」という子供新聞を出したり、図書室を作ったりと、次々と楽しいことを考え出しては、実行に移す。
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やがて、怜子はもうひとつの大きな山を動かすことになる。
怜子がぶち当たった最後の山、それは東京都の役人であった。
怜子が小康状態となったころ、蟻の街のほうはかなり深刻な危機を迎えていた。東京都が隅田公園を占拠している蟻の街に、立ち退きを迫っていたからだ。ようやく生活していけるようになったというのに、ここを追い出されてしまったらいったいどうやって暮らしていけばいいのか。松居や小沢会長は必至の抵抗を試みる。
苦労の末に、ようやく立ち退き先として東京湾の埋め立て地である8号地を確保したものの、手放しで喜ぶわけにはいかなかった。新しい土地の代金として東京都に支払う2500万円を用意しなければならない。それも即金で。とても一度に払える金額ではなく、皆が「蟻の街は焼き払われるのだ」と絶望の淵に立たされた。
そんなときさえ、怜子だけが頬笑みを絶やさなかった。蟻の街が移転することが神の御旨(みむね)にかなうのなら、きっとなんとかなると堅く信じていたからだ。そして墨色も鮮やかに「弐千五百萬円」と書いた紙を枕元に貼りつけ、それに向かって、毎日、毎日祈りを捧げつづけたのである。
松居はそんな怜子を見て、彼女が命をかけて祈っていることに気づき、愕然としたという。これまでずっと一緒に苦労してきた松居には、怜子の覚悟がひしひしと感じられたのだ。しかし、彼にはそれを止めることはできなかった。怜子が決心したらてこでも動かぬ強さを持った人であることがよくわかっていたからだ。
こんなこともあった。松居が徹夜で立ち退きの危機脱出のために必要な書類作りに追われていたとき、ある夜、つい眠り込んでしまった。はっと目が覚めると、松居の目の前に綺麗に浄書された文書が置かれている。怜子の字である。眠っている間に、病にふせっているはずの怜子が、徹夜で浄書してくれたのだ。松居は胸に迫るものを感じながら、ついぶっきらぼうな調子で「これは何ですか。これは……」と怜子を責めてしまう。それでも、怜子は静かに笑いながら、松居の気持ちをいらいらさせてごめんなさいと謝るのだった。
1958年(昭和33年)1月19日、東京都から1本の電話がかかってきた。明朝、出頭するようにということだった。2500万円の問題について、何らかの結論が出たのだ。
緊張して出向いた松居は、交渉相手である係官の机の上に怜子の著書『蟻の街の子供たち』が置いてあるのに気づいた。もしかしたらうまくいくかもしれない……松居はそう感じた。そしてそんな彼の耳に、信じられない言葉が聞こえてきた。係官はおもむろにこう言った。
「いろいろ、蟻の街の都合や事情も考えた末、やはり、1500万円を5ヵ年年賦(ねんぷ)という条件がいちばん妥当だと思うようになりましたが、あなたの方に何か異存がありますか?」
異存があるはずはなかった。2500万円の即金が1500万円の5ヵ年年賦に軽減されたのだ。怜子の祈りが通じたのか。それとも、神の御旨にかなったのか。とにかく蟻の街は焼き討ちの危機から脱することができたのである。
しかし、もうひとつの奇跡は起こらなかった。
松居のうれしい知らせを聞いた怜子は、満足そうにほほえむと、もう思い残すことはないと言い残し、昏睡状態に陥る。そして、そのまま静かに息を引き取るのである。
まだ、28歳の若さであった。

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