じじぃの「人の死にざま_1217_佐藤・千夜子」

佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gY9u5FPyAis
紅屋の娘 獨唱 佐藤千夜子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=e90uIlUrQ9g
港をどり(佐藤千夜子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cL1_6VCU18g
山形県天童市/著名人/佐藤千夜子
日本の流行歌手第1号 レコードアイドル歌手 佐藤千夜子
1897年(明治30年)3月13日、天童市一日町に生まれる。本名千代。 14歳で上京し、普連士女学校、青山女学院へと進み、東京音楽学校(現在の芸大)のと き、聖歌隊員として讃美歌を独唱したところ、中山晋平に見いだされた。
http://www.city.tendo.yamagata.jp/tourism/kanko/chiyako.html
佐藤千夜子 ウィキペディアWikipedia)』より
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。晋平節を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。

                                      • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
佐藤千夜子(さとうちやこ) (1897 - 1968) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和初年、流行歌手の第1号として、「磯の鵜の鳥や日暮れにゃかえる……」の「波浮(はぶ)の港」、「昔恋しい銀座の柳……」の「東京行進曲」、「紅屋の娘のいうことにゃ……」の「紅屋の娘」などの歌をレコードに吹きこんで、一世を風靡し、当時世に出たばかりの古賀政男も自分の作詞作曲した歌を彼女に歌ってもらうことに恐懼(きょうく)感激したという佐藤千夜子は、その後人気歌手の地位を失い、持病のパセドー氏病に悩み、戦後は老い、落魄(らくはく)してついには青山のあるビルの掃除婦にまでなったが、しかも若いころの浪費癖とぜいたくは完全にはやまず、知人たちの間を借金して歩いた。
やがて乳ガンのために新宿の都立大久保病院に入院し、かっては身長165センチ、体重75キロ、バスト100、ウエスト78、ヒップ110というグラマーを誇った肉体が、両乳房を切りとられ、空気のぬけた袋のようになってベッドに横たわった。その後も、ときどき「東京行進曲」のレコードをかけてもらって、とじた眼から涙を流して聞いていた。
昭和43年12月12日、意識が混濁しはじめ、「あら、藤原あきさんはもうお帰りになったの」などと、ずっと以前に亡くなった知人の名を口走ったりした。そして翌13日午後2時、息をひきとった。

                                      • -

佐藤千夜子 Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%8D%83%E5%A4%9C%E5%AD%90&sa=N&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=0h8xUsSbNca9kAW874GoAw&ved=0CCoQsAQ4Cg&biw=1034&bih=568&dpr=1